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No.765 | さむしろ | 2006-01-05 11:31:59.576604+09 |
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「生爪」同形花入の利休の書付が後世のものとの説ですが、大いにありうることだと思います。 資料として茶会記の重みが増してくるように思います。 「織部様式」なる語がいつから言われているかわかりませんが、安倍安人さんが言い始めたとの話をきいたような記憶がかすかにあります。根拠となるものはありません。 |
No.766 | したり尾 | 2006-01-05 13:57:34.952287+09 |
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やはり「茶会記」を待つしかないようですね。 「織部様式」の話です。 利休の時代には、長次郎以外に「織部様式」を作る作家がいなかった。長次郎こそ織部様式の生みの親であって、利休没後、古田織部の時代になり、その様式を発展させる作家が何人か生まれてきたと私は推測しています。 おそらく「織部様式」と命名された方も、そう意識したのではないだろうかと思っています。 しかし、この推測も「茶会記」を待たなければ正しいものか間違ったものか、結論は出ません。 また、現存する「茶会記」に残っていなくとも、利休が織部様式の花入なり、水指なりを持っていなかったとも言い切れるものではありません。既に失われた茶会記も多々あるでしょうから。 |
No.767 | さむしろ | 2006-01-05 19:17:30.496448+09 |
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したり尾さんの、長次郎こそ織部様式の生みの親との説については多少異論がありまして、わたしは長次郎に焼かせた指導者がいたとの想像をしています。これは以前にも少し論争をしていますので、新たな材料がはいったときにやりましょう。 茶会記の記録中利休が亭主というのが18回というのは、全茶会数からみると極めて少ないというべきだろうと思います。しかし全体をみると傾向は現れていると考えていいと思います。 したり尾さんのおっしゃるように茶会記にも失われたものも多いと思いますが、未公開のもの、未発見のものもまた多数あるのではないかと期待しています。 |
No.768 | したり尾 | 2006-01-06 16:16:40.346795+09 |
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前々から18回の茶会というのは、不自然だと思っていました。利休の手紙でも忙しくてたまらないとこぼしていた内容があったような記憶もありますので。 ともかく、水指の記述のある茶会記がさむしろさんのお手元に入れば、少しは分かってくる可能性があると期待しています。 長次郎論については、考え方がまとまりつつあります。しかし、少なくとも「矢筈口」の謎をある程度解くまでは、さむしろさんのおっしゃるとおり、やめておきましょう。そうでないと中途半端になってしまいますから。 |
No.769 | さむしろ | 2006-01-06 22:00:46.880543+09 |
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茶会記は、松屋会記、天王寺屋会記、宗湛日記、今井宗久茶湯書抜等々の18冊の茶会記から書き出したものです。 利休の18回というのも、茶会記の作成者が利休の茶会に招かれたときの記録をしたものであって、残念ながら利休の自らの茶会記ではありません。 |
No.770 | したり尾 | 2006-01-07 08:45:36.760106+09 |
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そうでした。 利休の手紙も戦後になってから発見された真筆がいくつかありますから、茶会記も出てくる可能性はありますね。気長に、網を張っていることが必要でしょう。茶釜も同じように、まだ、どこかの道具屋の隅に、矢筈の原型と思われるような面白いものが転がっている可能性はありますかね。 |
No.771 | さむしろ | 2006-01-07 21:39:46.176343+09 |
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招かれた茶会が多数入っていますので、正確ではありませんが18冊といっても亭主の数は200を超える人々です。結構広い範囲のデータといえるかもしれません。 モデルの釜ですが、これはほとんどといっていいくらい転がってはないでしょう。転がっていれば大掘り出しです。 姥口の着想だけで必要十分であったのかもしれません。 |
No.772 | したり尾 | 2006-01-08 09:21:06.931427+09 |
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利休主催の茶会だから意味があると思うのですが、そうでなくとも何か分かるのですか。 茶釜は、そうかもしれませんね。 |
No.773 | さむしろ | 2006-01-08 16:42:23.838431+09 |
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利休が、あるいは織部が催した茶会記があれば最も望ましいのですが、それが望めませんので、ではなにがよいかといったときに、数人の茶人の記録より多数の茶人の記録のほうが傾向がでやすいのではとの考えです。 |
No.774 | したり尾 | 2006-01-08 21:50:21.263525+09 |
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確かにある時代の茶会の傾向は分かるでしょうね。流行の品々も分かるでしょうし。 あまり先入観は持たないでおきましょう。 |
No.775 | さむしろ | 2006-01-09 19:32:59.357173+09 |
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弘治三年銘の備前焼旅枕花入の写真がありましたので「ものはら別室」に載せてもらうようにお願いしました。 「年」のほかに「備州大瀧山中道院 常住物」と彫りこまれているようです。 矢筈というよりも口縁を丈夫にするためのものと考えたいと思います。ヘラ目もあります。 また、「南蛮耳付水指」も掲載してもらいます。共蓋となっています。16−17世紀とありますが、製作年代、伝来時期は未詳ともなっています。昨年愛知県陶磁資料館で開催された「桃山陶の華麗な世界」展の図録掲載のものです。年代は若干下るとの印象をもっています。 |
No.776 | したり尾 | 2006-01-09 20:10:09.516464+09 |
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見つかりましたか。では写真を待ちましょう。 |
No.777 | したり尾 | 2006-01-10 12:26:58.623172+09 |
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「別室」の旅枕、拝見しました。解説の文にあるとおり、これが「矢筈」の始まりだとは言えませんね。水指も「矢筈口」とはかかわりがなさそうです。 となると、次は茶会記ということになりますが、今までのところは、「矢筈」は茶釜からの影響の線が、もっとも説得力のある説でしょう。 |
No.778 | さむしろ | 2006-01-10 22:00:05.398241+09 |
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したり尾さんもそう思われますか。 次は会記を急ぐようにします。 |
No.779 | したり尾 | 2006-01-11 15:09:29.027122+09 |
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それにしても桂氏はあの「旅枕」のどこを矢筈口と見たのでしょう。妙に気になりだしました。 しかし、それとは別にいかにも利休好みの花入ではありますね。 |
No.780 | さむしろ | 2006-01-11 18:22:36.286744+09 |
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われわれが言っている矢筈は、名品の水指や花入にある折り返して中が空洞になったあの矢筈を言っていますが、桂さんが言う弘治年銘の旅枕花入は、内側にV字形に縁がとってあるようにみえます。断面の形から言えばこちらのほうが「矢筈」に近いのかもしれません。 桂さんが、織部様式を職人の手が長じて出来上がったもの、職人技の延長上のものと考えておられたのであれば、矢筈の原形と考えられるのも無理からぬことかなと思いました。 この花入は、さきに書いたようにお寺の常住ものであった(茶道具ではなかった)と思われますので、利休も織部も出会う事はなかったであろうと思われます。 しかしそれはそれとして旅枕花入はたしかに魅力的な花入です。 |
No.781 | したり尾 | 2006-01-12 08:32:38.457175+09 |
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もし「旅枕」の口が内側に折れているのであれば、口を内側に折るという発想においては、「矢筈口」のスタートのひとつになりうるかもしれません。もっとも「旅枕」の制作年代の確定は必要ですが。 しかし、口全体の姿は茶釜の「姥口」からと見るのが素直だろうと思います。 実際に見てみないと分かりませんが、この「旅枕」は作家ものですね。 |
No.782 | さむしろ | 2006-01-12 10:27:50.544361+09 |
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弘治3年は1557年です。 写真で見る限り矢筈は折り返したというより、押しつぶしながら内側へつまみ出したという感じですね。 常滑の古いものには外側に折り返して口造りをしたものがあります。 昔から口部を丈夫にしておくという発想はあったようですから、今のところその流れのものと考えたいですね。 |
No.783 | したり尾 | 2006-01-12 12:58:37.104099+09 |
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「年代確定をする必要がある」と書いたのは、弘冶3年という年が、本当に正しい制作年代といえるのかという意味です。利休の朱書きそのものが、後に書かれた可能性もあるということでしたので。 口を丈夫にする工夫は昔からあったというお話は納得しました。すると、ますます、この「旅枕」は矢筈とはあまり関係のないものだということですね。 |
No.784 | さむしろ | 2006-01-12 18:03:08.11224+09 |
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なるほど。 ただ弘治3年というのは花入そのものに彫りこんであるようですから信憑性は高いのではないでしょうか。 少なくとも弘治2年、3年以前ということは無いでしょう。お寺への寄進ということであればほぼ間違いないと思いますが、弘治3年の寄進目録にのっとって4年あるいは5年に焼き上げて寄進したということはなくはないかもしれません。 |
No.785 | したり尾 | 2006-01-13 11:31:40.403908+09 |
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彫り込みなら、前後少々の違いはあっても間違いはないでしょう。 |
No.786 | さむしろ | 2006-01-14 17:46:34.592649+09 |
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少し大きめであるとどこかに書いてあったように思います。それで茶陶ではないとの印象です。 制作当時に時代を変えるようなものではないような気がします。 やはり時代はあっているということでいいんでしょう。 |
No.787 | したり尾 | 2006-01-15 10:19:32.764339+09 |
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曖昧な記憶で申し訳ないのですが、確か利休の竹花入も実物は想像以上に大きかったように思いました。 例の「旅枕」は、どの程度の大きさなのか知りたいですね。 また、何かの転用であるならば、何からの転用なのでしょうか。写真で見る限り転用であるようには思えないのです。実物を見ないと確信は持てませんが。 |
No.788 | さむしろ | 2006-01-15 20:36:24.419656+09 |
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大きさは気をつけていればそのうちにわかるでしょう。 太郎庵、三角花入が25〜26pですから、それらを基準にして大きいとの理解をしています。お寺で仏さまに花を生けて供えたのではないかとの想像をしています。 そうであれば一対であったという可能性もあります。 |
No.789 | したり尾 | 2006-01-16 13:28:09.211149+09 |
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仏像に対する花入にしては、やや粗末というか、芸術的過ぎるというか、そぐわない感じがします。土もので、仏具は相当珍しいでしょう。 初めから茶席の花入という気がしますがね。 |
No.790 | さむしろ | 2006-01-16 20:36:09.339489+09 |
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どういう使い方をしたのかわかりませんが、茶道具に「弘治三年 備州大瀧山中道院 常住物」などと彫りこむでしょうか? 品のある彫りではありません。 ただ釜には常住の旨の文字が鋳込んであるものがあったような記憶がありますので全否定はできませんが。 茶会記には1567年備前物花入、1578年備前物花入、備前筒が出てきます。弘治3年1557年に花入を作ったでしょうか? |
No.791 | したり尾 | 2006-01-17 09:41:02.491683+09 |
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そう言われてみるとそうですね。 姿といい箆使いといい、写真で見る限りなかなかの代物だと思われましたので、茶道具ではないかなと想像したのです。しかし、写真にはしばしば騙されてきました。 それに本題は「矢筈の謎」でしたものね。この花入にあまり深入りしないほうがよさそうです。 |
No.792 | さむしろ | 2006-01-18 00:19:54.014258+09 |
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矢筈が本題ですが、当時(1500年代後半)はどのような水指を使っていたのでしょうか? 「山上宗二記」(天正16年、1588年)の名物水指の項に、紹鴎芋頭、紹鴎信楽、信楽鬼桶、宗及芋頭とあり、他のものにせいかい(備前)、肥前いもかしら(備前の間違いか?)、破桶、たらい(備前か?)などの記載があります。 これらは南蛮、信楽、備前ですから他は胡銅とかでしょうか?思い浮びません。 早く茶会記を確かめたい。 |
No.793 | したり尾 | 2006-01-18 09:15:01.434959+09 |
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夏は木の曲げ物などがありますね。 焼き物の関係では、殆どが「芋頭型」です。いずれにせよ、芋頭や桶では「矢筈口」になりようはずがないので、さむしろさんのおっしゃるとおり、是非是非、この先の調べがほしいですね。 |
No.794 | マスター | 2006-01-18 18:01:20.446451+09 |
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1月15日(日)に安倍先生の「山のスタジオ」に行ってきました。広大な播磨自然高原の中に、緑に溶け込むように点在する別荘のうちの一つがそれでした。 天気もよく暖かで、山の空気をいっぱい吸ってきました。 あれやこれや話が弾んで、気が付いたときには外は少し薄暗くなりかけていました。慌ててベランダに出て撮った写真で少々暗いですが別室に載せました。 |
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