茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.789さむしろ2009-09-01 20:17:01.824765
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第12回)

造形は、どの方向から見てもバランスがとれるように作られている。

しかし焼きについては、正面を意識した景色をつくるように焼いているようだ。

概して写真で正面となっている面の裏側が火表で、写真では隠れている火表はベッタリと胡麻がかかっている。
現物を見る機会があれば、是非裏側を注意してみていただきたい。

No.790さむしろ2009-09-02 18:25:17.089008
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第12回)

時を同じくして、備前で、美濃で、唐津など等で作られた。どこが早く、どこが後れたかについては判然としない。

古茶会記が、もっとも情報が多く確かな資料だが、もうひとつ細かいところがはっきりしない。

書状にも重要な手がかりがあるが、今のところそのような書状はほんのわずかである。

No.791さむしろ2009-09-03 18:10:35.467681
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第12回)

美濃でも唐津でもいきなり完成品が登場したとの考えを述べておられる。もちろん備前、伊賀、信楽についてもである。

つまり、
「ここで職人物といっているものが、名品完成までの過程のもので、名品といっているものが、職人のうちの名人が作った内の最高傑作である」といった見方はしないということである。

No.792さむしろ2009-09-04 17:46:28.685092
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第12回)

天下の名品は、美濃であろうが伊賀、信楽、備前、唐津であろうとその造形は、共通のルールに則っている。
しかし、職人ものは、それらに似せてはあるが異なるものである(ルールに則っていない。)、ということである。

No.793さむしろ2009-09-07 20:00:28.57237
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第13回)

少し時代が下って(のんこうと交流)本阿弥光悦がいる。
光悦もゆがんだものを作っているがアマチュアニズムである。

つまり光悦の茶碗は、長次郎茶碗と同様のルールに則って作られているわけではなく、思いつきの歪みで作られたものである。

No.794さむしろ2009-09-09 18:55:40.322483
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第13回)

「利休の造形は桃山で一旦途絶えた。」だが、利休の造形=織部様式であるので、正確には織部の自刃とともに終わり、以後作られることはなく、楽家においても伝えられることもなかったようである。

また茶の湯界も遠州の時代となり、遠州好みの道具が流行るようになる。

No.795さむしろ2009-09-10 20:20:08.242191
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第13回)

その「流行る」だが、単なる流行の移り変わりではなく、織部の自刃により、織部との係わりから累の及ぶのを恐れたため、織部が関係する全てが封印され抹殺されたと考える。

その結果、楽家では文書はもとより技法の口伝もないようだし、古茶会記からも消えてしまっている。

No.796さむしろ2009-09-16 17:50:02.677401
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第14回)

「ここからいって(一周して)ここに返ってこない」の部分はむつかしい。

三角の面が散らばっているということではなく、三角の面が次々と展開していくと考えなければいけないようである。

No.797さむしろ2009-09-18 19:37:46.115486
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第14回)

写真の@図、上部 ] の部分を展開図としたものがA図である。

さらにA図に三角の展開を書き入れかけたものがB図である。もちろん朱線の三角は正しいものではないのでそのつもりで見ていただきたいが、起点となる三角から次々と展開していく。
 (B図ABCDからabcdへ。)

太郎庵花入は「ABCD」と「abcd」がピタッと合致する。

ところが安部さんが何度かやってみたが、どうしても「abcd」至って「ABCD」と合致しないといわれる。あまりにも複雑で再現出来なかったという。
No.798さむしろ2009-09-20 18:05:10.737102
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第14回)

すでに安倍さんの解説があった、”焼き”における徹底的なこだわりと、解説中の造形における複雑さ、緻密さを兼ね備えたものが桃山織部様式名品茶陶ということになる。

No.799さむしろ2009-09-21 17:13:08.933561
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第14回)

三角の展開だが、書でいう楷書、草書、行書のように強弱、変化があることは名品群を見れば明らかである。

No.800さむしろ2009-09-22 18:08:35.465365
動画 桃山茶陶の焼成と造形(第14回)

これまで”三角の展開”という言い方をしてきた。ところが今日動画を見ていて、ここでは、安倍さんは、「三角の構築」「三角の構成」という言い方をされているのに気がついた。

これまで繰り返し何度も見たのに、このことに引っ掛ることはなかった。

カルチャーセンターで教えると全員長次郎風の茶碗になる、と話しておられるが、私はその教えを聞いたことはない。

ところが今日、成る程そういうことかもしれないと感じるところがあった。
No.801さむしろ2009-09-28 19:27:55.393655
動画「桃山茶陶の焼成と造形」が終わりました。
連載をご覧になって、理解を深められた方、あまりよくわからなかった方、混乱を深くされた方、そんなバカなと反発を深めた方等々いろいろあるかと思います。

四〜五回あるいはもっと多数回、繰り返し焼くとの安倍説に疑問の声も届きました。

これより安倍備前の焼成を公開した動画「公開!The備前−安倍備前の全貌−」を再掲載します。

桃山茶陶の焼成・造形の理解の一助になるものと思います。是非ご覧下さい。
No.802さむしろ2009-10-08 17:59:28.672961
動画「公開!The備前−安倍備前の全貌−」第3回

「温度だけがその時代を現している。」
「この温度だったらこういう風に焼けます。」
と話されているが、ここでいう「こういう風」とは、ボディの焼きなり或いは焼き味のことであり、胡麻のかかりようによる景色をいっているのではない。

胡麻と焼成温度の関係については聞いたことがないのでコメント出来ない。
No.803さむしろ2009-10-15 19:01:40.709545
動画「公開!The備前−安倍備前の全貌−」第2回、第3回

HP管理の依頼先が多忙のためか更新が遅れているので、2回3回を再度見直した。あらためて思ったが、この部分は随分重要なことを話しておられる。

ほとんどの人が思い込んでいることを真っ向から全否定しているようだ。

穴窯で焼けば穴窯時代の味に焼けるというものではない、といわれても直ぐには信じられない。

例えば、六古窯の壷などの古格、枯淡ともいうべき味は五百〜七百年という永い年月によって具わってきたと考えていたが、どうもそうではない。もちろん年月の風化を否定するものではないが、キチッと焼けたものは年月だけであのような味になるのではない。

安倍さんの作品のなかにもビックリするほど枯れた味のものがある。安倍さんに聞くと、窯から出したときからその味だと言われる。
No.804さむしろ2009-11-09 18:54:03.351279
安倍さんに「楽茶碗」(磯野風船子著)を借りた。この本には、表紙をめくった頁に風船子さんから安人さん宛ての本文の訂正文が書かれている。

織部様式の原点か、或いは原点に最も近いのが楽茶碗(但し長次郎茶碗)と考えていることから、暫らくこの本を眺めてみることにする。
No.805さむしろ2009-11-10 17:47:12.715881
楽代々の伝記と作品については、色々と著書があるようだが、いずれも大きな違いはないようで、むしろ、研究が著しく発展したのは戦後のようだ。
その例として、
@昭和25年、堀口捨巳博士による長次郎二人説
A昭和31年、保岡憲司の一元・南楽家の研究発表
B昭和34年、杉本捷雄の田中宗慶は利休の子説
C林屋晴三の、ハタノソリタル茶碗は長次郎茶碗「勾当」「道成寺」のごとき茶碗説

そして最も重大な事件として、昭和30年に楽家に伝わる「宗入文書」が発表されたことである。

No.806さむしろ2009-11-11 23:31:12.62124
なぜ重大かというと、これにより初期の楽茶碗を作ったものとして、初代長次郎、田中宗慶、田中庄左衛門・宗味、田中吉左衛門・常慶・与次、二代目長二郎、庄左衛門の娘の六名であることが明らかになったからとしている。
No.807さむしろ2009-11-12 19:39:43.326474
楽窯の誕生についてであるが、茶会記から楽と思われるものを拾ったものである。
天正14(1586)8/17宗易茶会、黒茶碗(利休百回記)
天正14(1586)10/1宗易茶会、長ニ郎水指(南方録)
天正14(1586)10/5宗易茶会、長ニ郎香合(南方録)
天正14(1586)10/13井上源五茶会、宗易形茶碗(松屋会記)
天正14(1586)10/23尾崎喜助茶会、今焼茶碗(松屋会記)
天正14(1586)10/26他宗易茶会、木守茶碗(利休百回記)

風船子さんは、天正14(1586)8/17宗易茶会の黒茶碗を「楽焼とも聚楽焼とも長次郎焼とも断っていないが、まず長次郎と見て間違いないと考えられる。」と書いておられる。
No.808さむしろ2009-11-13 17:21:11.078237
一般の利休百回記と異本百回記の関係についてだが少し疑問を感じている。というのは、異本百回記を著したのが、利休の茶会に立ち会った者であれば納得がいく。自分の目で「黒茶碗」を「楽焼大黒」と判断して書いたのであればそれはそれでよい。

しかし、異本が写本であればおかしな話になってしまう。どうして黒茶碗=楽焼大黒となるのか、はなはだ疑問である。異本の内容に?をつけざるをえない。

そして、天正14年8/17宗易茶会の黒茶碗が長次郎と見て間違いないとの風船子さんの説に疑問を持たざるを得ない。

No.809さむしろ2009-11-13 21:19:33.093373
風船子さんも引用しておられる松屋会記(久政)の内、茶碗についてみると1586年の宗易形茶碗が登場した後「今ヤキ茶碗」が続き、1588年になって初めて 「今ヤキ茶碗」とともに「今ヤキ黒茶碗」、「クロヤキ茶ワン」が登場する。

松屋会記(久好)についても、「ヤキ茶ワン」、「クロヤキ茶ワン」と分けて記載してあり、「クロ」が登場するのは1588年になってからである。

宗湛日記においても「黒茶碗」は1590年に初めて登場する。

いずれの茶会記も、以後も、今ヤキ茶碗と今ヤキ「黒」茶碗を使い分けている。(NO443以下参照)
No.810さむしろ2009-11-16 09:50:29.058557
前にも書いたが、最初に登場した「今ヤキ茶碗」は赤楽で、黒楽の登場は少し遅れるのではないか。「今ヤキ黒茶ワン」が茶会記に登場した(1588年9/17)頃には間違いなく誕生していた。

黒楽は技術的に赤楽の後で登場すると考えた方がいいだろう。

そうすると、天正14年(1586)の宗易茶会で使用されたという「黒茶碗」は何であったかということになる。
No.811さむしろ2009-11-17 18:07:35.34763
NO378で黒茶碗の写真を載せている。そしてしばらくの間、長次郎茶碗、黒茶碗、瀬戸黒について思い浮かんだことを書いているが、この部分についてはまったく整理がつかない。

No.812さむしろ2009-11-18 17:43:03.430024
風船子さんは、
初代長次郎が作ったという確証のあるものに獅子留蓋瓦(天正2、長次郎造の彫あり)がある。このことから、天正2年(1574)頃に楽焼が作られる基礎はできていた。しかしこの頃は、瀬戸茶碗、備前茶碗がポツポツ登場するくらいで、天正2年頃に楽窯が創始されたというのは尚早であろう。
と書いておられる。

そしてようやく天正8年(1580)宗易茶会に「ハタノソリタル茶碗」が使用され、このハタノソリタル茶碗を、長次郎の勾当あるいは道成寺をさすのではないかといわれたのが林屋晴三氏である。そしてこれは注目すべき構想である、と紹介しておられる。
No.813さむしろ2009-11-19 17:48:43.084797
瀬戸黒と黒楽とどちらが早く作られたかということについて風船子さんは、
茶会記では瀬戸茶碗のほうが数十年前に作られていることは前述したとおりである。利休黒と称する瀬戸黒があるが、これは黒楽より前に作られていたとしても少しも矛盾しない形であり、黒釉の調子である。しかし道安黒と称する黒楽茶碗や織部ふうのつやのある瀬戸黒は、織部の活躍した文禄以後(1592-)の作品である。
と書いておられる。

また、風船子さんは楽茶碗の制作年代について、ノンコウ前とノンコウ以後を肌の違いから判定しておられる。造形からの判断はないようだ。
No.814さむしろ2009-11-20 18:37:53.487857
風船子さんは、長次郎茶碗について次のように書いておられる。

利休は、長次郎に命令を与えるだけで、長次郎を芸術家としては扱わなかった。それゆえ初楽の茶碗には作者の気のおもむくままに制作する自由さがなく、従って変化が少ないのである。
未知の作品で「勾当」「木守」「俊寛」クラスの作品に出会うことはまず無いと考えてよい。これは楽焼最初期の作品で、利休の考えが成熟しない時代のものであり、数が少ないのである。

俊寛を最も完成度の高い作品と考えている。茶碗に三点展開による造形を施すとの考えがだれの発案かはまったくわからないが、俊寛こそがその最高峰であると思っている。
「利休の考えが成熟しない時代のもの」との考えは受け入れられない。
No.815さむしろ2009-11-21 14:58:54.050333
風船子さんが考える長次郎像は、

長次郎62才の天正2年(1574)ごろ瓦を焼いていた。瓦屋の縁から利休と知り合い、天正5、6年ごろ利休の子田中宗慶(当時42、3才)を助手に使い、瓦製造のかたわら楽茶碗を作り始めた。天正14、5年(1586、7)ごろ、楽茶碗は茶会に多く使用され、大いに面目を施したが、幾ばくもなく天正17年(1589)に77才で没した。初代長次郎は老齢に達してから楽茶碗を作り始め、十年足らずで亡くなった。

といったものである。
No.816さむしろ2009-11-22 17:48:51.059552
風船子さんが考える二代目長二郎像。

二代目長ニ郎は『宗入文書』の記載を第一資料として考察を進めるべきである。

二代目長ニ郎は、慶長半ばの17、8才から作陶を始め、元和3、4年(1617、8)34、5才で没するまで十数年間活躍したのである。

と、資料を分析しながら推測しておられる。
No.817さむしろ2009-11-23 18:54:21.319424
同じく風船子さんは、二代目長ニ郎の存在について、
堀口博士の説として、博士は、加藤清正、織田有楽、織田道八の三通の書簡を証拠にしておられる。
清正の楽茶碗の注文状から、清正の年齢、茶会記への登場から、初代の没後といっておられる。
有楽は、長ニ郎に作らせた茶入を披露する茶会に長ニ郎を呼んだという。(ここはよくわからない。)
道八の書状であるが、道八は、1615年遁世、祝髪して雲生寺道八と称したのであるから、それ以前に道八の号を用いることはない。
No.818さむしろ2009-11-24 19:38:16.719076
二代目長ニ郎の妻は宗味の娘である。
初代長次郎は1589年に77才で没しているので1512年生まれということになる。
宗慶(宗味の父)は1595年に60才で没しているので1535年生まれ。
宗味の生年は不明だが、弟常慶が1560年ころの生まれ(宗慶25才のときの子)。
仮に宗慶20才のときの子が宗味で、宗味20才のときの子が長ニ郎の妻とすると、同妻は1575年生まれ。
宗味の娘17才の婚姻として1592年。
このとき二代目長ニ郎20才とすると、初代長次郎60才のときの子となる。

宗慶、宗味を2才ずつ若くして18才のときの子とし、二代目長ニ郎20才としても、初代長次郎56才のときの子となる。

道八の二代目長ニ郎への書状が最も早くて1615年、二代目長ニ郎は若死にというのであるが43才あるいは47才になってしまう。
そうすると当時としては早死にはならないのではないかという疑問もわいてくる。
若死とするには誕生年を下げる必要がある。そうすると父親長次郎が高齢となる。
No.819さむしろ2009-11-25 18:29:22.374614
風船子さんは、
二代目長ニ郎あての道八の書簡を1615年と仮定すれば、初代長次郎没後27年目になる。
二代目長ニ郎が初代の何才のときの子かわからないが、1615年には30才過ぎの立派な成年で、宗味の娘も二代目の妻になりうる年令に達している。
これらの古文書の記載どおりの現実があっても不思議でない。
と書いておられる。

このとき二代目30才とすると、初代73才のときの子となる。
No.820さむしろ2009-11-26 17:58:48.105521
風船子さんは、
二代目長ニ郎の確実な作品というものは一つもない。
二代目の特徴として「楽の賦」(不昧公)、「楽の目利書」(同時代の書)は、
第一、道安形で、瀬戸黒を楽窯で作ったと思えばよい姿である。
第二、作り方ぬるい。
第三、釉が初代より下品で粗末である。
第四、五行が備わって平凡でおもしろくない。(手癖が教えどおりである。)
第五、茶だまりを丸くとる。
第六、高台が低い。
第七、口縁が余り変化なく、無景の静かなもの。

と紹介している。
No.821さむしろ2009-11-27 18:57:57.724508
風船子さんは、
以上の特徴から、初楽の茶碗を捜したら、五碗みつけることができたが、はたして二代目長ニ郎かどうかの確信はない、
と書いておられる。

また、
長ニ郎焼、道安黒茶碗、悪女、如心斎銘 には、杉木普斎が「長ニ郎焼、旦老ヨリ給」と書いている。如心斎が、「道安黒、茶碗、悪女」と書いていることによって、宗旦時代に道安黒を作ったのがこの作者であることが明らかになる。すなわち二代目長ニ郎がその作者ではないかということになる。
と。

道安は1607年に没しているようなので、NO819からいくと二代目長ニ郎は22才頃で、少し若いような気もする。
 
No.822さむしろ2009-11-29 14:01:51.258074
昨日、伊予西条・ギャラリーかわにしで開催中の「安倍安人・彩色備前の世界鑑賞展」に行ってきました。安倍先生は、すでにお帰りになっていたためお会いできませんでした。
No.823さむしろ2009-11-29 14:19:09.711323
11月27日(金)〜12月1日(火)です。
彩色備前水指を茶道具としてみた場合、多くの人が、ほとんどの茶人が眉をしかめられるだろうと思う。

以前から安倍さんは、水指などを「茶道具」として作るという意識はない、といっておられた。

安倍備前=アート とみなければ受け入れることは難しいだろう。
No.824さむしろ2009-11-29 14:29:14.390706
わたしも茶道具としては受け入れられない、との立場であったが、最近、某家書院茶室に彩色備前水指を据えて茶会をやってみたいと思うようになった。

某家書院茶室に彩色備前水指を据えた場面を想像しても、違和感を感じられない。
No.825さむしろ2009-11-30 17:39:47.563507
風船子さんは、庄左衛門・宗味について、
「宗味買うはしみたれ茶人」などといわれているほど価値が低く評価されていた。
旦入(1854没)ですら「長次郎時代にも似よりの楽焼有之、二代とも申しがたく、尤長次郎焼とは尚更申しがたく、又宗味焼、古楽などと書付御座候筋、いずれともしかといたさざる筋を脇窯と申伝え候。」

これは旦入が常慶の系統で、宗慶、宗味の系統ではないことも影響している。
No.826さむしろ2009-12-01 19:10:36.078725
風船子さんの本から続ける。

宗味の跡は、孫が東山双林寺に遁世して絶えてしまい、記録を残さなかった。堀口博士のいわれるとおり一入・宗入時代には、初代長次郎、宗慶、宗味の戒名が全然わからなかった。不思議なほどわからなかったのである。

宗入文書によると庄左衛門宗味は少しもないがしろにされていない。1694年刊行の万宝全書も「元祖は唐人、二代は長ニ郎、三代は庄左衛門」といって、庄左衛門を楽の代々の内に数えて、無視はしていない。
1736年刊行の「楽焼秘襄」に至って庄左衛門の名が消えてしまうのである。
No.827さむしろ2009-12-02 19:21:33.566066
風船子さんの推測では、
二代目長ニ郎が1615〜1620までの間に死亡し、その妻が父庄左衛門の元に帰る。
庄左衛門も1619に亡くなる。
未亡人はやむなく父の弟常慶の世話になり、又、その指導のもとに尼焼を製作する。
未亡人は情にほだされて二代目長ニ郎の位牌や持参したものをすべて常慶に預けてしまう。
そこで常慶は二代目長ニ郎・最勝院長祐日元居士を先代として回向を営む。
No.828さむしろ2009-12-03 19:27:53.168818
これに対して庄左衛門の男の子はまだ小さいので、何がなんだかわからないまま成長する。
孫の代になって、楽の正統は庄左衛門系統の自分のほうにあるといって、一入と宗入に談判するが取り合ってくれない。
憤慨した男の子は、楽焼の技術を持たないこともあり、拝領の楽印や初代長次郎にかかわるもの他を持って東山双林寺に入って僧侶になってしまう。
No.829さむしろ2009-12-04 18:07:54.320885
一入・宗入が楽家の系図を作ろうと思っても資料、位牌がなく、戒名、没年月日も書けない。
そのため常慶より前は、不完全で雑な系図になってしまった。
宗入文書の覚によると、
初代  あめや
二代  ひくに
三代  長次郎
四代  宗慶
五代  長祐
六代  宗味
七代  常慶
となっている。そして、時代が下がるに従って混乱し、長次郎や吉左衛門と宗味が混同されたのである。

としておられる。
No.830さむしろ2009-12-06 13:34:29.077025
風船子さんは、作品について、
「宗入文書」によると宗味と常慶の兄弟は秀吉からもらった楽印を共同して使用しているので、常慶印のある作品を作風によって分けてみるのがよいのではないか、と提案して、何点かの作品を掲げ、分別しておられる。
No.831さむしろ2009-12-07 17:35:35.836574
宗味の作品について、
胴もおうとつが多く若干ヘラ癖が出ている。
口縁が内側に傾き・・・。
黒の釉薬は、ノンコウ以後の黒に近い。それゆえ1615年以後の作とすべきであろう。
高台は同じ幅で、まん丸で、同じ高さで、高台の中には必ず兜巾渦巻がある。
高台の回りが、わずかに削ってある。
腰は、同じような曲線で曲がっている。
No.832さむしろ2009-12-08 19:10:56.827822
と、特徴をあげ、続けて、

宗味は父祖の命令指示に従順に従うという典型的な孝行息子の面影がある。

「小鷹」「うめかえ」について「晩年の作と思われる枯れて趣のある渋い茶碗」としておられる。

No.833さむしろ2009-12-10 17:19:04.793333
「小鷹」「うめかえ」だが、写真でみるかぎりでは「織部様式」の特徴がはっきりと現れている。

織部様式は織部自刃とともに抹殺・封印されたのではないかと考えているが、その前提でみると1615年以前の作と考えなければならない。
No.834さむしろ2009-12-11 18:40:36.95552
「織部様式」が織部の自刃とともに終焉をむかえたとの仮説の根拠だが、これぞという確かなものがある訳ではない。

いってみれば状況証拠だが、
・織部自刃以後の茶会記にそれらしきものが登場しない。
・織部以後の茶頭筆頭小堀遠州の蔵品帳(遠州蔵帳)に、それらしきものがない。
・京三条「せと物や町」地域で発掘された大量の茶道具類は、壊れたものを捨てたというのではなく、なんらかの理由で井戸の中へ隠すように捨てられたようであった、との話がある。
・楽においてもノンコウの作品には、長次郎から常慶までの作品に共通する造形がなされていない。
などがある。
No.835さむしろ2009-12-12 17:43:06.627396
風船子さんは、常慶について、

常慶の名が一番早く現れるのは・・・・・1593年。
常慶について、光悦と宗旦の書簡が残されている。
光悦の書状の一つは、茶碗を焼くほどの白土、赤土を持ってくるようにとのもの。
もう一つは、茶碗用の釉薬の調合と菓子器と茶碗を持ってきてほしいとのもの。

No.836さむしろ2009-12-13 17:02:37.000792
宗旦からの書簡二通は、ともに茶碗の注文である。

「本阿弥行状記」には、ノンコウのことは書いているが常慶については触れていない。


常慶との接触がなかったのか?
それとも触れるほどのこともなかったのか?
あえて触れなかったのか?
との疑問が生じる。
No.837さむしろ2009-12-14 19:47:39.971757
風船子さん本から。次のような記載もある。

常慶印の茶碗には、一つも同型のものがなく、変化の多い姿をしている。これは光悦の影響とみなければならない。

No.838さむしろ2009-12-15 18:05:38.147275
次のような解説をされている。

宗旦の茶碗の注文図が、二つともゆがんでいるのは、宗旦の好みと利休の好みが若干違っていることを示している。
宗旦の時代は、織部、光悦の出た時代だから、そういった風潮が一般にもあったのであろう。

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