茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.839さむしろ2009-12-16 18:38:26.4177
この風船子さんの解説には異論がある。

NO768にこの書状についてふれているので参照いただきたい。

No.840さむしろ2009-12-17 17:42:16.113156
常慶造 黒茶碗 鉄拐(てっかい)は、常慶印があって、風船子さんが常慶造と判断した茶碗である。この茶碗について、
胴の三方にヘコミがあるが、一方のが大きく茶碗の正面らしく見える。
口縁がかすかに波打っている。
常慶の気のおもむくままに作られたとみてよい。
との解説がしてある。
No.841さむしろ2009-12-18 18:20:23.971997
風船子さん本から。

宗旦が銘をつけたものには「草庵」以外は長次郎という作者の名前が書いてない。これは宗旦にとっては、楽家へ注文したのであるから作ったのが宗慶であろうが宗味、常慶であろうが関係なかったのではないか。

との解釈をされている。
No.842さむしろ2009-12-20 14:08:59.842551
長次郎と総称することについて、

鴻池道億は、初代長次郎以外は長次郎ではないという見解に立っている。

これに対し千家では、利休と宗旦の好み物は全部「長次郎」であるという見解を抱いている。

このことは、現在においては千家の見解を正しいとしなければならない。
千家の宗匠が、初楽に「利休」と書いているのは、利休好みであり利休時代の製作であるということをいっているのであるが、初代か宗慶かということは問題にしていない。
宗旦に至っては前に述べたとおり、作者を問題外に置いて銘を書いているのである。

と書いておられる。
No.843さむしろ2009-12-21 20:18:20.108016
三代・道入・ノンコウになると茶碗の形が変わってしまう。造形手法を伝えなかったのかあるいは伝わったが封印されたのかわからない。

ノンコウの名の由来があるので紹介しておこう。

小田栄作氏が「陶説」(S29.3)に述べておられるという。それによると、宗旦が、竹花入を切り「ノンコウ」という銘をつけて道入に贈った。

道入はこの花入を非常に愛して、始終床に掛け楽しんでいた。

宗旦が道入のところへ遊びに行くとき、「ノンコウ」のところへ行ってくるよ、といったので「ノンコウ」が道入の異名になってしまったという。
No.844さむしろ2009-12-22 20:20:18.030535
同書から。
「本阿弥行状記」に次の記述があるという。

「今の吉兵衛は至って楽の妙手なり。−略ー。後代吉兵衛が作は重宝すべし。しかれども当時は先代よりも不如意の様子。惣て名人は皆貧なるものぞかし。」

金銭的に困窮していたようだ。
茶道具のなかでも「特別の道具」を焼くという特殊任務を与えていた、又庇護者でもあった織部の死が原因である、と考えたいがどうだろうか。
No.845さむしろ2009-12-24 17:55:16.272831
利休の書状で、書状中に茶碗のことが記されているものが3通ほど紹介されている。
「早船」「大クロ」にかかわるもの。
「御茶碗二ケ・・・」とあるもの。
「赤茶碗之事・・・」とあるもの。
No.846さむしろ2009-12-26 14:52:19.611148
「早船」付属利休書簡

大墨(黒の誤りか)を紹安にとらせ可申候。はや船を松賀島殿(蒲生氏郷)へ参度候。

紹安は少庵の誤りではないかとしておられる。箱に「大クロ 利休所持 少庵伝 後藤少斎ヨリ宗左へ来・花王」となっているからということである。

この書簡は1585年9月から1588年8月までの利休の書簡としておられる。
書簡中の「古織」は1585年9月以後の呼び名。
蒲生氏郷は1588年8月松坂城に入り、以後松坂少将と呼ばれたことによる。
No.847さむしろ2009-12-27 18:38:42.443811
書状が利休の真筆であることが条件だが、「大黒」「はや舟」が利休時代のものであることがわかる。

また、
「御茶碗ニケ唯今出来候 又 あかく御座候を可仕候や」
大納言様

大納言は秀長と思われる。
「あかく御座候」は赤楽を指していると思われる。このことから「御茶碗ニケ」は黒茶碗ということが推測できる。
No.848さむしろ2009-12-28 18:27:41.686234
瀬田掃部宛て利休書状

この赤茶碗、長次郎に内々焼かせたものが、ことの外、みごとであるからこれを持たせて差し上げましょう。この茶碗で留左公へも一服あげられたらいかがでしょう。

風船子さんは、この書状が1587から1589ごろのものではないかと書いておられる。

利休は何ゆえ「内々焼かせ」と書いたのか?
No.849さむしろ2009-12-29 16:17:14.39913
加藤清正から、
御茶碗師 長ニ郎とのへ、  とする書状が紹介されている。
書状には「・・・楽焼解くすり茶碗五つ可給候・・・」
との記載がある。
茶碗の注文のようであるが現代語訳がないので、よくわからない。
清正は若くして活躍した人だが、自分で好みをしたり楽焼を注文ができたのは、利休も初代長次郎もいない1592年以降のことであろう。利休から招かれた記録はない。

宛名の「御茶碗師 長ニ郎」は初代長次郎の死後、楽窯を長次郎窯と称したと解して、宗慶、宗味、常慶の三人をまとめてさしていると考えるか、堀口博士の考証のごとく二代目長ニ郎を想定するか、いずれかであろう、
というのが風船子さんの解説である。
No.850さむしろ2009-12-30 17:42:43.158358
加藤清正が直接長ニ郎に茶碗を注文できる時があったことがわかる書状である。
風船子さんがいわれるように利休没後としても、織部を介する必要はなかったというこになる。

あるいは、織部が茶頭筆頭としての影響力を完全なものにする以前のことであったということはできないか。

清正は若くして活躍と書いてあるが、文禄の役(1593)のときに32才であった。
No.851さむしろ2009-12-31 19:50:52.076434
楽茶碗に関するその外の資料は次のとおり。

万宝全書、 古今和漢諸道具見知抄、 茶道旧聞録(の楽家系図)、 茶湯聞書(の楽家むね瓦)、茶道望月集(楽焼名物茶碗並びに持主)、 住友友昌あて山中道億書簡、 楽焼秘襄、 楽焼代々、 楽焼名物絵図任土斎弥兵衛秘書、 茶道温古録(の楽家系図)、 鑑識録(の楽家系図)、 楽の目利書、 楽の賦、 日本楽家 伝来、 聚楽焼的伝、 聚楽焼由緒歴代書、 楽焼世代、 千家残月亭鬼瓦の事旦入之尋問の返書、

古いものは、二代(子)長二郎、三代宗味、と長二郎、宗味をあげているが、下ってくると、初代長次郎、二代常慶、三代ノンコウとなり二代長二郎、宗味にふれないようになっている。


楽焼名物絵図任土斎弥兵衛秘書の記載が紹介してある。
代々茶碗焼員
元祖 長二郎  黒赤七百余内 今の楽は二百余焼ナリ
二代 長二郎  同三百ハカリ
三代 宗味   同千六百余
四代 ノンコウ 同三千六百余

寛保元年酉十月六日の日付が記されているが、上の数字がどのようなものかよくわからない。
No.852マスター2009-12-31 23:38:31.907813
間もなく2009年が終わります。

今夕、西の雲間に沈む夕日に向かって、この一年の無事を感謝しました。
No.853さむしろ2010-01-03 00:14:53.092032
磯野風船子著「楽茶碗」をざっと読んでみた。

楽家は、長い間初代長次郎、二代常慶、三代道入ノンコウと信じられてきた。
ところが昭和30年になって楽吉左衛門氏によって宗入文書が公表され、初めて宗慶、長祐、宗味の存在が明らかになった。

とはいっても宗入文書が書かれたのは1688年で長次郎没後およそ100年ほど後のことである。100年の根拠も宗入文書中の「長次郎但し戊辰年迄に百年計成」によっている。つまり位牌なり過去帳なりといった明確なものは残っていないようである。

「覚」にあるように宗味の孫がそれらの資料なりを持って「そうりん寺」へ入った事によるのか、それともその前に、織部との係わりから封印されたのか? 兄である宗味ではなく、弟の常慶が代を継いだのはなぜか?

大部分のことについて、わからないままである。
No.854さむしろ2010-01-04 14:21:44.290058
初代長次郎から常慶の間に、田中宗慶、二代長ニ郎、宗味が実在したことは間違いないようだ。

田中宗慶についていえば、
・三彩獅子香炉にある「とし六十 田中 天下一宗慶 文禄四年九月吉日」の彫り。
・宗入文書
・長谷川等伯筆利休像の春屋宗園の賛中にある「利休居士に常に従っている信男宗慶の頼みにより書いた」旨。

宗慶の作品として確言できるものは三彩獅子香炉のみだという。

風船子流の見分け方は、
利休時代のみに作られたもの(手法や造形の特徴から)・・・長次郎
利休時代、利休没後にわたってつくられたものから宗味らしいものを除いたもの・・・宗慶
No.855さむしろ2010-01-05 17:56:59.245995
二代長ニ郎については、

長ニ郎宛て加藤清正、織田有楽、織田道八の三通の書簡が初代長次郎の没後に書かれたものであると考えられる(堀口博士)から。

特に「道八」を名乗ったのは1615年より後であること。

二代長ニ郎の確実な作品は一つもないという。
唐人尼長ニ郎幼少故、母焼物いたし居申せしなり」(茶道旧聞録)

不昧書「楽の賦」に「二代目長次郎を道安黒ともいふ。」とある。

ということで実在したと思われ、茶碗作りも行っただろうと想像する。
No.856さむしろ2010-01-06 17:45:48.530356
宗味について、

「宗味買うはしみたれ茶人」という風聞。
「長次郎時代にも似よりの楽焼有之、二代とも申しがたく、尤も長次郎とは猶更申しがたく、又宗味焼、古楽などと書付御座候」(旦入)
宗入文書等等。

ということで実在し、茶碗作りも行ったことに間違いないだろう。
No.857さむしろ2010-01-07 18:16:11.915622
常慶

今の楽家の系統では二代目。
宗入文書によると五代目(長次郎、宗慶、長祐、宗味、常慶)。
常慶と宗味は同じ楽印を使用しているようで、造形の特徴から分けるとしておられる。(NO830)
No.858さむしろ2010-01-08 18:31:47.613523
松屋会記をみると、1586年に「宗易形茶碗」が登場し、続いて「今ヤキ茶ワン」が多く使われ出す。
1588年になって「今ヤキ黒茶ワン」が登場する。

以後「今ヤキ」と「クロヤキ」が分けて記載されている。

このことから「今ヤキ茶ワン」は赤楽茶碗のことであり、黒楽茶碗の場合は「黒」あるいは「クロ」が明記されていると思われる。

従って黒楽茶碗が登場したのは1588年以降ではないかと考えている。

風船子本「楽茶碗」に使用茶碗一覧があるので、使用茶碗を改めてみてみた。
No.859さむしろ2010-01-09 17:45:34.700127
風船子本「楽茶碗」にある使用茶碗一覧によると、
1586年8月17・18日の両日の宗易茶会に黒茶碗が使用されている。(利休百回記)
同じく同年9月14日の宗易茶会に黒茶碗が使用されている。(利休百回記)

同年10月26日の宗易茶会では木守茶碗が使用され(利休百回記)、続けて10/27、10/30、11/2、9、11、15、19、21、24、12/7、9、10、11、24、26と木守が続けて登場する。
No.860さむしろ2010-01-10 17:51:32.790483
木守茶碗は赤楽茶碗のはずである。

その木守茶碗登場より前、同年8/17、18、9/14の宗易茶会使用の「黒茶碗」は何だったのだろうか。

1588年以降の「今ヤキクロ茶碗」「クロヤキ茶碗」等の記載から、「黒茶碗」が楽茶碗の可能性は極めて低いと考えている。
No.861さむしろ2010-01-11 13:49:20.52804
利休百回記のうち1586年に登場する茶碗は、
黒茶碗 ・・・3回
木守茶碗・・・16回
の二種のみである。(掲載は和物茶碗のみで、高麗茶碗は除かれている。)

「今ヤキ茶碗」の登場は1586年10.23(松屋会記)で、その後他の茶会記にも「今ヤキ」は登場しているので、今ヤキの呼び名はすぐに広まったものと思われる。

黒茶碗が楽茶碗であったのか?そうではなかったのか?
木守茶碗に偏ったのが、よはど木守茶碗が気に入ったのか、それとも利休の手元には他に楽茶碗はなかったのか?
後段にについては、まったくわからないが、前段については、あるいは、とのヒントとなるかもしれないものがあった。
No.862さむしろ2010-01-12 18:39:46.709559
1586年12/16の宗易茶会に「島筋黒茶碗」が登場する。
出典は「南方録」である。

南方録は偽書説があり、その信憑性には色々の説がある。私の頭の中は「偽書」との説のほうが強くインプットされていた。

今回「南方録」の記載に出会って、待てよ、という思いがしてきた。じっくり読み込めば、もう少し真実性がみえてくるのではないかという気がしてきている。
No.863さむしろ2010-01-13 20:10:46.538733
そこで島筋黒茶碗だが、日本の陶磁・長次郎光悦 に以下の解説がされているので転載する。

常慶印の捺されているものに、一連の織部好みの茶碗と共通した沓形茶碗が作られていることは興味深く、あるいは黒織部となっているもののなかに、宗慶や宗味、常慶の作品が紛れていることもありえないことではない。

有名な「島筋黒」などはその一例であり、かって古田織部の贈箱に収まった黒沓茶碗を見たことがあるが、それも楽焼に近いものであった。

利休没後から慶長末年までに、いかにも楽焼とはいえ天下の茶風を担っていた織部の好みの茶碗を焼かぬはずはないのではなかろうか。     転載以上。(NO473既出)
No.864さむしろ2010-01-14 14:24:04.805792
「島筋黒などはその一例」とは、

常慶印の捺された織部好みの茶碗と共通した沓茶碗のうちの一つ、なのか

黒織部となっている、宗慶、宗味あるいは常慶の作ったもの、なのか

この文章からはよくわからない。以前から島筋黒茶碗は気になっていて一度見てみたいと思っていたが、これで是非とも見てみなければいけなくなった。
No.865さむしろ2010-01-15 18:36:56.375566
島筋黒茶碗が、宗慶、宗味あるいは常慶の作った黒織部なのか、それとも雰囲気が似ているだけか。

島筋黒の造形が、織部様式=三点展開で作られていれば、長次郎一族(宗慶、宗味あるいは常慶)によって作られたと断定してもよいだろう。

しかし単に似ているだけではそうはいかない。
No.866さむしろ2010-01-17 17:52:27.788005
島筋黒茶碗の造形がどのようなものかということと、茶会記から、楽茶碗のうち造形のなされたものの登場がいつ頃かがわかれば、どちらが先に作られたのかということもわかってくるかもしれない。
No.867さむしろ2010-01-18 19:05:13.164191
中坊源五の茶会に、楽茶碗ではないかといわれている「宗易形茶碗」が登場したのが1586年10月13日の茶会であるが、それより二ヶ月前の8月17、18日と9月14日の宗易茶会に登場している「黒茶碗」(いずれも百回記)がなにであるかわからない。

なお、南方録では「黒茶碗」という書き方をしておらず「茶碗黒」という書き方をしている。
黒茶碗と茶碗黒とが同じものをいっているのかどうかについてもわからない。

No.868さむしろ2010-01-19 18:00:44.962561
「茶碗黒」の記載だが、南方録(現代訳版)をみると「茶碗 黒」となっている。これは「茶碗 高麗」とか「茶碗 唐津」のように、「茶碗は黒でした」といっているようにみえる。
No.869さむしろ2010-01-20 23:30:05.002296
先に南方録偽書云々ということを書いた。

南方録は、南坊宗啓が著したおよそ100年後、偶然に『南方録』にであった立花實山によって書写され、そこで實山書写本ができ、その写本をもとに幾多の写本が作られたという。その過程で誤写も多々あり、当てにならないといった風評がたったという側面もあったように想像する。
No.870さむしろ2010-01-21 19:57:00.904308
南方録と南坊宗啓についてはよくわかっていない。

その南方録とその著者南坊宗啓(と利休と長次郎)について独自に研究して、その成果を一冊の本にしたものが出版されていると聞き入手した。

急いで斜めに読んでみたが面白かった。少し読み込んでみて、その後、興味あるところを紹介しようと思う。

No.871さむしろ2010-01-22 17:14:43.068579
古陶磁研究をされている冨岡大ニ氏が「陶説」に発表された「有来新兵衛考」という論文がある。

有来新兵衛を始めとした桃山期から江戸初期にかけての京都陶工についての研究の成果をまとめられたものである。
No.872さむしろ2010-01-23 15:51:58.08604
冨岡大ニ氏が「陶説」に発表された「有来新兵衛考」は、
「京(三条柳馬場)の豪商有来新兵衛(初二代)は、桃山期から江戸最初期にかけて、京瀬戸十作の一人として活躍した名工であるという文献や口碑が残されているが、その実像については、周知されていない。」
で始まる。
No.873さむしろ2010-01-24 17:41:24.164093
そして、冨岡氏は、

京瀬戸十作といっても、各地窯での茶陶が伝承していて、又、選定された工人について諸説があり、そしてこの呼称が使われだしたのは江戸末期以降である。そのため有来新兵衛の不存在説もある。

有来新兵衛の作陶業績は、織部・遠州の時代から高く評価されており、当時の陶芸界に大きな影響を与えたことは覆うべきもない事実である。

No.874さむしろ2010-01-25 18:20:08.289142
有来氏によって代表される京在住陶工の活躍によって急速、広範囲に新様式が流行伝播した事実こそ重視すべき。
なかでも有来氏の文献資料は、他工に比べ数多く残されている。その実像は正しく解明されなければならない。
桃山陶工中で群を抜いた工人である有来氏に的を絞り、研究しその外郭を掴み得たので新発表を兼ね私見を述べたい。

として発表されたものである。
No.875さむしろ2010-01-26 17:29:28.453407
同論文から。

備前茶入「さび助」は高台に「C六」の陶印があり織部の時代から有来新兵衛作という伝承があるにもかかわらず、三日月六兵衛作であるとする説がある。(金重陶陽、桂又三郎)
No.876さむしろ2010-01-27 20:37:03.262593
同論文から。

どうして有来氏が否定されるようになったか?調査の結果判明したのが、
明治11年刊行「工芸資料」(黒川真頼著)に、
「天正年間工人始めて茶壷(ちゃいれ)を造る。後世称して古備前という。その良工を三日月六兵衛という。・・・欠月(みかづき)の記号を印す。故にこの名あり。・・・また一工人あり。・・・桜花の記号を印す。しかれども桜花の記号は欠月に及ばず。」
という説を発表されて以来であることがわかった。

ということである。

No.877さむしろ2010-01-28 17:43:54.8979
同論文から。

黒川氏の主張根拠は、同氏引用の『茶入図解』以外になく、同書には「備前さび助 焼印C六なるは別して賞玩す。桜印これに次ぐ。」とあり、三日月六兵衛であるとは書いていない。従って黒川氏の主張は、文意を拡大解釈したもので誤っている。

と結論づけておられる。
No.878さむしろ2010-01-29 19:46:47.265624
同論文から。

『類聚名物考』(江戸中期)に古備前焼徳利類目利之歌として、
底見れば、松葉長元 T新兵衛 丸宗伯よ 十は茂右衛門
『嬉遊笑覧』(江戸末期)にも、
古備前は 松葉長元 T新兵衛 丸は宗伯 十は茂右衛門
という陶印の目利歌がある。そして、新兵衛の陶印はTのみで、C六やその他多くの陶印について説明がないことから三日月新兵衛説が生まれる遠因となったのかもしれない。

と推測されたようである。
 
No.879さむしろ2010-01-30 18:26:47.187857
同論文から。

松屋久重の『古織公伝書』(松山吟松庵校注)に、

京三条町ウリノ新焼の茶入を織部殿・・・

とあり、右の文中「ウリノ」という松山氏の校注は誤りで、これを「うらい」としなければ文意が通じないことを発見した。

有来氏が京都三条に居住したことは別所吉兵衛伝書その他の諸書によって明らかで、新焼は新作陶器の意であるから、

京三条に居住する有来氏の新作茶入を織部殿が・・・

と校注しなければならない。
こうした幾つかの疑念や、校注本の誤りの発見が、有来研究の端緒となった。

そうである。
No.880さむしろ2010-01-31 17:45:53.865632
同論文から。

有来氏について、
『翁草』(神沢貞幹著・江戸中期)によると、
京糸割符町人有来新兵衛、始め八丁新兵衛と申しける。・・・・・。楽焼を善くして世に新兵衛焼として賞しける。

『別所吉兵衛伝書』の有来新兵衛の項に、
三条通り唐物屋
とある。
唐物屋とは中世以来貿易商を呼ぶ用語で、『万宝全書』(享保三年刊)にも、
京三条通り瀬戸物町 唐物屋にてありしなり。
とあり、

他にも
『台徳院殿御実記』(徳川氏の実録)慶長十年五月十一日の項に、
商人浦井宗普に呂宋国渡海の御朱印を下さる。
とあり、・・・。ちなみに有来氏の元来の姓は浦井である。

等、複数の資料記述をあげて有来新兵衛の実在説の根拠とされている。
No.881さむしろ2010-02-01 17:19:15.064866
同論文から。

有来家は五代目の頃大名貸しを始めたが、大口債権が回収不能となり、兄は債権の見返りとして貸付先の酒井家の士分に取り立てられ、名を浦井と改め・・・江戸に移住した。弟も同じ理由によって・・・。

と、有来氏が京から離れたことを記しておられる。

No.882さむしろ2010-02-02 18:52:11.252243
同論文から。

文政十年刊行の『茶器名物図彙』では、著者草間和楽は有来新兵衛について具体的記述をしている。

そうである。
No.883さむしろ2010-02-03 19:04:56.143144
同論文から。

初代有来新兵衛は、代々駿府在住徳川家御用達で、家康の御用を務めていたが、二代新兵衛の時代、正保慶安の頃、京押小路高倉に移住した。

初代は初名を十蔵といい、駿府土にて作った茶入に十蔵の陶印を使用し家康に献上し賞賛を受けた。のち通称を新兵衛と改めた。

初代は松本宗珠の茶の湯の弟子で、晩年隠居法躰して宗清と号した。

慶長年間新兵衛の発案で糸割符制度が発足。

これらは有来氏と関係があった宇野氏からの聞き書きである。

初代新兵衛駿府居住説は、他にこれを証する資料が見当たらない。
No.884さむしろ2010-02-04 18:37:04.763972
同論文から。

二代新兵衛の時に京に居住したとの説は誤りである。

初代新兵衛は京三条柳馬場東入るに居住し、慶長九年以降、京、堺、長崎の糸割符商の中心的人物として活躍した。

と、茶器名物図彙の記述を誤りとしておられる。
No.885さむしろ2010-02-05 19:20:00.56998
同論文から。

そして『糸割符由緒書』によれば、として、
大阪御陣の節、・・・大権現様へお目通りに度々まかり出で・・・上意を蒙り奉り、御陣場へ相い詰め諸物運送の御用、或いは国々へ徘徊つかまつる実否の説々(注:不穏者の動向)注進奉り、・・・・・・・。
とあり、通常いわれるところの御用達とは性格を異にすると思う。

としておられる。
大変興味深い説である。
No.886さむしろ2010-02-06 16:09:17.09255
NO883の「駿府土にて作った茶入に十蔵の陶印を使用し家康に献上」について。
同論文から。

初代の初名十蔵説は他にこれを証する資料が見当たらない。また十蔵銘の作品も未確認である。

としておられる。

No.887さむしろ2010-02-07 18:54:30.334244
有来新兵衛と茶の湯とのかかわりについて同論文では、

初二代とも茶の湯に親しんだことは、織部や遠州との親交が推測されるので当然であろう。
また名物(中興)有来楚白茶碗(堅手)を所持したことによっても窺える。

名物茶釜所持名寄にも、名工辻氏鋳造の釜を有来氏が所持しており、茶の湯に親しんだことは当時の教養人として当然であろう。

とされ、確たるものはなかったようである。それでも古茶会記を探し続ければあるいはでてくるかもしれない。
No.888さむしろ2010-02-08 20:13:22.310309
同論文から。

『本朝陶器?証』(安政年間)では、「新兵衛遠州公時代の人なり。京三条柳馬場東入る南側に居住。いま杉浦三右衛門居宅の所なり」とあって三条柳馬場居住説は疑う余地がない。

とされている。

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