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No.739 | さむしろ | 2009-06-12 18:21:21.122947 |
![]() この安倍さんの話を聞くまで、それこそ安倍さんがいうように「ごっちゃ」に考えていた。 図録中のいずれもが桃山の名品で、焼き上がりの違いで評価の高低はあるとしても、職人ものとアーティストものという線引きと、数百万と数億円の開きがあるなどということは考えられなかった。 |
No.740 | さむしろ | 2009-06-13 15:00:31.380302 |
![]() 図録にある作品は名品揃いと思っていたが、安倍さんの話では、そのほとんどが職人ものの方に区分される。 |
No.741 | さむしろ | 2009-06-14 18:12:57.55038 |
![]() そして、アーティストものと職人ものを見分けるには「造形」と「焼きなり」を注意深くみることが必要である。 私の場合は造形を見分ける方が難しいように感じている。 焼きなりのほうは、複数回焼いたことによって現れる、異なる胡麻の色、流れ、調子といったものが判別しやすいように思う。 |
No.742 | さむしろ | 2009-06-15 17:59:50.451051 |
![]() 名品といわれるものを、土着の職人が、備前で或いは伊賀で作り、焼いたのであれば破片(失敗作の)が出てくるはずなのにまったく出てこない。 あれだけのレベルのものについて一片の破片もないのはどう考えても不思議である。失敗作が一点もないということは考えられない。 |
No.743 | さむしろ | 2009-06-16 18:22:17.681284 |
![]() 一つ考えられるのは、備前の窯で、3点なら3点を焼かす。職人(陶工)は指示書に従って、例えば一つ目は、第一回焼きは赤焼きなら赤焼き、二回目はごま焼き、三回目にはどこでさんぎりを出すか、四回目にはどう仕上げる、 二つ目は、どういうふうに焼いてどう仕上げる、 三つ目は、どういうふうに焼いてどう仕上げる。 そして職人は、3点とも焼きが終ったら、上手く焼けたものも、上手く焼けなかった失敗作も、仮に割れれば破片までも全てを揃えて発注者に返す。 そのようなことをしていれば、破片の一片も出てこなくても不思議ではない。 |
No.744 | さむしろ | 2009-06-17 17:46:48.537617 |
![]() 名品である三角花入と比較して説明中のものは、備前三角花入である。 世間的にはそこそこ有名な花入で、絵葉書の写真をみながらの解説である。 所有者があり、画面に出しての解説は憚られるので、残念だが隠さざるをえない。 |
No.745 | さむしろ | 2009-06-18 17:53:50.730275 |
![]() 当初素人の目には、桃山の名品としか写らなかった。 説明を聞いて、焼きがまったくもって淡白であることは直ぐにわかった。繰り返し焼くことによって現れる肌や胡麻の変化がない。 造形については、その違いがよくわからなかった。 安倍さんは「繋がっていない、バラバラである」と言った。わかったような、わからないような、そんな話しだが、「繋がる、繋がらない、バラバラ」は「三角の面が展開していっていない」あるいは「連動していない」と言い変えてもいいと思う。 |
No.746 | さむしろ | 2009-06-19 17:42:37.157486 |
![]() 少し聞き取りにくいところがあるが、あの部分では、置いてあった安倍さんの作品をみて「あの味は窯から取り出したその時からあの味か」と質問をしたのに対して「そうだ、窯から出したときからあの味だ」と。 見た時にすでに古格があったので尋ねたら、年数を経ることが味をつくるというものではないということをいわれたところである。 堅く焼き締められた桃山備前は年数では味は変わらない。 ものによっては、たとえば萩、唐津のようなものは時代を経た味わいがある。 |
No.747 | さむしろ | 2009-06-21 18:33:32.529178 |
![]() 見ているのは、某出版社の日本陶磁シリーズのうちの「備前」である。多くの備前作品が載っているが、安倍さんがいう「アーティストもの」はわずかしか載っていない。 わたしには大変紛らわしいものが多いが、一点づつ説明をうけると納得できる。 多分、掲載作品のうちアーティストものは、水指で数点、花入で数点、鉢で数点(いづれも多くて十点程度以下)程度ではないか。 ここでの数は確かめたものではないので正確ではないが、「これは」と思ってもほとんどが職人ものであるということである。 |
No.748 | さむしろ | 2009-06-22 18:01:29.633583 |
![]() 限られた数の作品ではあるが、安倍さんが「なんでそこまで求めたか」と問うほど手をかけているという。 やはりそれらは「特別」な作品であったと考えるしかないのではないか。 |
No.749 | さむしろ | 2009-06-23 19:08:59.533183 |
![]() 「そこまで求めたもの」は『造形』と『焼きナリ』の両方にあると思うが、自分の体験から、造形についてはなかなか解かりづらい。 焼きナリは、数度にわたって焼かれた変化、重なりからみることが出来る。 |
No.750 | さむしろ | 2009-06-24 18:41:58.998346 |
![]() 「重なり」と書いたが、これはNO738で書いた上から下に流れる胡麻の上に横切るように胡麻が流れていたり、サンギリの上に胡麻がかかっている場合などのように一回ではできない現象が複数現われていることをいっている。 |
No.751 | さむしろ | 2009-06-29 19:10:02.950997 |
![]() 「備前三角花入の造形の原形は楽茶碗である」という話を最初に聞いたときは驚いた。 楽茶碗の造形を誇張したものが「織部」であるという「織部」は、茶碗だけでなく花入、水指をも含み、これによってつくられたものを「織部様式」といい、備前三角花入は織部様式で造られている。 どう違うかといえば、楽茶碗には「面」があり、他のロクロで挽いたものには「点」あるいは「点と点」を結んだ「線」しかない。 ビール缶の上面下面は別にして側面には面がないというのである。あるのは点の連続であり、点と点を結んだものは線でしかない。 と、こんな話だろうと思うが、この「面」の部分が安倍理論の最も重要な部分をなすものだと理解している。 |
No.752 | さむしろ | 2009-06-30 18:28:43.17201 |
![]() 造形だが、ゆがめてあると考えず面によって作られていると考えたほうがいい。 折り紙を思い浮かべてもらうと、バラ、紫陽花、象、兎など驚くほど多くのものが三角あるいは四角の面で表現されている。 |
No.753 | さむしろ | 2009-07-01 19:26:15.659741 |
![]() なにゆえ面を必要としたか?それは量を求めるためであった。 量とはなにか、奥行き、目方、大きさなどで、これは彫刻の思想である。 |
No.754 | さむしろ | 2009-07-02 19:45:24.77565 |
![]() 奥行き、目方、大きさなどの量でなにをしようとしたのか? 彫刻の思想が何故必要なのか? 茶碗と彫刻とどう繋がるのか? |
No.755 | さむしろ | 2009-07-03 18:43:45.069982 |
![]() 以前取り上げたギリシャ彫刻のところを読み返していただければ理解の助けになるかもしれない。 私は、動きを表現しようとしていると理解している。言い方を変えると「表情」を表現しようとしているということができる。 |
No.756 | さむしろ | 2009-07-04 19:30:15.033658 |
![]() 缶の一ヶ所を押してこれが面であるとの話があった。 面は一ケ所だけつくるということではなく次々と展開させていき、そして全体を一周する。 |
No.757 | さむしろ | 2009-07-05 19:04:30.051753 |
![]() 以前、安倍安人作備前花入の三角の線に沿って細幅に切ったテープを貼り付けてみたことがある。テープは波打つように全体を覆った。 花入を見ていると気持ちが悪くなりそうで長く見ることができない。 安倍さんは、解説中の古備前三角花入を手にとってみたことがあるが、「動き」に気持ちが悪くなったと言っておられた。 三角の展開に沿って動きが生れているということのようだ。 「人の流れに酔う」ということがある。 (東京の)通勤時、右に左にと乗り換えに急ぐ、人の流れをみていて酔ってしまったという体験をされたかたがあるかもしれない。 |
No.758 | さむしろ | 2009-07-06 18:08:21.706897 |
![]() 花入を或いは茶碗、水指をみて酔ってしまったり気分が悪くなってしまったんでは、茶道具としてあるいは鑑賞陶としての役に立たない。 安倍さんは、その花入なりにいれられたヘラ目が、その回転運動を止める作用をはたしていると説明されている。 その部分は後で出て来ると思うので、そこでよく聞いていただこう。 |
No.759 | さむしろ | 2009-07-07 18:08:24.453417 |
![]() 宇宙は無限である。無限思想を茶碗に表そうとした。無限は、三角の面の構築でないとでてこない。 この部分は大変難解で、ここで解説するほどの理解ができていない。掲載中の2週間のあいだ繰り返し見直してみようと思う。 |
No.760 | さむしろ | 2009-07-08 20:38:11.635862 |
![]() キリシタンによって、宗教以外にも多岐にわたる衣食住文化が渡来したのに芸術が入らない訳がない、という話は理解いただけると思う。 エルグレコの三角の構図、セザンヌによる三角の平面化、ピカソのキュピズムについては何となくイメージを浮かべてはいるが理解には至らない。 |
No.761 | さむしろ | 2009-07-10 19:44:20.887403 |
![]() 繰り返し見直しているが、解説をするまでに至らない。ただ、楽茶碗は最も日本的なもののひとつであるとの考え方を真っ向から否定し、茶の湯に西洋的思想を取り込んだものだといわれるのは理解できる。 静的、禅的である長次郎茶碗「無一物」、「大黒」などは初期のもの。 三点展開による造形がなされた「杵ヲレ」、「俊寛」など。 この二つは長次郎物というひとくくりで捉えるのではなく、まったく質の違うものと捉えたほうが理解し易いだろう。 |
No.762 | さむしろ | 2009-07-12 20:00:11.402262 |
![]() 三角の構図は遠近法といったほうがなじみやすい。 また、NO760で書いたように、キリシタンによって芸術文化が渡来したことは十分に想像される。 そしてジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から紹介したように、宣教師と茶の湯者達との交流は極めて深い。 |
No.763 | さむしろ | 2009-07-13 19:25:12.72379 |
![]() 「無限思想」「無限の茶碗」ということについてはこれからも考え続けていくことにして、利休が長次郎に造らせた茶碗が「特別のもの」であったことは容易に想像できる。 ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から紹介したように、当時の茶の湯者達の茶の湯への思い入れは半端ではなかった。 今では想像できないほど真剣で命懸けだったといっても過言ではないのではなかったか。 そのような場において主役の座の一角を担うものであったことを考えると、単に黒い茶碗を造ったということで片付けられるものではなく、安倍さんが言われるように無限思想など「特別な思い」を込めた茶碗であったと考えた方が納得しやすい。 |
No.764 | さむしろ | 2009-07-15 19:51:15.177865 |
![]() 楽茶碗と備前花入を混ぜこぜに話しているようにみえるが、長次郎茶碗も備前三角花入も造形が単なる思い付きでなされたものではなく、三点展開理論による同一の造形がなされているということを説明しているからである。 造形理論については、茶碗でも花入でも水指でもいいのである。 |
No.765 | さむしろ | 2009-07-18 17:10:04.537046 |
![]() 私がこの展開図を書いても多分繋がらないでしょう。私にはとても及ばない高度な造形であるといっておられる。 この理論の理解はなかなかむつかしい。ここで説明しようにもその理解がない。 桃山の茶陶には「大名品」と、職人による「ごまかし品」があることを覚えておいていただくだけで十分ではないかと思う。 二つの写真を見比べながら説明を聞くと、「大名品」は”繊細・濃密”で「ごまかし品」は”つるん”とした感じがする、というのが私の感想である。 |
No.766 | さむしろ | 2009-07-19 18:43:18.262466 |
![]() 展開図において繋がるということは、面が次々と連動して展開しそして繋がっていくということと理解していいだろう。 見ている図録には多くの古備前作品が載っているが、安倍さんがいう大名品は、花入で数点、水指で数点、鉢で数点といったところである。 |
No.767 | さむしろ | 2009-07-20 18:52:04.199372 |
![]() 楽家に伝わっているのは山があって谷があってという部分的な形だけのようである。 造形理論ではないため、一から構築することが出来ないのだと思われる。 長次郎の造形理論が伝わったのは常慶までで、のんこう以降のものには長次郎と同一の造形のものはみられない。 |
No.769 | さむしろ | 2009-07-23 18:12:29.183312 |
![]() 「胴部分が外側に張り出し、反対側の胴部分が内側に反っている」ということだが、このことは三角花入についてもいえることで、画面の三角花入を少しずらして、見る角度を変えると同じように反って見える。 |
No.770 | さむしろ | 2009-07-24 18:01:34.211461 |
![]() 見直しました。動画中の三角花入も左側に反っていますね。写真では正面より少し右側から見ていますが、正面から少し左側から見ると逆に反って見えます。 |
No.771 | さむしろ | 2009-07-26 19:25:29.800741 |
![]() 造形理論は常慶までで、以降に伝わっていないとの話だが、これまで何度か書いてきたが、これは古田織部の死に関わっていると考えている。 名品茶陶が織部の死後の茶会記に登場しなくなったことや、京のやきもの屋の屋敷跡(井戸の跡)からおびただしい数の茶碗などの茶道具が出てきたこと。いずれも捨てるようなものではなく、意図的に隠したものと思われる。 楽家や千家においてもこの織部時代の記録が残されていない、つまり意図的に封印されたと考えられること。 志野などの美濃ものがどこで焼かれたのかがわかったのも昭和になってのことであった。 織部様式茶陶が織部の死とともに表舞台から消えたとの材料は枚挙にいとまがないが、これを否定する材料は今のところ見あたらない。 |
No.772 | さむしろ | 2009-07-27 19:57:27.484759 |
![]() 安倍さんは、これまで名品備前は何度も何度も繰り返して焼いていると話してこられたが、「あたり」から複数回焼いたことがわかる、と具体的に示して説明しておられる。 映像が悪いのでわかりにくいと思うので、出来れば画面に登場する作品を図録の写真で細かくみていただきたい。 |
No.773 | さむしろ | 2009-07-29 20:09:19.832841 |
![]() 花入を向う掛にするためのカンをつける穴が表裏二ヶ所にあけてある。 向う掛とは、床の間の正面の壁の中央あたりに花入を掛けるための、折釘の先が出し入れ自由になっている釘があるので、それに掛けることを向う掛にするといった言い方をする。 その後、向う掛にするのを止めて床に置くようになったため、表裏二つの穴を埋めたのではないかと思われる。 |
No.774 | さむしろ | 2009-07-30 19:58:15.890114 |
![]() 穴が埋められているが、これは、向う掛にすることをしなくなり、床に置くようになったためと思われる。 |
No.775 | さむしろ | 2009-08-01 18:56:43.397145 |
![]() 透文大鉢は10回どころではなく多数回焼かれているようである。 |
No.776 | さむしろ | 2009-08-04 20:41:10.329061 |
![]() 繰り返しになるが、「あたり」から複数回焼いたことがわかると話しておられる。 安倍さんの話を聞くまでは、複数回焼くということは頭になかった。複数回にわたって焼くということは、むしろ焼成の失敗をイメージしていたような気がする。 複数回の焼成が、即アーティストものということには必ずしもならないかもしれないが、備前の判定のためには重要なポイントになると思われる。 |
No.777 | さむしろ | 2009-08-05 21:26:07.944074 |
![]() 正しい答えはもちろんわからない。 が、当時の茶の湯のおかれた位置、そして茶道具への関心・執着の度合いといった背景と、プロデューサーがその「道具」を必要とした動機とその強さをどのように理解するかによって、何がしかのものが見えてくると思っている。 |
No.778 | さむしろ | 2009-08-08 19:42:20.944224 |
![]() とことん道具にこだわるのも頷けるような気がする。 加えて、ここでの仮説のように、名品茶陶が特殊な役割を担っていたのであれば、十分に納得できる。 |
No.779 | さむしろ | 2009-08-10 19:04:40.989226 |
![]() 古備前は30〜40日間にわたって窯焚きをするということがいわれていて、本にもそのように書いてある。 40日間も焚けばその間には複数回(2回3回あるいは5回6回)にわたって1300〜1350度に至ることがあるだろうから、それにより胡麻の重なりが生じたり、また、作品の転がりなどでズレが生じたり変化が生まれ得るので、ここで述べているように直ちに複数回にわたって焼成をしたとの証拠にはならないのでは、との疑問が寄せられた。 この疑問について。 40日間も焚くのは大窯のことで、今でも森陶岳さんがされているように大甕などを焼く(もちろん小物も同時に焼くと思われる。)場合のことである。安倍先生の最近の窯は、4日程度の窯焚きと聞いている。桃山期の穴窯、もちろん名品を焼いた窯もだが、当時も4、5日から1週間程度の焼成ではなかっただろうか? それ以上は「まき」の無駄で、当時は今以上に「まき」は大切な資源であった。 一回の窯焚きで1300〜1350度になっている時間は1時間程度で、それを超えると山土でも火袋が出来たりへたったりしてしまうそうだ。また長時間になると胡麻とともにボディも熔けて流れるということもあるという。(つづく) |
No.780 | さむしろ | 2009-08-11 17:03:09.06302 |
![]() 40日間というのは窯全体の温度を上げるために日数がかかり、また全体を冷ますのに日数がかかり、その日数も含まれている。 大窯では全体が同時に目標温度に達しないので、まず最初に下の室の作品を焼き上げ、次いで二番目の室の作品を焼き上げ、上に向かって順に焚きあげていく方法(横からまきを入れて焚く)だろうと思う。 灰が溶けきらないまま幾層にも重なると溶岩がこびりついたようになり、そうなると、もう温度をあげても溶けないそうだ。従って、40日間という長期間の焼成で、胡麻のズレや複数の景色が現れる可能性は極めて低い。 例えば備前透文鉢だが、見込みに沢山の胡麻が降っているが、裏面をみるとそちらにもたくさんの胡麻が掛かっているそうだ。他の名品もそうだが、図録に出ている面だけでなく隠れている方も同じように見ないと真実は見えないということのようである。 |
No.781 | さむしろ | 2009-08-15 16:12:57.660832 |
![]() |
No.782 | さむしろ | 2009-08-15 16:20:09.650906 |
![]() しかし、この解釈は誤りの可能性がある。もちろんそのような場合もあったかもしれないが、主な理由は「水指」として用いんがためであったように思う。 茶会の内に、細水指が必要な場合があって、大きさが丁度よい。 |
No.783 | さむしろ | 2009-08-18 18:53:00.521868 |
![]() 鉢といえども、これでもかというほどの手をかけている。注意深く観察する必要がある。 |
No.784 | さむしろ | 2009-08-19 18:52:52.908053 |
![]() 画面に登場する「預け徳利」二本は安倍安人作である。 |
No.785 | さむしろ | 2009-08-20 20:05:56.337775 |
![]() 平鉢は30〜33pと大きい。今、懐石で使おうとすると焼物を盛ることになると思う。盛るといっても焼物=焼き魚を人数分、中央にちょこんと置く感じである。5人の客であれば魚の切り身を焼いたものを5切れをおくことになる。切り身は焼き鯖の半分ほどの大きさ程度と思っていただけばいい。 3人の客であれば3切れということになる。当時は2〜3人の客が普通であるので、随分と大きい器だったようだ。 今、茶席でこのようなものが出されると、その大きさに客全員ビックリするだろう。(物の凄さにびっくりする客は少ないかもしれないが。) |
No.786 | さむしろ | 2009-08-25 18:03:11.492757 |
![]() ヘラ目とバランスだが、ここで解説するほどの理解はしていない。 そこで、安倍さんの作品を置いて、どれか一つ除いたほうが良いヘラ目はないか、どこかへ一つヘラ目を入れられないか、と眺め続けたことがある。 名品の写真を見ながら、そのようなことを続けてみることも、感覚を磨く助けになるかもしれない。 |
No.787 | さむしろ | 2009-08-26 18:55:21.665605 |
![]() 勿論、バランスをみる比較の対象はヘラ目だけではない。水指の上部凹凸の力強さや口造り、下部の造り、耳なども当然バランスの対象となる。 |
No.788 | さむしろ | 2009-08-28 11:36:59.26638 |
![]() ヘラ目についてだが、ヘラ目の太い細い、深い浅い、長い短い等によって、見るものに強弱を感じさせる。 そして強弱から全体としてのバランスの良し悪しを感じることになる。 |
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