茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.13マスター2005-03-03 23:31:06.954001+09
数ヶ月前、美術番組にゲストで出演したニューヨークで活躍中のアーティストが「新しいアイディアを考え付かなくなったらと思うと不安になるけど、この人の気持ちがわかる」といったニュアンスの話をしていました。安倍さんに、安倍さんはどうですか?と聞いたんです。すると安倍さんは「私は考えるんではなく、次々と湧いてくるんです」といった言い方をされていました。だからそのようなことは考えたことがないというように聞きましたんで、成る程とすっかり感心してしまいました。
No.14したり尾2005-03-04 07:59:51.285512+09
「湧く」という安倍安人の言葉は「そうだろうな」と思いました。これは、いろいろなジャンルで重要なキーワードです。
ある世界的な生物学者が、重要な発見をしたときのことを振り返って、「頭の隅に転がしていたら、突然湧いてきた」と表現していました。学問の場合は、それを説明するのが大変なのだそうです。その説明を「理論」というのだと教えてくれました。
どのジャンルでも、重要なアイデアは「湧いてくる」ものだと思います。それが激しく出てきたとき、人は
「閃いた」といいます。
物事を習得する場合もそうです。徐々に坂道を登るように習得するのではなく、習得できなくて、もがき苦しんでいるうちに、ある日、突然できるようになってしまうことがある。つまり「湧く」のです。
だからニューヨークの作家の言葉は、明らかに間違いです。「考えて」生まれ出るものは、大したものではありません。
ただし、湧いたり閃いたりするためには、条件があります。それは、絶えず、そのことを頭のどこかに転がしておくこと。絶えずです。
多分安倍安人は、絶えず焼き物のことなどを、頭の隅に転がしているのだと想像します。それは、大したことではないように思われがちですが、実は大変なエネルギーの要る作業です。何よりも、私はそのエネルギーに脅威を感じます。極端な言い方をすれば、エネルギーこそ、安倍安人の価値です。
天才といわれたゲーテが「天才とは、努力する才能である」という言葉を遺しています。それは、持続するエネルギーを指す言葉です。その意味で安倍安人は天才であると、私は思います。
No.15さむしろ2005-03-04 19:08:13.721205+09
遅くなりました。むつかしくなってきましたね。
一方は考え、思い悩み、変化し工夫する。
他方は泉のごとく、地下のマグマのごとく湧き出で、噴出する。
前者には限りがあり、後者は無尽蔵である。
類まれな才能があるとしても単なる努力の人、頑張る人、工夫し考える人と天才は違うのではないでしょうか?それも桁違いに。
「頭の隅に転がしている」は面白いですね。
わたしはこう言いましょう。「安人は一体となって同居している」と。
No.16したり尾2005-03-04 21:16:34.052139+09
ゲーテの遺した言葉を書き入れてしまったので、話がややこしくなったのかもしれません。「努力」という意味は、「エネルギーを保ち続ける努力」という意味であると理解しているのですが。あるいは「努力」と翻訳してはいけない言葉かもしれません。いずれにしても、ゲーテ以降は、省いて読んでいただいて結構です。
もう少し角度を変えて、いつかこの話の続きをしましょう。どう言えばお分かり頂けるか、少々考えてみます。
No.17さむしろ2005-03-05 01:43:54.822698+09
ほぼわかる気がします。
「むつかしくなった」は「いいですね」「おもしろいですね」の意と理解して下さい。
天才話のついでに、司馬遼太郎は八木一夫のことを千年に一人の天才であると評した、と記事にありました。八木一夫のことはほとんど知りませんが、千年に一人の天才ということは、その作品は千年後にも評価され、また芸術性を持ちつづけると理解していいんでしょうか?
安倍安人を400年に一人の天才造形家と評するさむしろとしては見過ごせない記事でした。
八木一夫が本物の天才か、司馬遼太郎は一流の鑑識眼を持つ目利きか、はたまた芸術オンチの大ボラふきか。
江戸時代と違い現代では、だれがだれをどのように評価したかの資料・記録が後世まで残り、評論家、専門家といわれる方達には大変な時代ですね。
No.18したり尾2005-03-05 08:46:30.870401+09
どんなすばらしい活動をした人間も、誰かに発見され評価されなければ、いなかったことになってしまいます。
また、その時代に、それこそ天才だと評価された人も、次の時代に消えてしまうこともある。かといってその人間に才能がなかったのかといえば、そうも言い切れない。
また、亡くなってから随分後になって評価される場合もあります。音楽家のバッハは今では大変有名ですが、彼が評価されたのは、死後80年も過ぎたあとでした。しかも、評価した人間が大変高名な人でしたから、運良く「天才」の一人になることができたことでした。
要するに評価の問題ですから、何とも言えないというところです。
あらゆるジャンルで、すばらしい作品を制作しながら評価されずに埋もれてしまった人々は、数限りなくいるに違いないと思います。
過去に天才と評価された人々の多くは、評価した者が高名であったということが多いのです。そして、一般的に分かりやすいという側面もあるように思います。まだ、多くの面もありますが。
この議論は、なかなか難しいですよ。
No.19したり尾2005-03-05 09:52:33.724815+09
付け足したいことがあります。司馬さんは、そうのように思ったということでしょう。そして、さむしろさんは、安倍安人を天才だと思う。
客観的にいえば、司馬さんとさむしろさんの価値基準がどうであるか、お互いどのような意味で言っているのか。司馬さんの正確な理由を知る必要がありますね。
もっとも、天才は、ひとつの時代に一人というわけでもないしね。
やはり、この議論は難しい。私が安易に「天才」という言葉を遣ってしまったのが間違いでした。
しかし、個人的には安倍安人は、少なくとも、現代の
天才の一人であると思いますよ。(存じ上げない作家もまだまだ、いらっしゃいますから、あまり強くは言えません)
No.20さむしろ2005-03-05 15:55:23.408433+09
記事をみた直感での印象です。八木一夫は実用を離れたヤキモノ(の造形物)を世に送り出した。それは縄文の火焔土器以来だれもなしえなかったものである。数千年の間誰もなし得なかったことをしたということは稀に見る才能の持ち主である。ゆえに彼は天才である、と司馬遼太郎は、思った。
なお直感以外の根拠はありません。
まず早い機会に八木一夫の作品を見てみたいと思います。
No.21さむしろ2005-03-05 16:27:20.13894+09
そうですね。見てからですね。
今日は、唐招提寺展を観にいってきました。いろいろ思うところがありました。それは、もう少し頭の中を整理してからにしましょう。
少々疲れました。おいしいコーヒーが飲みたい。
No.22マスター2005-03-05 22:52:17.929554+09
お疲れさまでした。
おいしいコーヒーです、どうぞ。
唐招提寺展、人それぞれいろいろな感慨があるのでしょうね。また、ゆっくり聞かせて下さい。
No.23したり尾2005-03-06 09:17:50.828867+09
唐招提寺展を観て様々なことを感じ、考えました。いっぺんに書くと長くなりますから、ひとつずつ書いていきます。
大変混雑していましたから、私は、金堂の本尊盧遮那佛と鑑真和上像を中心に観てきました。(その他、ついでにいろいろ観ましたが、それは後ほど)
まず感じたのは、その精神性の高さです。
もちろん、日本は千年以上仏教文化の中にあるのですから、仏像に対する思い入れは、否応なしに、私の中にもあり、それを計算に入れて考えなければいけません。しかし、私はできるだけ、客観的に彫刻のひとつとして観ようと思いました。
それにしても、精神性の高さに圧倒されました。(あれを作ったのが、無名の工人、あるいは工人集団であったということにも、個性を重んじる現代人の私にはショックです)精神性の高さは祈りとか、思いとか、志とか、そんな言葉に言い換えてもいいかもしれません。
美術作品の説得力は、制作者の志にあると思っていますが、そのことを強く確認しました。現代美術の本質的に欠けている点がここにあると確信しました。(安倍安人の焼き物の作品の本質も、精神性の高さであると思っています)
しかし、仏教を信じようが信じまいが、仏教文化の中に育った私が本当に客観的に観ることができたのか、不安は残ります。まもなく、中宮寺の菩薩像も公開されますので、それも観て、私の中のもやもやを整理したいと思います。
しかし、精神性とか、思いとか、志とか、作品のどこに、どのように現れているのか、実はうまく説明できないのです。そこが、私が、今回もうひとつ自信を持って書けないところです。
その他、西洋美術との違いなど、考えるところがありましたが、次の機会に回します。
なお、()に括った部分は、いずれ、一つ一つ、話し合いたいテーマです。
No.24マスター2005-03-06 14:02:10.627547+09
う〜ん。
とりあえず薄茶でも一服いただきましょう。
したり尾さんも一服いかがですか?
No.25したり尾2005-03-06 16:35:34.082488+09
結構ですね。頂戴しましょう。
No.26マスター2005-03-06 18:43:01.618005+09
茶碗は伊部の二碗ですがどれにしましょうか?
No.27したり尾2005-03-06 20:42:16.366219+09
私は、左の伊部手で頂戴したいですね。
右の伊部も枯れていて、なんとも味わいがありますが、左の伊部は、いかにも窯がそのように焼いてくれたような気がします。
それに、そろそろ春ですものね。迷いましたが、左の伊部でお願いします。
No.28マスター2005-03-06 20:47:11.131703+09
さすがにお目が高い。
No.29さむしろ2005-03-07 12:34:57.776132+09
安人の代表作のひとつでしょうね。手にとってみたことがあるけど、1300度を超える炎が燃え狂う穴窯の中からよくぞ生まれてきたな、備前でこのようにきれいなものが焼けるのか、と驚きました。
No.30マスター2005-03-07 12:41:33.836684+09
備前の山土だからこそ焼けた、とも言えるんでしょうね。他の土をあそこまで焼ききったらとっくにへたっていますね。
No.31さむしろ2005-03-07 12:47:21.020098+09
備前で濃茶を点てると言えば、お茶人さんからお叱りをうけるかもしれないけど、古い高麗茶碗でもあれほどの品格を備えた茶碗はそう多くはない。
No.32マスター2005-03-07 13:05:59.25012+09
まあ、美術館にあるようなものは別としてね。
No.33したり尾2005-03-07 13:50:49.158449+09
真に結構なお手前でした。
それにしても、実に不思議なお茶碗ですね。
伊部といわれるから「そうか」と納得しましたが、黙って裸で置かれていたら、「何焼きだろう」と考え込んでしまいます。
特にゴマの散り具合、表面の仕上がり具合が不思議です。異常な名品であることは、素人にも分かります。安倍安人の作品の中でもかなり特殊なものではありませんか。
これに似た焼けの伊部手のものは過去にありますか、お茶碗に限らず。古備前展などでも見たことがないのですが、マスター。
No.34マスター2005-03-07 17:58:09.309683+09
実はわたしもそれを思っていたんですけど、この形、この味は見ていないんです。今度、安倍さんに聞いてみましょう。
No.35したり尾2005-03-07 20:07:07.6253+09
さむしろさんに伺いたい。
NO31で、あの伊部を「品格ある」と表現されましたね。その「品格」とは何ですか。そして、どのようなところに品格を感じるのでしょうか。
実は、NO23で、私は「精神性の高さ」という言葉を遣いましたが、分かっているようで、それが実態は何なのか、表現できずにもどかしいのです。
「品格」という言葉も「精神性の高さ」と似たような抽象的な言葉ですので。
是非、よろしく。
No.36さむしろ2005-03-07 21:54:26.137848+09
より正確に言えば、品格は「ある」というより「感じる」と言ったほうがいいのかもしれません。そういう意味でどういうものに品格を感じるのかといえば、清潔感、清清しさ、端正さ、そのものらしさ等等、それらのうちいくつかが備わって、ものほしそうにない(よりいい物にみられたいという感じがしない)もの、とでも言えばいいでしょうか。例えば大リーグのイチローですが、アメリカへ行った当初と外見は大きく変わっていません(ひげをはやしたくらい)が数々の実績と大記録を重ねることによって、「風格」を感じさせるようになった、と言えば理解いただけますか?メジャーリーグというもの、イチローのこれまでの実績、その難しさ等を基礎知識として持っているから感じることができるのではないでしょうか?
茶道の茶碗には、ほとんど縁がなく初めてみる人にはわからないだろうと思います(決め付けてはいけませんが)。イチローを知らない人にイチローを指差して「どうだ風格があるだろう」と言ってもしようがないだろうなと思います。また造詣の深い人でもまったく違う感覚をもった人もおられますので、あまりこだわりすぎてもしようがないと思います。
ちなみにわたしは「精神性」という語は使いません、というか使えないといったほうが正確でしょう。
No.37したり尾2005-03-07 23:00:03.658338+09
ありがとうございました。「あること」と「感じること」の違いという言葉は、かなり納得しました。
こんなことを気にするようになったのは、20年近く前に、魯山人の次のような文章を読んでからのことです。
「『長次郎というのはすごいね。何とも言えない』
 で片がついているのですが、何とも言えぬということはありはしない。これは将来は何とか言えるようにならなければならぬと思っておるのです。そうでないと物の見方が進歩しない」(「私の作陶体験は先人をかく観る」より)
たいへん痛いところを突かれたようで、それ以来、主観的な言葉を客観的な言葉に置き換えていかなけらばならないと格闘しているのですが、なかなかうまくいきません。
考えるヒントを頂戴しました。ありがとうございました。
No.38さむしろ2005-03-08 09:58:16.017872+09
山根基さんがよく使う言葉に「えも言われぬ○△◇・・・」というのがあります。説明する言葉がない、という事でしょうが、「本当にいいものなの?」と問いたいことが間々あります。安人は長次郎の茶碗を言葉で説明しています。その説明が、そのままもらさず変質させずに伝わったとは言いませんが、ある程度の部分がわたしに伝わり、思いを(十分ではありませんが)共有できたと感じています。説明ができるということは「理」があるということだろうと思います。
他面、長嶋前監督は「ガツン」とか「バッ」とかの表現で指導し、野村前監督は言葉で教えたという話がありますので、「理」があっても説明できないという、その人の資質の問題もあろうかと思います。
No.39したり尾2005-03-08 14:07:45.125151+09
おっしゃることはよく分かります。
安倍安人のすごさは、長次郎に限らず、自身の作も言葉で語ることができるという点にもあります。
ある人が「安倍の特徴は自分の作品を客観視できるところにある」と言っていましたが、ほとんど同じ意味でしょう。
おそらく努めて言葉にするようにしているのだろうと思います。
芸術は情緒的なものだと思われがちですが、作家にとっては決して情緒的なものではないはずです。それは、本来、鑑賞者にとっても同じことです。
放送の中で「えもいわれぬ」などど言うのは、伝えることを放棄しているのと同じことです。
五感で感じるものは、とかく表現しにくいものです。しかし、そこを何とか言葉にしてくれなければ、伝わりようがない。残念なことです。
イチローなどは、自分のプレーを見事に言葉にして語っています。その意味では安倍安人と似たすごさがありますね。長嶋は、私にはよく分からない人物です。
No.40さむしろ2005-03-08 23:27:13.310533+09
「えもいわれぬ」と言いながら、他に適当なほめ言葉がなく、やむなく出た言葉かな?と同情的な目で見ることもあります。イチローのバッテングには「理」があると思っています。どうしてもバットに当たってしまう、空振りが出来てうれしかった、バットはボールを捉えるべくして捉える等の発言は安人がよく言う、理論どおりに焼けばあの焼き味になります、と通じるものを感じます。
No.41したり尾2005-03-09 08:31:50.065614+09
イチローには「理」がある。そのとおりです。
さむしろさんは、安倍安人にも「理」があると思いますか。
私は、イチローと安倍安人には共通点が多いと思っていますが。別の人格ですから相違点も多いのは当然ですが。
No.42さむしろ2005-03-09 10:07:14.479334+09
はい。安倍安人には理があると思っています。
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