茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.314さむしろ2005-05-18 23:10:31.085295+09
ところがですね、どうも普通の「お手前さん」で特別な人とは思えないのです。
ただ亭主の使い方は、初めに懐石での預け徳利として、その後の濃茶席で花入れとしても使ったりしているようです。毎回ではないでしょうが。
ただ、席中での存在感は相当のものであったようです。我々からみて「普通の人」にも圧倒的な存在感を与えたのは間違いないようです。
圧倒的な存在感ゆえに使いにくいということも言われていますが、他の道具との取り合わせによって互いに活かしあうことができたのではないでしょうか。
No.315マスター2005-05-19 09:57:05.163738+09
メトロポリタン収蔵記念作品展が開催され、その中で中島誠之助氏の記念講演がありました。
その内容にについて次の情報をいただきました。


中島氏は講演の最終の最終に安倍先生について概略次のように言われました。

「わたしの知り合いに安倍安人という作家がいるんだけど。かれはいいねー。人が真似できない安倍備前を確立している。
本物だよ。50年後はとんでもないことになってるだろうね」。

講演の中でいろいろ含蓄のあることをいわれた流れで最後に評価されたものですから、効果絶大。
画家田中一村の生涯にふれた話も良かったです。
      (かわにし)
No.316さむしろ2005-05-19 17:48:17.18743+09
かわにし さんいい話をありがとうございます。

中島さんは「50年後」と言われたそうですが、それは本当の評価が定まるには50年かかるという意味でしょうか?
あるいは、没後数年もたてば消え去る芸術家が多いけれど、安倍安人は50年後も輝いている、あるいはそれとも別の意味でしょうか?
No.317あしろ木2005-05-19 20:58:06.94869+09
「名品」として世に名を馳せている ということだと思います (50年もかからないと思います) (あおい)
No.318マスター2005-05-20 18:06:55.526996+09
こんな話を漏れ聞きました。

講演終了と同時にみんなが一斉に展示場に押しかけたので、主催者のライオンズのメンバーさんは、作品を台に乗せていたのでそれを守るのに大変だったそうです。
安倍さんのぐいのみ20こも即完売したそうです。
おそるべし、中島誠之助。
No.319マスター2005-05-21 15:08:10.049249+09
NO75で話しましたが出川さんの文章「ひとすじの清流」が見つかったので紹介しましょう。一度に載せられないので適当に区切っての連載とします。
H2.11.日本橋・壺中居での「安倍安人作陶展」の図録に掲載されたものです。

ひとすじの清流
―安倍安人作陶展に寄せて―
        出川 直樹

 織部様式は美の革命であった。
 左右非対称、不定形の造形から放射する生気と緊張、動きの中に
主張される確固たる存在感、常に中国大陸・朝鮮半島の影響を受け
続けてきたわが国の陶芸史の中で、織部様式こそが真の独創によっ
て、他国が二十世紀の前衛芸術まで待たなければならなかったオブ
ジェの美を併せ持つ新次元を開拓したのである。
                    (つづく)
No.320さむしろ2005-05-21 19:14:16.635924+09
15年程前の文章にしては随分新鮮な印象を受けますね。

出川さんが言う「織部様式」の評価が、今でも世間的評価として定着していないということなんでしょうね?
No.321あしろ木2005-05-21 20:00:30.349506+09
世間一般に織部を手にとって見る機会が 極端に少ないと思います
だから 出川さんの言う「織部様式」の評価は 世間一般には理解しづらいのではないでしょうか (あおい)
No.322したり尾2005-05-21 21:00:19.395989+09
久々、一言言いたくなりました。
この文のポイントは、「前衛」と「オブジェの美」であると思います。
私には、出川さんは織部様式に代表される「茶の湯」を前衛であり、オブジェの美であると捉えているように読めます。
それが正しければ、私は出川さんに全面的に賛成します。
No.323さむしろ2005-05-22 02:00:13.31939+09
世間一般に理解しづらいというのは同感です。安倍さんがこのHPのアトリエ訪問の中で「織部様式茶陶を壷や甕やすり鉢とごっちゃにみている」と嘆いておられます。

したり尾さん、文中の「茶の湯」についてですが、そのまま「茶の湯」と読んでいいでしょうか? それとも「織部様式による茶の湯の道具」と読んでもいいのでしょうか?
No.324あしろ木2005-05-22 11:37:02.975727+09
したり尾さんの意見に賛成です
ただ 活字や耳からの情報だけでは 立体のものは理解しにくく 目からだけでなく実際に手にとって体感することが 理解するための早道だと実感しています

出川さんの言葉は 現代の人にとって安倍さんの作品に照らし合わせてみる方が 理解しやすいと思います (あおい)
No.325マスター2005-05-22 17:52:15.862659+09
ひとすじの清流 2(注・文中、石は原文では火に石です)

今ひとつ日本陶芸の大きな特質は釉を施さず土のみを高温で焼締
める石器に無限の「景色」と味わいを見出しこれに高い美的価値を
認めたことで、これもやきものに対し日本人が独自に持ち得た高い
美意識として誇り得よう。
 この織部様式と無釉石器の交差する地点に花開いたのが桃山時代
の茶陶備前である。
 これが私達日本人の心に直接響く工芸品であるのは当然といえよう。
No.326したり尾2005-05-22 18:18:11.922454+09
さむしろさんにお答えします。「茶の湯」は「茶の湯」と読んでください。利休に代表される当時の「茶の湯」はまさに前衛でした。
続く文章にも出てくる「景色」という美意識は、まさしくこの時代に現れた新しい前衛的な美意識以外の何者でもありません。
出川さんの文章は、主として焼き物を語っていますが、私は焼き物のみならず、茶室という空間など、あらゆる物を含めて、「茶の湯」はきわめて前衛的であったと理解しています。
No.327さむしろ2005-05-22 21:53:57.913124+09
う〜ん。
「前衛」についてあらためて広辞苑でたしかめました。それによれば、前衛=芸術運動で、最も先駆的なグループの称。となっていました。
たしかに茶の湯について総合芸術と言うことがありますし、その芸術的要素を含んだ多くの部分があることを否定しませんが、茶の湯の本質が芸術であるとは思えません。
No.328したり尾2005-05-23 05:05:01.505216+09
「茶の湯」の本質について語るほど茶に詳しいわけではありません。また「茶の湯」の本質を語ったわけでもありません。
また「前衛」という言葉の中には、芸術部門だけではなく、さまざまな意味が複合的にあると理解しています。もっとも、今は死語に近い言葉ではありますが。
ところで「茶の湯」の本質とは何でしょうか。そして芸術とは一体なんでしょうか。
No.329さむしろ2005-05-23 11:25:44.744896+09
茶室、茶道具があって、亭主がいて、客がいて、一服の茶をさしあげ、これを喫する。

神社があって、ご神体があって、参拝者がいて、参拝をする。

神社がなくても、朝、東の空にむかって手を合わせる、ということもあります。

神社には絢爛豪華・工芸の粋を集めたものもあり、また祠、たんに石があるだけというものもあります。

「亭主がいて客がいて一服の茶をさしあげる。」このことが茶の湯のもっとも本質的な部分であると理解しています。
No.330したり尾2005-05-23 16:55:42.233521+09
お教え頂いてありがとうございます。
そのような価値観を作り上げた珠光から利休にいたる一連の運動こそ、前衛的であると思います。
また、そのような新しい価値観のもとに、無釉の焼き物に対する美意識が生まれ、同時にまったく新しい織部様式が誕生したのだと思っています。それらの作品は、現代でもなお新鮮で、きわめて前衛的な美であり続けるのだと私は思います。
おそらく出川さんもそうした理解をされ、安倍さんと共感しているのだろうと推察します。

なお、「前衛」という言葉は、軍隊やスポーツを除いて、従来の価値観を打ち破り、新しい価値観を構築するという意味で使われ、はじめは主に社会運動で、やがて芸術活動の場でも使われるようになりました。これはつけたしです。
No.331マスター2005-05-23 19:38:34.053354+09
ひとすじの清流  その3

ところが、かさついた肌、石炭カスがこびりついたような灰被り、
厚化粧じみた無理やりな景色、また無心無作為を至高の美とする民
芸思想の悪しき影響か、作家精神を放棄したかに見える土管のよう
な花入、火消壺のような水指などなど、私たちの期待に反して現代
備前の現況は必ずしも満足できるものではない。
No.332したり尾2005-05-23 20:01:08.709927+09
この部分については、私はまったく申し上げることはありません。賛成。
No.333あしろ木2005-05-23 23:53:11.889695+09
従来の価値観を打ち破り新しい価値観を構築するという意味で 利休が作り上げ現在まで続いている「茶の湯」はその当時 とても前衛的な芸術だったということがわかりました (あおい)
No.334さむしろ2005-05-24 11:00:43.936001+09
その3
厚化粧、土管、火消壺。これは強烈ですね。
漠然と感じていたことが言葉になりました。
No.335したり尾2005-05-24 15:19:43.639313+09
半日ほどこの文章を頭の中に転がしていて、ようやく気がついたことがあります。
この部分のポイントは「民芸思想の悪しき影響」です。
備前は昔から都の動きに非常に敏感な産地です。
甕や壷がはやればそればかり作り、茶陶が売れれば花入を作り、江戸期になると細工物に走り・・・、といった具合です。戦後いわゆる民芸ブームが起こるといち早くそのブームに乗っていきました。
中に伝統的な細工物を頑なに守り続けている人もいましたが、数は少ない。だから、伊部のどの店に行っても同じようなものしかありません。
今はそのブームも去り、安倍さんが売れるに連れ、似たような焼き味を作る人々も現れつつあります。
このような状況では、作家が育つはずもありません。
何人か苦労している人も知っていますが、みな余所者です。面白いことです。
その中で、安倍安人が独り、茶陶の本質を見抜き、独自の道を歩んでいるといったところでしょうか。
No.336マスター2005-05-25 09:28:56.629987+09
ひとすじの清流  その4

しかしこんな作品の洪水の中に私達はひとすじの清流を見出すこ
とができる。生き生きとしたたしかな造型と潤いのある肌を併せ持
つ安倍安人の作品群がそれである。
No.337したり尾2005-05-25 18:25:18.541105+09
そのとおりでしょう。
No.338さむしろ2005-05-25 19:10:49.39607+09
確かに、石炭カス、厚化粧、土管、火消壺のなかの安倍備前は、ひとすじの清流です。
No.339マスター2005-05-25 20:18:05.94742+09
ひとすじの清流  その5

彼の作品の持つ桃山備前の風格に、あまりに伝統に忠実すぎると
いう声も出よう。逆説めくが、伝統の打破はたやすいことである。
奇を衒って壺の胴に窓を開ければ、また備前の水指に色絵を焼付け
れば即伝統打破である。要はその手法や表現がその場かぎりではな
くそののち大きな展開の種となり得るかどうかであろう。
No.340したり尾2005-05-25 21:43:21.471918+09
「要は・・・」以下の文章が特にいいですね。出川さんの謂わんとしているところがよく分かります。
確かに安倍さんは種を播き、育ててきました。
No.341さむしろ2005-05-25 23:10:12.520726+09
出川さんがこの文章を書かれた15年程前ころの作品は、「伝統に忠実」とも言える時代であったと言ってもいいと思います。277でも書きましたが、その後造形がどんどん進化していったとの認識です。
出川さんの現在の安倍備前評価を聞いてみたいですね。
No.342マスター2005-05-26 08:29:56.094548+09
そうですね。一度、伺ってみましょう。
No.343さむしろ2005-05-26 10:18:21.077009+09
それは楽しみです。
「大きな展開」となったと見るかどうかを聞いてみたいですね。
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