茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.939さむしろ2010-04-05 19:56:16.405438
同論文では、新兵衛と唐津との関係についても、「新兵衛の九州下向は糸割符年寄として義務付けられていた」(糸割符由緒書)として、「九州へ下向した際、唐津等にも立ち寄り作陶発注したのであろう。」と推測しておられる。
No.940さむしろ2010-04-06 19:36:23.406415
同論文「むすび」から。

有来新兵衛は、当時第一級の豪商であった。
佐々竹庵から修得した作陶の余技を生かし、更に類い稀な創意を生かし、美濃瀬戸、伊賀信楽、備前、唐津等広範囲な地域で茶陶を製作した。もちろん自ら手を下して作陶したこともあったが、大半は各地の名だたる名工に発注したのである。

しかし単なる発注者に終ることなく、己の創意による切形等を与えたすぐれた作陶デザイナーでもあった。その創意にかかるデザインは古田織部の賞賛を受けた。(つづく)
No.941さむしろ2010-04-07 18:11:17.624388
二代新兵衛も天与の才能とたゆまざる努力によって小堀遠州の注目を受け、父子供に名物(中興)に選定された作品が最も多く、やがて新兵衛焼というブームを起こし、寛文年間以降名人新兵衛としての不動の地位を獲得した。(つづく)
No.942さむしろ2010-04-08 17:28:59.37005
従って従来織部好み、遠州好みという抽象的表現で処理されていた様式の多くは、有来新兵衛好みであり、桃山様式(初代新兵衛)や江戸最初期様式(二代新兵衛)が急速且つ広範囲な地域に伝播した直接原因は、有来氏によって代表される京在住陶工の活躍に負う処、すこぶる大であったと思われる。(つづく)
No.943さむしろ2010-04-09 20:16:01.306802
当時の陶工中でも有来氏の現存作品が群を抜いて多い理由は、朱印貿易や糸割符商としての本業よりも、作陶の余技をむしろ正業として、茶陶商の道を晩年ひとすじに貫き通したからであろう。

当時の茶陶生産地は、いまだ藩窯としての組織がなく、陶工は個々の力量に於いて生活を保持した時代である。彼らにとって、並外れた財力を持ち、しかも天下の茶匠と交わりを結ぶ有来氏の発注を受けることが、最大の誇りであり名誉であったろう。(つづく)
No.944さむしろ2010-04-10 13:50:19.01457
しかし有来氏が専門陶工に発注したとはいえ、その作品は受注陶工の個性が発揮されたものではなく、あくまで有来新兵衛のデザインであり、有来新兵衛の陶印を刻した作品でる。

この有来氏親子の陶芸に於ける美意識こそ、近世初頭の先駆者として、新様式を生み育んだ豊かな土壌ではなかったろうか。

波濤万里をこえて南海に雄飛した豪商有来新兵衛の足跡よりも、むしろ陶工としての類稀な業績こそ、正史に正しく記録されなければならないと思う。


と結ばれている。
No.945さむしろ2010-04-11 19:05:11.116979
以上冨岡大二氏の研究論文を紹介してきた。論文には初見の内容が多くあり、また興味深い話も多々あった。冨岡氏には、織部様式=三点展開による造形という視点がないので、私とは結論付けが異なるところが多くあったが、それは止むを得ない。

抜き出しての紹介であり、冨岡氏の考えをどの程度伝えられたか自信がない。どうか原文(陶説)にあたっていただきたい。

それはそれとして、もう少し読み込んでみたいと思わせる、興味深い論文であったことは間違いない。
No.946さむしろ2010-04-12 17:15:15.777695
有来新兵衛考で書き足りなかった点や、新しく発見した新資料があるということで、
「有来新兵衛考・補筆」(冨岡大二氏)
の連載があるので、引き続き紹介する。
No.947さむしろ2010-04-13 17:58:35.05353
補筆論文から。

浦井新兵衛初代が徳川家康から「有来」の姓を許されたことは、「朋、遠方より来る有り。亦楽しからずや」の意を採ったものであることは『翁草』に詳しく述べられている。
−略ー
有来姓を賜った上限は慶長五年、その下限は慶長九年をさほどくだらない時期ではなかろうか。

と推測しておられる。
No.948さむしろ2010-04-14 18:55:39.242404
補筆論文から。

『別所吉兵衛伝書』の奥書にあった「文禄四歳」は後人の加筆であり、正しく記された「乙未」の干支は明暦元年(1655)であるとする説が正しい。

以下同論文から、京在住陶工を紹介する。
No.949さむしろ2010-04-15 18:40:54.719035
補筆論文から。

(城 意庵)
古田織部の命を受け、尾州鳴海にて焼く。また、この窯にて千利休好みの茶入を焼く、と記されている。
家康に仕えた城和泉守景茂が「意庵」と号した。自ら成形したのではなく、好みものを発注したと考えるべき。その作品は未見。

とある。
No.950さむしろ2010-04-16 19:27:36.394531
補筆論文から。

(万右衛門)
唐物写しが巧みで洛北御菩薩池に住したと記されている。
No.951さむしろ2010-04-17 17:55:15.236735
補筆論文から。

(浪屋権右衛門)
この窯にて渋紙手つまみ底を焼く。キリギリス手、藤波手ともいう。子息八左衛門も破風窯を焼く、と記されている。
名物はなく、作品も未見である。

とある。時代も不明。
No.952さむしろ2010-04-18 18:16:17.849996
補筆論文から。

(玄白)
高野窯といい、名物「橋姫」茶入を模して焼くが下手である。
玄白には名物に選定された作がなく、作品も未見である。

とある。
No.953さむしろ2010-04-19 19:39:35.536369
補筆論文から。

(正意)
室町四条下るの眼科医であると記されている。正意作の茶入は始祖から六祖までが有名であり、・・・・・、名物茶入作者である。
作風は極めて個性的で、達意の人の余技作という風趣があり、鑑別も容易である。

などとある。
No.954さむしろ2010-04-20 18:22:45.7082
補筆論文から。

(宗伯)
もと武州川越の人で、のち京に住して耳付茶入を焼いたが、茶入よりも茶碗を多く作った。武州では伯庵という、と記されている。
世上伝来する伯庵茶碗はこの宗伯の作ではなかろうかと立論したのは小田栄作氏である。

と記されている。
No.955さむしろ2010-04-21 20:39:36.54098
補筆論文から。

宗伯作の名物(中興)茶入には「聞か猿」があり、耳付きという特殊なものである。桃山期に於ける茶入は東の美濃、西の備前が二大産地であり、いずれも一部耳付茶入が作られている。とりわけ○印を使用した宗伯茶入は姿が端正謹厳で且つ典雅さをひめている。

とある。
No.956さむしろ2010-04-22 17:21:25.54014
補筆論文から。

(茶臼屋小兵衛)
もと堺の船頭であったが、寺町通り本能寺前に住すと記されている。名物選定の茶入はなく、作品も未見。

とある。
No.957さむしろ2010-04-23 17:23:16.189756
補筆論文から。

(竹屋源十郎)
茶道具商で東六条に住す。手先の器用な人にて遠州に賞賛され、伏見両替町裏に窯を築き、茶入を焼く。
新兵衛、正意、宗伯に次ぐ茶入の作が数多く残されているが、初ニ第がある。

とある。
No.958さむしろ2010-04-24 16:34:42.095592
補筆論文から。

(茂右衛門)
肥前高取焼は金森宗和殿が物数寄にて、私の従弟茂右衛門が下向して焼く、と記されている。

茂右衛門の陶印が十であることは周知されているが、備前、伊賀、美濃等では現存する作品が多く、名物にも選定されている。高名な伊賀花入「生づめ」は同人の作である。

有来新兵衛同様京瀬戸十作の一人として古くから名工の名をほしいままにしており、その作品の一部は初代新兵衛と近似することは本論で述べた。

茂右衛門も美濃陶工加藤茂右衛門景定と混同される場合もあるが、京に住した別所吉兵衛の従弟茂右衛門とは、全く別人である。

とある。
No.959さむしろ2010-04-25 19:45:25.595249
補筆論文から。

(その他の陶工)
別所伝書では、「この外数多くあるといえども載せるに及ばず」としているところから、かなり多くの陶工や趣味人が、当時京では作陶に関与していたのではなかろうか。「Q」印の光存などは美濃で水指茶碗等を数多く作っており、本書に記載されなかった点が惜しまれるが、これは別所吉兵衛の狭い識見の範囲に触れた者のみを載せてあり、名工すべてを網羅した性格の書ではないことを知らねばならない。

とある。
No.960マスター2010-04-26 09:39:43.162903
東京アートフェアー2010を見て。

安人の水指、オブジェ、徳利、茶碗、茶入、ぐいのみ等。
彩色を中心に30点出品していた。そのうち売約22点とよく売れていた。
壁面に飾った内田江美の100号の油彩も素晴らしかった。アメリカ系有名画廊が買っていったらしい。
あのような会場で著名な画廊が買っていくということは、そうそうあることではないと思われる。
何があったのか?何かが起こったのか? 安倍さんに尋ねてみたい。
No.961さむしろ2010-04-26 18:08:08.233844
補筆論文から。

清水道閑作備前茶入「鏡山」は高名。
この鏡山茶入にはいわくがあって、かって道閑が遠州宅に赴くと、備前から陶工が来ていたので、道閑もこれを奇貨として好みの茶入を作らせて、高台に「道閑」の二字陶印を刻し、・・・。

と、備前陶工の往来の記述がある。
No.962さむしろ2010-04-27 20:22:54.558346
補筆論文から。

初代新兵衛の陶印「イ」「T」「シ」等が出土する九尻元屋敷窯は加藤筑後守景延が経営する窯であるが、志野、黄瀬戸、織部黒・・・・等実に多彩な作品を登り窯で焼成した美濃の代表窯の一つであり、更に重要な点は、有来新兵衛を始めとする京在住陶工の発注を受けた窯である。

この窯跡出土の美濃伊賀水指の高台に、「慶長十七年 此水指 新へえ」と刻されており、この作者が美濃陶工加藤新兵衛ではなく、初代有来新兵衛作であることは本論で述べた通りであるが、外に牟田洞窯にも発注したものと考えられる。

とある。
No.963さむしろ2010-04-30 19:29:39.974329
補筆論文から。

今回実見した有来屋敷出土資料の中に、唐津風の土灰釉を掛けた筒花入に、鉄絵で草花文を描いた作品があった。−略ー 唐津かと誤認するほど釉調が酷似・・・−略ー 美濃牟田洞の作と断じたい。

これには陶印がなく、また豪快な様式ではなく、単調な作であり、にわかに初代新兵衛と結びつけることは出来ないが、これが有来屋敷から出土したことに意味があると思われる。

とある。
No.964さむしろ2010-05-02 00:02:23.529464
補筆論文から。

何故ならば、牟田洞窯から出土する陶印に「T」があり、これは初代新兵衛の陶印である。また美濃茶碗「猛虎」に代表される練上げ志野は有来屋敷からも出土しているため、これは初代新兵衛の創意によって生まれたものではなかろうか。

といっておられる。
No.965さむしろ2010-05-02 17:53:03.035985
補筆論文から。

絵文様の共通性については、当時京屈指の富裕者有来新兵衛によって代表されるすぐれた発注者たちの斡旋により、系統を同じゅうする京の絵付師が、美濃や唐津に派遣され指導したものと考えられる。

とある。
No.966さむしろ2010-05-03 17:49:47.996799
補筆論文から。

時代に即した斬新な文様は地場陶画工が発案したものではなく、それは政治や文化の中心であった京の陶画工が現地に赴き開拓し、そこに定着せしめたものであり、こうした絵付師のかくれた功績は、今後の調査によって解明を迫られる問題であろう。

としておられる。
No.967マスター2010-05-05 23:42:17.029089
安倍さんから情報を入手しました。

「アートフェア東京」に出展出来るギャラリーは厳正な選考により決まります。
「備前ギャラリー青山」は出展の権利を持っているギャラリーで、今回アートフェアー東京2010は安倍安人と内田江美の
作品を出展しました。
アートフェアには、一般の客の外、アート関係者が世界中から集まって来るということです。
アメリカ人でニューヨーク、東京、シンガポール、上海に支店を持つ有名ギャラリーのオーナーが、来場し、
某ギャラリーの某作家の作品の購入を決めていたが、各展示ブースを見て歩いていて内田江美の
100号の作品に目を留め、購入を決めていた作品を取りやめて、内田の作品を買ったということでした。そのオーナーは、今秋のシンガポールでの
アートフェアへの内田江美の出展、そして今度香港に新しいギャラリーをオープンするそうで、そこで
内田江美の個展を行いたいとのオファーがあったということでした。
最終日には、内田江美の絵が、マイアミアートフェアーへの出品作家を探しに来ていたサザビーズニューヨークの担当者の目に留まり、
今年12月のマイアミアートフェアへの出展を求められるということもありました。
マイアミアートフェアは、ギャラリーに出展の権利があるのではなく、出展の権利を持つアーティスト
を持つギャラリーが出展することが出来るということのようです。そのようなことから
備前ギャラリー青山は、
今回のマイアミアートフェアに出展できます。そこで安倍さんも出展を考えておられるということです。
内田江美さんには失礼だが、無名で駆出しのアーティストへのこのようなオファーは、物語としてはあっても
現実にはありえない大変な話だそうで、それも複数のギャラリーからのものであり、たまたま好みにあった
ということではない。これまで気軽に創作活動を続けてきたが、アメリカ、シンガポールといった外から
注目をうけ、いきなり世界の舞台に立つことになった内田江美の、これからの創作活動は要注目です。

その後、シンガポールのギャラリーが数社立ち寄り、「ディティールがしっかりしているのにシンプルさを
感じさせて、それでいてどんなリビングルームにもマッチしやすそうな・・・。深くてシンプルでいて
現代を感じさせるところがいい。」と強い関心を示したということでした。

内田江美さんと共に安倍さんの活動場所もアメリカ、シンガポールと広がり、これまでのような
創作活動は困難で、安倍さんの活動配分も大きく変わってきそうです。体力的なこともあり創作点数は
相当減少するものと思われます。

安倍さんの出展作品ですが、水指(154万円〜200万円)、徳利(52万5千円)、酒器(13万6千5百円)、
以上いずれも彩色。茶入(94万5千円)、茶碗(105万円)等が出展されていました。出品作品35点中26点売れていました。
他の陶芸系のギャラリーは相当の苦戦だったようですので、安倍さんの人気は驚愕でした。
No.968マスター2010-05-06 09:27:59.751387
「アートフェア東京2010」風景
No.969マスター2010-05-06 09:28:34.103027
「アートフェア東京2010」風景
No.970マスター2010-05-06 09:29:06.403392
「アートフェア東京2010」風景
No.971マスター2010-05-06 09:29:39.371197
「アートフェア東京2010」風景
No.972マスター2010-05-06 09:30:04.6127
「アートフェア東京2010」風景
No.973マスター2010-05-06 09:30:31.378606
「アートフェア東京2010」風景
No.974マスター2010-05-06 14:01:52.710382
「アートフェア東京2010」風景
中島誠之助氏と安倍安人、内田江美(左)両氏
No.975さむしろ2010-05-10 19:37:51.032925
補筆論文から。

唐津風登り窯の美濃導入について、

慶長九年以前の私貿易時代、九州に下向したと推測される初代新兵衛の関与があったのではなかろうか。

としておられる。
No.976さむしろ2010-05-11 19:59:40.367602
補筆論文から。

そして、

今後唐津諸窯の調査により、初代新兵衛が唐津焼に発注した初源が判明し、それが久尻元屋敷登り窯開窯以前であるならば、美濃の登り窯導入は、新兵衛関与の可能性を一段と強くするものと考える。
何故ならば、有来新兵衛にとって、施釉陶産地である美濃での発注を企業として一層有利に展開するためには、登り窯導入こそ時代に即応したありようであったからである。

と述べておられる。
No.977さむしろ2010-05-12 19:37:07.611679
補筆論文から。

それにつけても想うのは、備前の窯では桃山時代から江戸最初期にかけて、有来新兵衛等京在住陶工の発注による恩恵を受けた為に、長元、新兵衛、茂右衛門、宗伯等の活動が口碑として伝えられたのであるが、大量の発注を受けた美濃では、何故伝えられていないのであろうか。

とも。
No.978さむしろ2010-05-13 17:36:57.135171
補筆論文から。

美濃に移り住んだ瀬戸陶工たちが、慶長後期以降再び瀬戸に帰った原因は、産業活動を一種の殖産企業とする支配者の政策ではあったが、それに加えて自由な創意に満ち且つ覇気にとんだ多くの発注者たちが、次々と世を去っていったのと奇しくも重複したのである。
加藤一族の瀬戸帰参は産業振興という名分に拠りながらも、実際には日本の花形産業から、やがて一地方産業に転落する皮肉な運命をたどらざるを得なかった。

と、美濃窯終焉を推測しておられる。
No.979さむしろ2010-05-17 19:58:49.428786
補筆論文から。

『茶陶商有来氏について』
初代有来新兵衛は徳川氏より朱印貿易の公許を受けた貿易商であり、併せて糸割符商人団を支配する糸割符年寄でもあったが、二代の盛期に海外貿易が禁止され、糸割符商を本業としている。しかし初二代共有力な茶陶商として活躍した。

初代新兵衛の場合、家業を二代に譲ったのちは、もっぱらすぐれた陶芸デザイナーとしての天分を遺憾なく発揮し、各地に於いて発注している。私の小さい見聞の範囲でも、初二代あわせて約七十点に近い各窯業地の作品を実見しており、現存の実数はこの数倍を下るものではないと考える。
No.980さむしろ2010-05-18 18:46:30.323667
補筆論文から。

他にも新兵衛作と断定可能ではあるが、陶印が不鮮明なため保留している作品が十二点ある。従って桃山から江戸初期にかけて有来氏が最多作家であろう。現存作品の実数は、茶陶商としての側面を実証するものと思われる。

としておられる。
No.981さむしろ2010-05-19 18:49:05.876223
補筆論文から。

有来氏の居住する三条馬場あたりを古くから瀬戸物町とも呼んでいた事実は、更にこれを補うに足るものであろう。

とも。
No.982さむしろ2010-05-20 17:53:20.754309
補筆論文から。

桃山時代に備前の茶陶が九州方面まで行き渡っていたことは、いくつかの文献から知ることが出来る。
代表的なものとして「宗湛日記」。
利休が博多で掘り出したとされる備前茶入「布袋」、秀吉が博多で掘り出した備前水指「博多水指」がある。
No.983さむしろ2010-05-21 20:14:52.776305
補筆論文から。
このようなことから、

備前で作られた茶陶類が、強力な販売網を有する有来新兵衛などによって仕入され、全国各地に拡散したのであろう。とくに初代新兵衛の場合天正前期に属する作品は僅少であり、大半が文禄慶長年間の様式であるから、当初は既製の茶陶を仕入販売することが主であったと考えられる。その後、全国的な規模で各地の有力茶人数奇者等から注文が増加するに従い、やがて自らの創意による作品を発注し、これを販売する妙味を知ったはずである。

との考えを述べておられる。
No.984さむしろ2010-05-22 18:04:34.514958
補筆論文から。

『上井日記』(薩摩島津家・上井覚兼)が、地方研究の第一級の資料だとして、
天正年間極めて頻繁に茶会を開いている。西海道の果てにある島津家中の人々は、京や堺の茶の湯の動向を得ようとして腐心しているさまが手に取る如く活写されていて、興味尽きない。

と、島津家においても、茶の湯が随分と盛んであったと述べておられる。
No.985さむしろ2010-06-01 20:01:02.839877
補筆論文から。

桃山時代から江戸初期の備前焼を鑑別するために、陶印による目利歌が江戸中期の頃山岡俊明によって著わされた。

「底見れば松葉長元 丁新兵衛 丸宗伯よ 十は茂右衛門」とある。

備前地方ではこれら四人の京陶工たちの活躍を賞し、口碑として各時代に引き継いでいる。また特に新兵衛と茂右衛門は親交が深く、世に讃岐の金毘羅宮に参詣し、その帰途伊部で作陶したという伝承も伝えられている。

とある。「伝承」がどのようなものか大変に興味がある。
No.986さむしろ2010-06-02 18:45:17.66101
補筆論文から。

このような伝承とは別に、江戸時代から備前の茶道具商の一部で「見込に陶印のある茶陶は一級であり、現物を見なくても買うべきである。これに贋物なし」という言葉が、秘奥の口伝として伝えられていた。

見込に陶印を押捺又は手描きする手法は本論でも述べた如く、判明している限りでは有来新兵衛(初代)の師匠佐々竹庵を嚆矢とし、以後新兵衛を介して京陶工の間で流布したものと思われる。

とある。
No.987さむしろ2010-06-03 18:56:10.789285
補筆論文から。

現在まで確認した作品は美濃、唐津に僅少例あり、備前、伊賀、信楽に多い。

陶印を器表又は高台に刻する手法は、江戸最初期以前では備前が最も頻度が高く、それは他窯の比ではない。
No.988さむしろ2010-06-05 20:10:29.167677
補筆論文から。

その原因は色々あるが、共同焼成という方式であることが大きい。
他窯で陶印を刻することが少なかったのは共同焼成方式を採ることが少なかったからであろう。

何故大量の陶印が生まれたのか。それは、一家一族で個人窯を経営した美濃や唐津の陶工たちが自らの作品判別の為ではなく、発注者間ーつまり京陶工たち相互間の作品判別を便にするための手段であったとの認識が重要である。

との見解を述べておられる。

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