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No.889さむしろ2010-02-09 20:00:26.483977
陶工としての有来氏についてだが、
NO879ですでに紹介した、松屋久重の『古織公伝書』(松山吟松庵校注)に、
京三条町ウリノ新焼の茶入を織部殿・・・
とあるのが、陶工有来氏の姓を明記した資料としては初出のもののようである。

同論文から。

しかし有来氏の姓を明記していないが、初代新兵衛の作陶資料と目される更に古い記録がある。但し、現時点では即断を控えたいが、それは『神谷宗湛日記』の天正十五年正月十二日にある老茄子茶入の記述である。

との説を述べられている。
No.890さむしろ2010-02-10 17:22:38.355696
同論文から。

現在伝えられている初代新兵衛作の名物(中興)老茄子茶入には遠州の箱書付があり、三井家、鴻池家に伝わった名器である。

として、諸々勘案すると、この老茄子と先の老茄子が同一のものではないだろうかといっておられる。
No.891さむしろ2010-02-11 21:24:07.477229
同論文から。

今一度整理すれば、有来新兵衛初代の姓は明記されていないが、天正15年正月12日の神谷宗湛日記にある老茄子の記録が、尚検討を要するが初出資料ではなかろうかと推測されるものの、確実に姓が明記された初出資料としては、松屋久重の『古織公伝書』であり、同じく姓を明記した『別所吉兵衛伝書』ということになろう。
No.892さむしろ2010-02-12 19:10:47.379359
別所吉兵衛伝書は、名前のとおり別所吉兵衛が著した伝書である。
同論文から。

別所吉兵衛は伝書中で自らのことを、
我18歳より今日に至るまで細工を習い焼くといへども、生得拙なき故出来ず。然れども近年遠州公の御目がねに預り古瀬戸を模すといえども中々似るべき物にてもなし。
と記し、吉兵衛もまた遠州と親密な陶工であったことが窺える。

としておられる。
No.893さむしろ2010-02-13 16:54:23.076039
同論文から。

(吉兵衛は)『茶器名物図彙』(文政十年刊行)にも、「京仏光寺烏丸に住し、古瀬戸を専ら似せて業とすと云へり。古瀬戸は作至って上手なり。利休遠州公時代の内なり。」とあり、当時の名工であったことが知られる。

としておられる。
No.894さむしろ2010-02-14 17:58:51.963948
同論文から。

『別所吉兵衛伝書』の佐々竹庵の項、
老巧佐々竹庵丸底を焼く。摺古木手と云う。有来新兵衛の師匠、土薬とも伝授す。

有来屋敷出土作品の中に、信楽矢筈口水指があり、陶印が竹とあるから『別所吉兵衛伝書』の信憑性が立証された。
No.895さむしろ2010-02-15 20:14:49.658568
同論文から。

同伝書有来新兵衛の項に、
三条通り唐物屋。瀬戸窯にても焼く。のち粟田口にて焼く。

とあるということである。
No.896さむしろ2010-02-16 19:52:03.797348
同論文から。

瀬戸窯にて焼くという表現から、瀬戸(美濃)で焼いたこと、京在住陶工や趣味人が各地から陶土や釉薬を取り寄せ、或いは各地の陶工を招聘して作陶した事実が窺うことができる。
京瀬戸十作という呼称は、こうした事例によって生まれたものであろう。

と推測しておられる。
No.897さむしろ2010-02-17 18:55:55.096197
同論文から。

『別所伝書』には、別所吉兵衛の外に城意庵、万右衛門佐々竹庵、浪屋権右衛門、同八左衛門、玄伯、正意、宗伯、茶臼屋小兵衛、有来新兵衛、竹屋源十郎、順?、弥之助、茂右衛門などが記されている。

ということで多数の陶工がいたようであるが、時代が今ひとつはっきりしないのは残念である。
No.898さむしろ2010-02-18 19:53:36.381606
陶工有来氏に関する主なる文献を順に整理すると、
同論文から。

寛文12年刊行『茶器弁玉集』・・・近年の名人也。中略出来物の茶入は世間に之を用いる、

元禄10年刊行『茶湯評林』・・・元禄年中まではおよそ百年余というなり。然れども近年この年はやり出し、高値になりたり、

享保3年刊行『万宝全書』・・・京三条通り瀬戸物町、唐物屋にてありしなり。瀬戸へ下りて茶入を焼く。近年の名人也

と、名人新兵衛の名が不動のものになったとしておられる。
No.899さむしろ2010-02-19 19:05:49.872637
同論文から。

『茶器名物図彙』(文政十年刊行)には、
新兵衛に二代あり、遠州公時代までは初代新兵衛作のみありて、老茄子のほか名も世に聞こえず。遠州公時代茶事流行し侘び数き者も多く、遠州公始めてその節の二代の新兵衛茶入等好みて焼かせしなり。これより名物となりし茶入はみな二代新兵衛にあり。
ー略ー
初代新兵衛の間は古風にて、その節の時勢に合わず。それ故初代新兵衛を知る人稀れにて、新兵衛は遠州公時代の茶入師と思う人多し。
No.900さむしろ2010-02-20 15:14:46.065412
同論文から。

茶器名物図彙の記述について冨岡大ニ氏は、

初代新兵衛が古田織部の時代であり、二代が遠州時代であるとする説は正しい。しかし現時点では初、二代の生没年が不明であるから、伝世品を検討した結果、初代は天正から元和年間まで、二代は元和年間から慶安承応の頃まで作陶に関与したものと考える。

としておられる。
No.901さむしろ2010-02-21 17:53:02.801093
同論文から。

『本朝陶器?証』(安政年間・金森得水著)には、
信楽、伊賀、備前窯にて焼くなり。信楽矢筈よき作の物は新兵衛か。茶入と水指の外はなし。手強き作の面白き物なり。
とある。新兵衛に初二代のあることは知らなかったらしい、・・・。茶入と水指の外はなし、というのも当時としては止むを得ない。

とある。
No.902さむしろ2010-02-22 19:14:07.401133
同論文から。

高橋箒庵編纂の『大正名器鑑』は、名物及びこれに準ずる茶入茶碗等実物大で集録し、・・・各種資料を転載、伝来や実見記を記述・・・、・・・内容が詳細を極め、近代に於ける快挙

とも言っておられる。
ただ、その内容には同意できないものも多くあるが、それをもって箒庵氏の責めとすべきではないだろうとしておられる。
No.903さむしろ2010-02-24 20:04:32.903611
同論文から。

『大正名器鑑』では古くからの分類に従って、
「瀬戸又は京都あたりに於いて製作したるものを後窯と名ずく」として、後窯で著名なものは、
「利休、織部、正意宗伯、源十郎、萬右衛門、新兵衛、吉兵衛、茂右衛門」等の項

を設けて論じている。
No.904さむしろ2010-02-25 20:15:46.936741
同論文から。

備前茶入 さび助 は、大正名器鑑に載せられた初代新兵衛作でただ一つの備前ものである。
『名物目利聞書』に、
八幡滝本坊所持。古田織部好みにて新兵衛造り、いま由ありて酒井雅楽頭所持。箱書付宗甫。

とあり、新兵衛作との信憑性が最も高いものの一つであろう。
No.905さむしろ2010-02-26 18:01:58.690426
同論文から。

さび助には「C六」の陶印があり、これが三日月六兵衛作といわれるようになったのは明治以降である。

とし、そして、

「C六」の陶印が刻された備前茶入を三点実見しているが、さび助がその銘のとおり、最も侘びた焼成である、

としておられる。
No.906さむしろ2010-02-27 18:26:49.579344
同論文から。

名物(中興)辨舌茶入は草間和楽によって二代作とされていて、大正名器鑑でもこの説に従っているが、様式論からしても初代作である。
この茶入には「新兵衛の伝」という書付が添付されていて、筆者不明であるが大正名器鑑で次の如く紹介されている。

新兵衛は永禄年間京都三条高倉辺りに住せし人にて、陶器の製法に詳しく、自ら茶器を作りて楽しみとせりと云う。のち尾張国瀬戸に住せり。当時陶器の巧手なるは明らかなり。一説に云う。新兵衛は初め唐者の商人なりしと。蓋し初め唐物商にしてのち陶器商となり、当時名工たりし藤四郎十二世の孫加藤万右衛門基範に随い尾張に移住し、美濃の水上大平辺りを居とし、陶器を業とせしならん。永禄六年に織田信長公瀬戸を巡回し、瀬戸陶工六工を選びて六作と称し、窯場地拝領の特典あり。新兵衛もその一人なる事、明らかなり。

No.907さむしろ2010-02-28 18:37:54.777
同論文から。

冨岡大二氏の見解では、
信長六作は別に瀬戸六作ともいわれている。これは信長が永禄六年(1563)美濃瀬戸地方の名工六人を選定(『尾張名所図絵』)したという伝承によったものであるが、しかし信長の美濃平定は永禄十年であるから、永禄六年というのは疑問。

六作の工人は一説によれば、新兵衛、宗伯、茂右衛門、宗右衛門、長十、市左衛門であり、この内、新兵衛、宗伯、茂右衛門はのちの京都十作にも挙げられており、中興名物に選定された作品が現存している為、信長六作と仮に肯定するならば、当然その選定基準に該当する有資格者といえよう。
No.908さむしろ2010-03-01 17:34:03.236219
同論文から。

冨岡氏は、
初代新兵衛の作陶期間はその作風からして上限を天正年間、下限を元和年間と考えている。下限を設定した理由は、備前焼二重切花入の高台に、「元和八年五月朔 イT」の作品が伝世しているからである。

但し、この花入は全面補修のため初代か二代かの結論を控えている。
いずれにしても元和年間に初二代の交代があったと思われる。

としておられる。
No.909さむしろ2010-03-02 18:36:37.451077
同論文から。

五代浦井七郎兵衛、彦右衛門兄弟の時代(享保年間)に、浦井氏の隣家に住む杉浦氏が有来屋敷を買収し、同所を整地したところ、地下の穴倉とおぼしきところから、多数の茶陶が発見された。これら出土作品は杉浦家代々の当主によって保管されていたが、その後散逸したものもあり、現在ではかなり減少しているそうである。

ということである。
No.910さむしろ2010-03-03 19:38:58.304334
同論文から。

今回実見した作品はその内のごく一部であり、信楽、美濃が主たるものであったが、これ以外の各窯業地での茶陶類も数多くあったということである。

ということで、冨岡氏は実際に手にされたようである。
No.911さむしろ2010-03-04 19:48:29.806832
同論文から。

出土作品の一部はモミ製の木箱に収められ、蓋裏に、「享保年中三条宅造作之時自他掘出」と杉浦氏の墨書がる。
実見した中で最も興味をひかれたものは、室町最末期乃至天正年間初期を降りることがないと目される信楽矢筈口水指三点である。
見込の胴又は見込高台に、それぞれ「竹」という陶印が大きく手描きされている。

ということである。
No.912さむしろ2010-03-05 19:42:27.78224
同論文から。

「竹」という陶印から『別所吉兵衛伝書』にいう「老巧佐々竹庵 丸底を焼く。摺古木手という。有来新兵衛の師匠 土薬とも伝授す」という記述内容を立証する資料であろう。

としておられる。
No.913さむしろ2010-03-06 19:38:37.564942
同論文(有来新兵衛考 冨岡大二氏)から。

竹庵作の信楽水指は紐積み成形によったものであり、素朴豪快な作風で、初代新兵衛が師竹庵の陶技を模し、それを基調にしながらも、やがて独自の新兵衛様式を創作するに至る過程が理解できる資料といえる。
No.914さむしろ2010-03-07 17:19:15.664614
同論文から。

一例をあげれば、竹庵作水指の胴下部に胴紐状の突起帯をめぐらせている。これは初代新兵衛の備前水指によく見受ける様式であり、備前の他陶工にはほとんどみることのできないものである。

ということである。
No.915さむしろ2010-03-08 19:33:39.285808
同論文から。

見込み内部に大きく手描きされた陶印は、竹庵以降新兵衛もしばしば踏襲しており、おそらく新兵衛を介して他の京在住陶工たちに流布したものと思われる。

と推測しておられる。
No.916さむしろ2010-03-09 19:57:52.715198
同論文から。

竹庵作の水指は焼成も渋く地味で、素朴な豪快さはあるが作為の美が窺えない。
しかし新兵衛には素朴さは消えて、覇気横溢した豪快な作為が身上である。
つまり初代新兵衛は師竹庵のデザインを基調にしながらも、新時代に即応した独自の作為美を付加した点に特色があるといえる。

竹庵と新兵衛の作風の違いを述べておられる。
No.917さむしろ2010-03-10 19:27:31.355409
同論文から。

別に信楽単口水指一点があり、この見込胴に記号不明の角形押印が捺されている。これが竹庵作か、初代新兵衛作か断定できないが様式論からしても両人以外の作ではない。

とある。
No.918さむしろ2010-03-11 17:57:45.359022
同論文から。

珍しい作品として、手造りの信楽水指蓋数点がある。これは粘土塊を偏平に叩いてツマミを付けた極めて稚拙な作行で、恐らく初代新兵衛が初期に自ら造ったものであろう。
この蓋の内ニ点には「L」という手描き陶印が刻されている。新兵衛の頭文字「之(し)」の略記号である。

としておられる。
No.919さむしろ2010-03-12 18:12:03.008086
同論文から。

その他の出土作品としては、桃山期の織部黒茶碗や練上手茶碗があり、いずれも陶印は刻されていない。これらが初代新兵衛の発注品か、或いは商品として仕入れたものかは即断できない、

としておられる。

また、美濃伊賀水指一点があったことを紹介しておられる。
No.920さむしろ2010-03-13 20:22:21.715272
同論文から。

有来新兵衛が何故「T」の陶印を使用したかという点については、『翁草』にある如く、その祖が中国人丁七唱であるから丁印を使用したのではなかろうかと、かっては考えていたが、しかしそれは理由が薄く、有来の頭文字「う」の変化形であるとするほうが正しいと考える。

との考えを述べておられる。
No.921さむしろ2010-03-14 20:16:19.605074
同論文から。

従って丁は正しくは”う”と発音しなければならない。「イ」「イの逆字(第1画のノが左から右に流れる)」は丁の変形である。
シの陶印も数多く使用されているが、シは「之」の略であり、「L」は之の変形である。

等と詳しく解説しておられる。
No.922さむしろ2010-03-16 19:48:42.892587
他にも有来新兵衛の陶印について、千の変化形、之の変化形や信楽水指、備前作品などについての陶印を掲載しておられる。
No.923さむしろ2010-03-17 17:07:57.603038
冨岡大二氏は、同論文で「新兵衛と備前について」として次のように述べておられる。

有来新兵衛初二代とも、一部備前陶工に扶持を与え、好みの切形等で発注したものと考えられる。時に見受ける新兵衛の手造りものは、いかにも素人臭が強く、それに比して同一陶印のものでも優作は専門陶工によらなければ成し得ない技量であり、両者の力量の隔たりがあまりにも大きい。これによっても多くの場合専門陶工に発注したものと推測される。
No.924さむしろ2010-03-18 17:38:04.883585
同論文から。

現存する作品から考察すると、初代新兵衛は一文字印の陶工、梅花印の陶工、六印の陶工、巻貝印の陶工等に発注している。この内一文字印の陶工のみ氏名が判明している。

としておられる。
No.925さむしろ2010-03-19 18:08:52.183563
同論文から。

一文字印の陶工と六印の陶工には、新兵衛の陶印との組み合わせ印があることによっても、新兵衛の発注を受けた陶工であることが窺えるが、梅花印及び巻貝印と新兵衛の陶印の組み合わせは、現在のところ発見されていない。
No.926さむしろ2010-03-20 17:01:34.41933
同論文から。

しかし両陶工とも、遺作が僅少である点、陶印がなければ初代新兵衛であると鑑別可能なほど作風が類似している点などから、両陶工とも新兵衛の下職人であったろう。

と推測しておられる。また、

一文字印の陶工は他の三工に比して伝世品が比較的現存しており、終始専属的な下職人であったとは考えられない。

との考えを述べておられる。
No.927さむしろ2010-03-22 17:54:52.597937
作品的特徴について、同論文から。

水指、花入には胴部を歪ませ変形したもの、或いは三角風にしたものがある。

焼成はサンギリ風の窯変を片身替りの文様にしたものが多く、・・・

こうした作為の強い姿に加えて、装飾効果を狙ったヘラ目がタテ又は横に走り(太いもの細いもの両手)、時には他工に見られない極端な曲線状ヘラ目や、或いは数本のラセン状又は輪状を呈する刻線がめぐらされたものなどがあり、極めて個性的である。

と、初代新兵衛の特徴を述べておられる。
No.928さむしろ2010-03-23 18:11:21.74398
同論文から。

そして、
一歩誤れば過剰装飾になる恐れは多分にあるが、そのぎりぎりの直前で過剰意識を巧みに抑えている点が、初代新兵衛の巧緻さであるといえよう。

としておられる。
No.929さむしろ2010-03-25 12:50:49.809014
同論文から。

冨岡氏は、備前物について、初二代合せて48点の作品を確認しておられるという(内二代は8点)。
水指が最も多く66%を占め、花入が19%、その他も例外作を除きすべて茶陶である。

としておられる。
No.930さむしろ2010-03-25 20:16:18.428735
同論文から。
「新兵衛の作陶地について」の項から

『大正名器鑑』では美濃瀬戸に於ける作品を主として掲載しているが、伊賀信楽、備前、唐津等で数多くの作品が伝世されている。ごく一部は自らの手造りもあるが、大半は切形等による発注であり、しかもすぐれた陶芸デザイナーとしての発注者であった。
No.931さむしろ2010-03-26 20:39:43.481224
同論文から。

伊賀信楽の場合、京に近いこともあり頻繁に作陶発注したと思われる。

豪快な作為の勝った作風で、一見して初代新兵衛作と鑑することができる。
No.932さむしろ2010-03-27 19:32:53.622139
同論文から。

その代表例が三角風に歪んだ旅枕花入である。見込みに大きくイの陶印があり、口部が外側に突出して不規則な起伏をつけたところは、初代新兵衛の最も特技とする姿である。

としておられる。
No.933さむしろ2010-03-28 19:00:35.725366
同論文から。

織部の茶会記から、慶長七年正月九日の「三角ノ伊賀筒ニ唐木爪生ル」を紹介。

この花入には胴部に数本のラセン状刻線が太くめぐらされ、この技法は初代新兵衛の独断場である。備前花入にも同例があり、ラセン状刻線は初代新兵衛の趣向によって生まれたものではなかろうか。

と推測しておられる。
No.934マスター2010-03-29 19:33:13.160715
催し案内です。

「アートフェアー東京2010」
日時 4月2日〜4日
場所 東京国際フォーラム 展示ホール
詳細は下記より確認下さい。
  http://www.artfairtokyo.com/
 ギャラリー青山
 http://www.bizenpottery.com/

「安倍安人・内田江美 二人展」
日時 6月9日〜6月15日
場所 阪急梅田

「安倍安人さんの話を聞く会」  主催:かたち21 
日時 4月18日
    6月27日
    8月29日
    10月17日
    11月又は12月
詳細は下記より確認下さい。
 http://homepage2.nifty.com/katachi/n-abe/abetalk.html
No.935さむしろ2010-03-31 19:39:08.181023
同論文から。

京都在住陶工の中で、新兵衛の作風に近似したものを作る陶工が茂右衛門であるという。

一般的に茂右衛門の作は穏和なものが多い。つまり、初代新兵衛の作品中、最も穏和なものが茂右衛門に近似していて、茂右衛門の作中最も作為的な覇気に富む作品が、初代新兵衛に近似している、

という。
No.936さむしろ2010-04-01 21:24:56.900265
同論文中に、伊賀花入「生爪」についての記述がある。

これは慶長年間の作と思われる。見込みに十印が大きく手描きされていて、常に見る茂右衛門作に比して覇気横溢しており、胴部の豪快さ、・・・歪んだ姿等、初代新兵衛様式を模したものであるが、ヘラ目装飾が少ない点が、茂右衛門作の特徴である。

これが新兵衛作ならば、この姿を更に強烈に印象づけるため、胴部を歪ませ、・・・刻印を入れ、・・・ヘラ目を加えるものが多い。

初代新兵衛作伊賀花入の見込みに大きくイの陶印が施された作品が伝世している。生爪と全く同手の姿であるが、異なるのは、新兵衛作の胴部には幅広の凹帯が二本あり、生爪は一本である。
No.9372010-04-01 21:24:58.185036
No.938さむしろ2010-04-04 18:29:53.659783
同論文から。

備前では古くから新兵衛、茂右衛門が同道して来備したという口碑が伝わっており、伝世品でもTと十の組み合わせ陶印が幾点かあり、いずれも都会的なセンスに溢れた作風であるから、両者の親交は否定できないだろう。

とある。

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