茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.735したり尾2005-12-23 16:21:52.750469+09
花入は、こんなに大きいものだったのかと驚いた記憶があります。あれは、水指の転用であれば納得がいきます。「矢筈花入」が水指より先にあったとは、想像できません。
破桶は、もちろん原型が木桶であったことは、容易に分かります。
あの時代、何でも試してみたのだなとつくづく思います。発想の問題ですね。
No.736さむしろ2005-12-23 17:45:49.370195+09
たしかにびっくりするほど大きいですね。
水指を脇に置くときに使う細水指というのがありますが、いつ頃からあるのかは解かりません。

ただ花入を水指の転用と考えた場合掛け花用のカンをつける穴の説明ができませんので、一部転用があったかもしれませんが、最初から花入として作られたのではないでしょうか。

水指ができて、それを参考に花入ができたと考えたいですね。

破桶の件ですが、全てのものといっては語弊があるかもしれませんがほとんどのものにモデルがあるということで、矢筈にもモデルがあったと考えたいということです。
袱紗さばきもキリスト教の作法のなかから採り入れたとの話がありますし、矢筈がまったくの創作だったということのほうが考えにくいように思います。
No.737したり尾2005-12-24 16:25:31.04+09
花入のカンの穴は、初めのうちは、後からあけたのかなと思っていました。
「矢筈のモデル」というのは、矢筈口のモデルという意味ですか。
もうひとつ、前々から気になっていましたが、袱紗の使い方のモデルといわれるカソリックの儀式とは、具体的にどんなものでしょうか。私もその話をどこかで耳にしたことがあって、それ以来、カソリックの宗教儀式に参加する機会があるたびに、よくよく目を凝らして見ているのですが、それらしき事は、今のところ何も起こりませんので。
No.738さむしろ2005-12-24 18:31:12.995579+09
矢筈(部分)は釜の姥口がモデルではないかとの仮説です。ただ「うばぐち」ではさえないので「やはず」と呼んだのではないかと…。
蓋を考えた場合に随分と都合がよいのではないでしょうか。

胴体部分は釜であるか、野菜であるか、その他の器物かを変化させたものが考えられます。

袱紗の扱いは、茶入、棗、茶杓を扱うとき、釜の蓋をとるときなどに用います。茶入をきよめる(拭く?)前に袱紗をあらためる作法がありますので、そこらに共通する扱いがあるかもしれませんが、よくはわかりません。
No.739したり尾2005-12-24 22:06:11.749452+09
「矢筈口」は、さむしろさんのおっしゃることで、間違いないでしょう。いずれ写真も見せていただけるのを楽しみにしています。

袱紗については、お茶の使い方は理解できるのですが、カソリックでそのようなものを使うのかどうか、分かりません。いずれ、カソリック関係者を探し出して聞いてみましょう。
No.740マスター2005-12-25 22:01:36.41519+09
今日、牛窓のアトリエを訪ねました。ちょうど関西在住のIさんも遊びにきておられました。
30年程前の絵と近作の水指を並べて見て、水指の造形のみでなく総合的なアート性を強く感じました。

波乱の05年も終わりに近づくと同時に06年の新企画に向けて準備が始まっているようでした。

06年にどのような作品が送り出されてくるか楽しみにしたいと思います。
No.741さむしろ2005-12-26 18:02:28.094721+09
ものはら別室に釜の写真が載りました。想像力を膨らませて見てみて下さい。
No.742したり尾2005-12-27 14:58:43.08855+09
ことに「四方面取羽釜」辺りは、そのままでも水指になりそうですね。さむしろさんの説は、まず間違いないでしょう。

マスターが安倍さんのお宅に行かれたとの事、うらやましい限りです。
安倍さんは、何といっても焼き物を芸術まで高めていったことが最大の功績でしょう。
No.743さむしろ2005-12-29 17:59:57.225581+09
ヒントを与えた者がいるはずで、その者はだれか?

ひらめいた者がいるはずで、その者はだれか?

作った者がいるはずで、その者はだれか?
No.744したり尾2005-12-30 14:13:36.692319+09
さてね、そうなると難しい。
大体、釜から水指へという変遷そのものを殆どの人は理解しないでしょうしね。
和物の水指の第一号は一体なんですかね。
昔は水指は南蛮物の壷を見立てたのでしょう、確か。
さむしろさんのお説に従えば、「矢筈口」は純粋国産品ということになりますね。
水指だけでなく、花入も含めて「矢筈」の古いものを探すことが必要でしょうね。
No.745さむしろ2005-12-30 14:54:59.166588+09
和物第一号ですか。古い茶会記からどのようなものが使われていたかを調べるのが良いのですが、ふさわしい資料を持ち合わせません。
茶碗だけ抽出したもの、花入だけ抽出したものは入手しました。水指は探しているのですがありません。
信楽の鬼桶を用いたのは結構最初のほうに近いのではないでしょうか?

「釜がお手本」説の場合、耳の説明もしやすいのではないでしょうか?
No.746したり尾2005-12-30 17:28:16.693493+09
花入の中で「矢筈口」のものは、いつぐらいですか。それが分かれば、水指は、それ以前であったという見当がつきますから。
No.747さむしろ2005-12-30 18:23:49.399674+09
NO734に『茶会記に1587年に「備前物ノ新キ花瓶」を用意したとの記述があります。
織部は1599年より備前水指をしきりに用いた、とありまた、「備前筒花入」を使った記録がある。
1601年の茶会記に「備前三角花入」の記述。』

と書きましたが、「矢筈」の語は今のところ記憶がありません。
「新しき花瓶」とある花瓶について。通常花入には花を生けて茶室に掛け、または置くのですが、花は生けずにおき、その日の主客に生けて貰うことがあります。その場合に用意しておくのを「花瓶」と呼ぶようです。従って、ものとしては花瓶も花入です。
1601年使用の備前三角花入は矢筈ではないでしょうか?
No.748したり尾2005-12-30 22:51:39.811167+09
・・・か、どうか。
なにか証拠のようなものがほしいところですね。
でも、段々いいところに近づいているのかもしれません。
No.749さむしろ2005-12-31 16:34:03.322551+09
証拠とはなりませんが…。
備前筒花入、銘「北向」というのがあります。一重口になっています。解説では「すなおな筒形の掛花入。備前では珍しい作例である。」となっています。一重口は少なかったと読んでもいいのではないでしょうか?一重口花入は図録でもほとんど見ません。
箱には利休所持とあり、利休の師である北向道陳所持のものが利休に伝来したと考えられているようです。
No.750したり尾2005-12-31 20:02:38.686018+09
この話は、どうやら年を越しそうですね。
さむしろさんは、一重口と矢筈口の関係を、どのように捉えていらっしゃるのでしょうか。
No.751マスター2006-01-01 01:03:38.141317+09
あけましておめでとうございます。

安人造備前茶碗で薄茶をいただきながら新年を迎えました。

楽と織部様式の同根論を論じていますが、より説得力をもたすためにも、安倍さんに楽茶碗を作っていただくというのが今年の初夢です。

本年もよろしくお願い致します。
No.752したり尾2006-01-01 09:44:04.513473+09
おめでとうございます。
皆様、今年もいろいろご迷惑をおかけすることになると思いますが、よろしくご指導ください。伏してお願い申し上げます。

安倍安人に「楽」を制作していただくとの夢、誠に結構ですね。
叶うことを祈ります。
No.753さむしろ2006-01-01 11:50:37.128791+09
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

安人作の楽茶碗を見たことがありますが、楽への考えを一変させるほど強烈でした。造形はほとんど施されていませんでしたが大変魅力的でした。現在の造形を加えればと想像しただけでワクワクします。

一重口と矢筈口ですが、まず最初に(茶の湯に)備前物を用いたのは雑器の中からのとりあげであったであろうと思います。それが一重口の水指(あるいは花入)です。ただ一重口には後に水指として作られたものもありますのでそれとは区分します。
それに対し矢筈は最初から茶陶として作られたと考えています。

矢筈については意外な見解がありましたので後ほど紹介します。
No.754さむしろ2006-01-01 19:36:26.747173+09
桂又三郎氏の著書に
「室町末期の末ごろから、桃山にかけて矢筈口の水指が焼かれている。この矢筈口は旅枕花入からヒントを得たものであろう。従来古田織部の創意であるといわれていたが、実物はもっと古く、重美に指定されている弘治年銘の備前焼旅枕花入も矢筈口になっている。」

との記載がありました。弘治年銘の備前焼旅枕花入の写真がないのではっきりとしたことはわかりません。

同書に「たらいの水指、利休所持、(略)古備前、ふちのあつき物、(略)」とあり、はたして矢筈のヒントとなったのかそれとも口辺があつい物は結構あったということなのかわかりません。
強度を考えればあついほうが普通とも言えます。
No.755したり尾2006-01-02 09:23:19.066478+09
桂氏のいう「旅枕」がどんなものか想像がつかないので、コメントはできません。どこにあるのでしょう。
素直に考えれば、蓋をするという目的から「矢筈」はできてきたはずです。水指のほうが先にあったと思えます。
また、何も備前が初めであったかどうかも分かりませんから、信楽や伊賀、瀬戸などからも探した方がいいかもしれません。

写真は参考にはなりますが、結局一面しか分かりませんし勝手なイメージを描きがちですから、できれば実物で確認したいところです。

結局今のところ、私には、さむしろさんの釜からの発想という説が、一番理解しやすいのです。
No.756さむしろ2006-01-02 18:01:35.757192+09
桂氏のいう旅枕は調べればわかると思います。蓋をするとの考えも同感です。
備前以外ものとのお話はもっともです。そこで茶会記から花入を調べてみました。

1567 備前物       1578 備前物、備前筒
1579 備前筒、備前角   1580 備前物之つち
1581 備前物       1584 備前筒
1586 土の花生      1587 備前筒、備前物、土の花生、備前、備前物の新しき花瓶、備前物
1588 信楽筒(織田有楽)、備前ツツ
1590 備前筒、信楽ノツツ(千少庵)、土花生
1592 土花生、シカラキ筒 1593 土ノ花生・備前物カ、備前
1594 信楽ツツ      1599 信楽ツツ、同、備前ツツ、同、信楽ツツ
1601,02,03,04 備前筒  1606 備前、信楽筒、備前筒
1607 信楽筒  (略)  1638 古伊賀焼

限られた範囲ですが(一応著明な会記です)圧倒的に備前です。伊賀は1638まで出てきませんでした。イガイです。
No.757さむしろ2006-01-02 22:59:16.316468+09
NO756を一部否定することになりますが、次のような記述もありました。
NO756の資料を掲載した同じ本の解説中にありますが、
「生爪の花入とまったく同形の花入が伝世しており、その作品の背面には利休の判が漆書されている。(略)、伊賀花入のなかに利休の好んだ作品が含まれていることを明らかとする作品であり、また作為が強く、歪みのあるやきものはすべて利休歿後、古田織部の好みの如くされている傾向をこの花入は修正してくれる。

利休の判だとう漆書が真正なものであれば大きな意味があります。茶会記の調査をもっと広げそして深めることが出来ればまだまだいろんなことが見えてきます。
No.758したり尾2006-01-03 10:24:28.847405+09
よく調べてくださいました。
どこで制作されていたかは別にして、備前よりも、信楽や美濃、瀬戸の土のほうが当時の権力者のテリトリーの範囲内ですから、いろいろなものが制作された可能性が高いと踏んでいます。

もうひとつお願いがあります。花入もいいのですが、むしろ水指を調べたほうがいいのではありませんか。
どうしても、「矢筈」は、花入よりも水指が先にあったという考えを捨てることができないのです。

なお、私の知っている限り、信楽の水指「三夕」(中興名物)がごく初期の矢筈口(16世紀末)で、その後は志野の「古岸」(重文)と続き、備前や伊賀は17世紀に入ってからとなっています。かなりいい加減な調べですが。

No.759さむしろ2006-01-03 12:44:28.106522+09
茶会記への水指の登場記録は以前からさがしていました。
掲載の本の存在がわかりましたので出版社へ連絡をとりましたが、在庫はありませんでした。
最近、図書館の蔵書検索をしたところ京都の図書館にあることがわかりました。そこで、現在京都在住の方で借り出してコピーを取って下さる方をさがそうとしているところです。
これが手に入ると大きく解明が進むものと期待しています。
No.760したり尾2006-01-03 17:48:14.433119+09
分かりました。少し気長に待ちましょう。
別室を何回も眺めていますが、眺めれば眺めるだけ、さむしろさんの説は正しいと思えてなりません。いつか実物を拝見したいものです。
No.761さむしろ2006-01-04 14:13:04.461364+09
信楽「三夕」は今のところ確認できません。志野「古岸」は図録にありましたのでみました。
水指について、早く会記を確かめたいのですが…。
No.762したり尾2006-01-04 14:25:30.043576+09
「三夕」は「古岸」と、ほとんど同じような形をしています。違いは「三夕」は共蓋であるという点ぐらいです。
No.763さむしろ2006-01-04 17:25:43.240649+09
なるほど。
図録の解説をみますと、古岸の口まわりに蓋の置跡が残っているので共蓋だったのではとの記述がありました。
矢筈は共蓋でないとまずいですね。

NO756の茶会記中に利休が亭主となったものが18回ありますが、その中に楽茶碗以外には織部様式の茶陶らしきものが出てこないので不思議に思っていました。
NO757が正しいとすれば、利休は伊賀花入(生爪と同形)を持っていたことになり、仮説の空白部分をうめてくれそうな予感がします。
とりあえず、
利休時代に織部様式茶陶が存在したこと。
利休と織部様式茶陶になんらかのかかわりがある可能性があること。

No.764したり尾2006-01-05 10:11:40.857665+09
「生爪」と同形の利休のケラ判入りの花入の件、花押は後世の施入である可能性ありとの説もあります。そうしたことは桃山以降、風習としてしばしば行われていたということです。(「花入」(茶道具の世界9)責任編集 矢部良明 淡交社発行)
あれは確かどなたか個人がお持ちのもので、博物館所有のものと違って調査はなかなか難しいでしょう。どちらが正しいか事実は分かりません。

ところで「織部様式」という言葉は、いつごろ、どなたが言い出した言葉でしょうか。私は、安倍安人さんと出川直樹さんの書き物以外に、あまり見たことがないのですが。
この疑問は、さむしろさんの「利休は茶碗以外に織部様式のものを所有していないのはなぜか」という疑問と少々かかわりがあるもので。
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