茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.571さむしろ2013-10-18 18:16:58.472162
1603年、家康62才、秀頼11才。
1月1日諸大名はまず大坂城で秀頼に年頭の挨拶。
翌2日、伏見城の家康に年頭の挨拶。
このことは秀頼が天下人の地位にあり、家康はたてまえ上後見役の地位にあったことを示している。

2月12日、家康に征夷大将軍の宣旨。
3月21日、家康は伏見城から二条城に入る。家康はこの日に備えて二条城を築いたものと思われる。秀吉の聚楽第と同様の発想か。
3月25日参内。

この間について、
「家康が征夷大将軍に任じられたということで、最もショックをうけたのはいうまでもなく豊臣方であった。家康はあくまで後見役・補佐役と考えていた豊臣方は、家康が将軍になったことで「政権を奪取するおそれあり」と考えはじめる。」
と説明してある。
No.572さむしろ2013-10-19 16:01:21.180507
1604年、家康、江戸から伏見城へ。
1605年正月、家康、江戸から伏見城へ。
同年3月、秀忠10万の軍勢とともに伏見城へ。・・・・・大坂方慌てる。
同年4月、将軍職を秀忠に代えることを朝廷に奏請し認められる。

家康が征夷大将軍になったことについて、大坂方は当初「秀頼様が成人するまでの間のこと」と楽観的に受け止めていたようであるが、秀忠が将軍職に就くことは、将軍職を徳川が世襲することを意味したから、秀頼側近らから「秀頼様が成人しても政権を返すつもりはないのではないか」とやっと気付き始めた、という。
No.573さむしろ2013-10-20 16:25:56.795305
1605年3月、江戸城増築工事始まる。
同、伏見に向かい出発。途中駿府に止り、隠居城を築こうとして周辺視察。
駿府城主内藤信成を近江長浜城に転封。

島津にかくまわれていた宇喜多秀家を八丈島に島流しに。島津が家康の威光に屈し、しかし家康もせっかく落ち着いてきた島津との関係を再び緊張関係に戻さないためか、処分を穏便にすませた。

ただ家康は、島津に駿府築城にあわせて大規模の堤防工事を命じた。これは財力消費のためであろう。
No.574さむしろ2013-10-21 17:37:49.560221
1607年〜1610年
1607年 駿府城天下普請始まる。
    伏見城の財宝を駿府に。
    駿府城、失火で焼失。
1608年 正月 秀頼の使者、駿府で家康に年頭の挨拶。
    駿府城本丸御殿完成。天守台上棟式。
1609年 正月 秀頼の使者、駿府で家康に年頭の挨拶。
    清州にて新城の適地を視察。
    駿府城で失火。
    大坂方の放火とか、キリスタンの放火などといわれている。
1610年 北国・西国諸大名に名古屋城築城を命じる。
    加藤清正、前田利家、池田輝政ら豊臣家に縁の深い19大名が命じられた。
No.575さむしろ2013-10-22 17:22:44.807662
家康は、大坂城を包囲するための城として、
彦根城
伊賀上野城
丹波篠山城
名古屋城
を築城し、大坂方の江戸攻め上がりにに備えたようである。

No.576さむしろ2013-10-23 19:26:39.716265
関ヶ原の戦いの後、家康は西軍側大名八十八家をとりつぶし、五家を減封処分とした。
とりつぶした大名の合計石高  416万石余
減封処分石高            26万石余
家康はこれらを再配分する過程で、取り立てに軽重をつけたり、遠くに転封したり、要衝の地には親藩・譜代大名をあてたりと考えられる限りの知恵をしぼった。

家康にとって外様大名の去就は常に脳裏から離れず、決して油断の出来る状況ではなかった。秀頼がこれまでどおり大坂城におり、豊臣恩顧大名達がいつ担ぎ出して徳川に戦いをいどんでくるかわからなかったからである。

そこで西国の外様大名達に謀反がおこせないほど軍資金を使い果たせようとして考えたのが「天下普請」であった。ただこれも秀吉が行っていたやり方のまねであった。
No.577さむしろ2013-10-25 13:24:38.0285
家康は、いずれ秀頼と一戦まじえることになると考えていた。そのための大坂城包囲網の準備をすすめていた。

彦根城・・・伊賀、伊勢、美濃、飛騨、尾張、若狭、越前から十二大名が助役を命じられた。

丹波篠山城・・・西国十五か国、藤堂高虎、池田輝政、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長ら二十余大名が助役を命じられた。

その他膳所城、伊賀上野城、姫路城、和歌山城などを築かせ、また大規模な改良工事を行わせ、大坂城包囲の態勢を整えた。(疲弊させながら防御を固める一石二鳥の策。)
名古屋城はその一環としてだけでなく東海道防衛としての意味合いも大きかったという。大坂方の軍勢が彦根城を突破して東海道から江戸に向かうシナリオも想定していたのであろうと記されている。
No.578さむしろ2013-10-27 17:36:54.690986
諸大名たちの助役は、家康からの資金拠出はなく、人夫の手間賃、道中費用、滞在経費などのすべて自腹であった。

家康は外様大名に資金的に疲弊させ、自らの防御を堅固にすることができた。
No.579さむしろ2013-10-28 18:49:51.003165
名古屋城築城に動員された外様大名。
 ◎徳川に親しい外様、▲外様、■豊臣に親しい外様

筑前・黒田長政◎   豊前・細川忠興◎   筑後・田中忠政■
豊後・毛利高政▲、 竹中重利▲、 稲葉典通◎、 木下延俊■
肥前・鍋島勝茂▲、 寺沢広忠▲
肥後・加藤清正■    伊予・加藤嘉明■   阿波・蜂須賀至鎮◎
讃岐・生駒正俊▲    長門・毛利秀就▲   加賀・前田利常■
飛騨・金森可重▲    土佐・山内忠義◎

途中から加わった大名
播磨・池田輝政▲    安芸・福島正則■    紀伊・浅野幸長■
No.580さむしろ2013-10-29 19:32:38.995122
秀頼の所領は摂津・河内・和泉の六十五万七千石の一大名になっていて、名古屋城普請の助役を命じられたが、淀殿が怒り出したため取りやめとなった。
このことにより大坂方の家康への反感が強まった。

慶長十六年(1611)家康七十才、秀頼は日々成人していく。
家康は、子の叙位任官のお礼言上を名目に、三月六日六年ぶりに上洛のため駿府を発った。
No.581さむしろ2013-10-31 18:07:00.728288
家康上洛の供は五万とも。名目はお礼言上であったが、家康は秀頼を二条城に迎えた。

それまで秀頼の方から家康を訪ねることはなかった。三月六日ついに秀頼の方から二条城に家康を訪ねた。これこそ、それまでの豊臣上位、徳川下位の序列が逆転したことを表わしている。

記録では、最初の杯を家康が干し、それを秀頼に与えた、とあるという。名実共に逆転したのである。

この年六月、秀頼擁護派の加藤清正が没した。秀頼にとって大きな痛手であった。
No.582マスター2013-11-01 10:12:22.041145
お知らせ。

Anjin Official Site がスタートしました。

アドレスは
http://anjin-a.com
ですが、安倍先生のブログや新作を中心に多数の作品をアップしています。ホームページの最後にリンクをはっていますので、どうぞお訪ね下さい。

お出でいただいているこちらのSiteは”別室”の位置づけとしてこれからも続きますので、引き続きよろしくお願いします。
なお、「EDOICHI」 は終了しました。永らくおいでいただき、ありがとうございました。

EDOICHIの終了により、内田江美さんのサイト「Trace EMIUCHIDA」も新たにスタートしました。

アドレスは、
http://uchidaemi.com
です。江美さんのこれまでの作品、個展情報、ブログ等々充実したサイトになっています。こちらの方も是非お訪ね下さい。

No.583さむしろ2013-11-01 18:10:11.479238
1611年〜1613年。
家康の動きはあまりみられず鷹狩を楽しむことが多かったようで、秀頼にも目立った動きはみられなかった。
嵐の前の静けさだったようだ。

No.584さむしろ2013-11-02 16:05:29.833227
1614年
家康は、秀頼が六十五万石余の一大名の地位を受け入れれば豊臣家を存続させてもよいと考えていた可能性があるが、淀殿は、豊臣家が徳川家の下位につくことを受け入れなかった。そうすると家康としては秀頼をそのままにしておけなくなった。しかし秀頼を討つ口実がない。

そこへ降ってわいたのが方広寺鐘銘事件である。よく知られている「国家安康」「君臣豊楽」の文字が「関東不吉の語」であるとの言いがかりをつけられた事件である。

No.585さむしろ2013-11-04 13:17:37.733733
「家康」の名を「安」の字で切り、「豊臣」だけが「栄え楽しむ」とあるのは「関東不吉の語」であり許せない、というものである。

秀頼方には、そのような無理難題に「言いがかりは迷惑千万」と毅然とした態度をとれる準備も力もなかった。

秀頼は、片桐且元を弁明の為駿府に行かせたが家康に会えないばかりか、
@秀頼の江戸参勤
A淀殿を人質として江戸に
B秀頼が大坂から国替えに応じる
のうちのいずれかに応じるよう申し渡された。

その一方、淀殿の使者に対し家康は面会し「心配することはない」と伝えている。

大坂へ戻った片桐且元は、情況と三条件を報告した。ところが家康と面会した淀殿の使者の報告とそれとがあまりにも違っていることから、且元は非難を受け、また三条件のどれも飲まなかった。強硬派からは、且元が家康方に寝返ったとして命を狙われるほどだったという。
No.586さむしろ2013-11-05 18:03:30.136831
鐘銘問題が大坂に届き、大仏開眼供養の延期が伝えられたのが7月26日。
弁明のため且元が駿府の国境に到着が8月20日。
家康が淀殿の使者に面会したのが8月29日。
且元が大坂に戻ったのが9月18日。
9月28日付秀頼から京都所司代宛書状。(且元が駿府より帰ってから、自分の屋敷に人数を集め不届き、と記されているという。)
10月1日、家康決戦を決意、近江・伊勢・美濃・尾張などの諸大名に大坂出陣を命令。
No.587さむしろ2013-11-06 19:04:48.531883
10月1日、且元は、家康の出陣命令を知らぬまま手兵を率いて大坂城を出て、居城の茨木へ引っ込んだ。

この時点では、且元は徳川に寝返っていたわけではなく、先の三条件のどれか一つを呑んで豊臣の家を守ってほしいと念じていた。しかし、やがて寝返ることになっていく。
No.588さむしろ2013-11-07 17:31:41.22281
10月1日の出陣命令は諸大名にとっては実に突然であったという。しかし、家康にとっては念願の開戦であったようで、本田正純から藤堂高虎宛書状に「家康殿はご機嫌が悪かったが、大坂のことを聞いたとたんに気分良くなられた」とあるという。

「10月2日、秀頼は諸国に兵を募り、また、諸大名の大坂蔵米および町方の米を運び入れさせ、籠城の準備にかかった。」という。

開戦の報は、あくる日には大坂方に届いていたということか。
No.589さむしろ2013-11-08 15:35:25.588271
秀頼、淀殿は、豊臣が徳川と戦うことになれば、豊臣恩顧の大名達はこぞって味方をしてくれると考えていた。しかし、はせ参じる大名はいなかった。

しかし浪人たちは数多くの者たちが大坂城に集まった。関ヶ原の戦いにおける浪人があふれていた。
大坂方はこれら浪人を含め十二、三万人の大軍になっていた。
No.590さむしろ2013-11-09 16:17:43.595744
10月11日、家康軍勢を率いて駿府を出発。
徳川方総勢二十万

10月23日、家康二条城に入る。
藤堂高虎と片桐且元を呼んで、絵図を見ながら様子の報告を受けたとある。この時点で且元は徳川方であったことがわかる。
No.591さむしろ2013-11-11 18:43:05.846864
旧参謀本部編纂「大坂の役」より、として諸大名の色分け表がある。119万5000石の前田利常から1万石までの大名家198家の、徳川、豊臣との親疎を記したものである。

それによると、
徳川の一族、譜代       81家
徳川に親しい外様       33家
外様・豊臣に親しい外様   84家

しかしこれらの中に豊臣方についた大名はなかった。
No.592さむしろ2013-11-12 18:15:56.425818
関ヶ原以降の十数年間をかけて家康が行った諸大名の国替え、縁組、天下普請、人質の江戸留め置き等々によって、徳川方は圧倒的に優位にたったようだ。

しかし家康としてはだれが寝返らないとも限らないということを考えると、考え得るすべての手を打っておきたいと考えていたと考えて間違いないだろう。

特に「外様・豊臣に親しい外様」の84家については、誓書を差し出したとしてもこれで安心ということにはならない。

代替わりをした大名も多くあったと思われ、秀吉から直接恩義を受けた先代にくらべ恩義も薄れがちであったということもあったと思われる。しかし家存続のため面従しているとはいえ、腹の中では恨み骨髄という者もいて不思議はない。いつどのようなことから風向きが変わり、その流れが出来ないとも限らない。

No.593さむしろ2013-11-15 12:23:48.140253
「考え得るすべての手」のうちの一つに古田織部による調略があった、というのがものはらの仮説である。

調略という、ことがことだけに確たる記録はない。そこで着目したのが”桃山名品茶陶”である。

安倍さんの疑問、「名品と言われるものが何故あそこまでこだわって作られたのか?」という程のこだわりの作品群。

今、はっきりしているのが織部から宗箇へ伝わった伊賀花入「生爪」、
織部から大野和馬へ伝わった伊賀水指「破袋」、
伝来が知られている前田家の伊賀花入「からたち」、九鬼家の志野茶碗「峰紅葉」などである。

当時の、上田宗箇、大野和馬、前田家、九鬼家の政治的・戦略的位置づけ、重要度はどのようなものであったか。

このような視点からみることによって、これまでまったく考えられなかった姿が浮かんでくるのである。
No.594さむしろ2013-11-17 16:35:58.985999
もともと限られた数の名品群。残念ながら今のところわかっているのは前述の数点である。大名家の売立目録を調べることが出来れば新たな発見があるかもしれない。

織部の自刃後に織部所持の茶道具が徳川のものになったとの記録があるということを専門家の方から聞いたことがある。

織部の手元に名品群が多数あったのであれば徳川家から出てくるのではないかと思うが、今のところどのようなものが伝来したのかわからない。

また大坂の陣前に名品群が、織部から徳川の一族や譜代家に譲られたとの記録が発見されるとこの仮説はくずれることになる。(もっとも例外的に名品が譲られたことがあったとしても、それは有り得ることではある。)

いずれにしても仮説の隙間を埋めるためにはまだまだ多くの資料にあたり、新しい発見を重ねていかなければいけない。
No.595さむしろ2013-11-17 16:52:03.549229
大坂の陣余話。
大坂の陣にはいくつかの有名な戦いがある。その内の一つが「塙団右衛門の夜討ち」というのがある。塙団右衛門は豪傑として知られていて、わたしも子供のころに漫画で見たような記憶がある。
これまでに何度かふれたが、塙団右衛門の末裔家が今も奥出雲に続いている。姓は櫻井と改められているがこれは大坂の陣の後、徳川の追っ手から逃れるため母方の姓を名乗ったためである。
No.596さむしろ2013-11-17 17:10:19.826135
櫻井家は「たたら製鉄」で財をなした出雲御三家の一つである。中国山地の一番奥にあたる地で、砂鉄採取、たたら製鉄、鍛冶屋、木炭生産などで数千人(家族も含むか?)規模の人々がいたという。
屋敷には御成り書院があり松平不昧公を始め歴代の松江藩主が訪れた。屋敷一帯にもみじが植えられ紅葉が美しい。
そんなことで、11月16日(土)に紅葉を見に行ってきた。今春より松江・三次間の高速道路が開通しこれまでより30〜40分ほど時間が短縮した。そのうえ三次から三刀屋まで高速が無料なのがうれしい。
写真は屋敷前の内谷川を覆う紅葉。
No.597さむしろ2013-12-10 10:33:04.399433
茶道古典全集第九巻「松屋会記」の天正7年(1579年)6月11日の項に「黒茶碗」の記載がある。見た範囲では初の登場である。しかし、

「・・・薄茶ハ法眼ヨリ進上ノナツメ、後ニ手桶カツテヘ入ル、黒茶碗ヒク、」 (注:この後懐石の記述)

黒茶碗がどのようなものだったか、珍しいものであったのか、見慣れたものであったのか、参考になる記述は一切ない。茶人間で「黒茶碗」は知られた茶碗であったと想像するがどうだろうか。
No.598マスター2013-12-10 16:16:04.351235
ご案内
「安倍安人展 2013」

期間 12月14日(土)〜 12月21日(土)(16日は休み)
作家在廊 14日、15日

場所 備前焼ギャラリー青山
    東京都港区南青山6-1-6パレス青山206

No.599さむしろ2013-12-11 14:11:07.323503
茶道古典全集第九巻「松屋会記」
天正14年(1586年)10月13日朝  中坊源吾殿へ

「三条敷、自在釣物  ツルヘ(水指)  サツウ(茶通)  宗易形ノ茶ワン  ヲリタメ・・・

宗易形茶碗が初めて(もっとも「宗易形」と書いたものは、以後も含め他に見たことがない。)登場する。

黒茶碗と同様サラリと記されている。宗易形茶碗は、言うまでもなく赤楽「無一物」のような茶碗ではなかろうかといわれているものである。
No.600さむしろ2013-12-12 17:18:55.653641
茶道古典全集第九巻「松屋会記」
天正14年(1586年)10月23日  郡山尾崎喜助殿へ

「眞釜ハウチ(羽落)  コトク  ツルベ  ナツメ  今ヤキ茶ワン  メンツ  ・・・

「今ヤキ茶ワン」が10月13日の「宗易形茶ワン」と同種のものかどうか必ずしもはっきりしないが、同種の、今言うところの楽茶碗と思われる。
No.601さむしろ2013-12-13 18:24:27.861054
茶道古典全集第九巻「松屋会記」
天正15年(1587年)    1月17日 今ヤキ
1月24日 今ヤキ    1月27日 今ヤキ 
5月12日 今ヤキ    6月8日 今ヤキ
6月20日 大納言様(秀長) 「今度、西国ヨリノ高麗茶碗

とあり、今ヤキ茶碗が急速に広まったことがわかる。
ただ、今ヤキ茶碗がどのようなものか、品物がどのように流通していったのかについてはヒントになるものはない。
No.602さむしろ2013-12-14 17:56:51.088234
茶道古典全集第九巻「松屋会記」
天正16年(1588年)9月18日朝  郡山池田殿へ

「イロリ 五徳 ハヲチ釜 フルキツルベ 今ヤキ黒茶ワン ナツメ メンツ ・・・」

初めて”今ヤキ黒茶ワン”が登場する。この書き方から、今まで出てきた今ヤキ茶ワンは赤楽であったと想像できる。

それにしてもこれまでのところで今ヤキ茶ワンについて、形や印象などを記したカ所はない。良い物との評価より唐物や朝鮮物とくらべ(入手が)手軽で、(利休のお墨付きもあるので)使い易かったのかもしれない。
No.603さむしろ2013-12-16 18:19:58.523291
茶道古典全集第九巻「松屋会記」
天正16年(1588年)11月14日朝  郡山曲音へ

「・・・ 備前水指  クロヤキ茶ワン  ・・・」

クロヤキ茶ワンは初出である。10.16の会で「ヤキ茶ワン」と記されていることから「今ヤキクロ茶ワン」のことと考えてよいと思う。

神谷宗堪も初めのうち「今ヤキ茶ワン」と記していたが、すぐに「ヤキ茶ワン」と記すようになっている。
No.604さむしろ2013-12-17 17:24:23.191791
宗易形茶ワン、今ヤキ茶ワンが赤楽であったとして、黒焼はいつ頃から焼かれだしたのだろうか?

今のところ確定的な資料はないようであるが、黒楽茶碗銘「北野」が北野大茶会に使われたことからその銘がつけられたとの話があるが、その話が正しければ、北野大茶会の時(1587年10月1日)には存在したことになる。
NO602の1588年9月より1年ほど遡ることになる。
No.605さむしろ2013-12-18 18:03:37.59935
茶道古典全集第九巻「松屋会記」
1592年12月25日 中坊源五殿へ   クロ茶ワン
1593年10月4日  中坊源五殿へ   クロ茶ワン

1594年8月19日  常如院へ     ヤキ茶ワン
1594年10月12日 釈名寺へ     ヤキ茶ワン

1592年12月25日の茶会より前は「ヤキ茶ワン」「クロヤキ茶ワン」とし、また1594年8月19日以後に「ヤキ茶ワン」と記している中で「クロ茶ワン」がいったい何を指しているのか?

No.606さむしろ2013-12-21 14:44:56.557824
茶道古典全集第九巻「松屋会記」(久好会記)
1590 8月7日朝  今少庵へ   クロヤキノ茶ワン
1590 10月19日朝 竹田宗具へ  クロ茶ワン
1590 11月14日朝 干ヤ宗似ヘ  クロ茶ワン
1590 11月30日         黒茶ワン
1591 2月15日  天下一与太郎  クロ茶ワン
1591、10/14、同年12/13、同年12/19、 クロ茶ワン
とクロ茶ワンが続いた後、
1593 8月16日  郡山高林寺ヘ  アカ茶ワン
が現れる。
その後「クロ茶ワン」が続いた後、
1594 3月8日に「ヤキ茶ワン」
また「クロ茶ワン」が続いた後「ヤキ茶ワン」
と、使い分けているようにも見えるし、そうでないようにも見える。

興味深いのは「1593 8月16日 郡山高林寺ヘ アカ茶ワン」である。
赤楽ではないかと思うが、確たる根拠となるものはない。

そして気にかかっているのが「クロ茶ワン」である。「今ヤキクロ茶ワン」なのか「瀬戸で焼かれた黒茶碗」なのか。
No.607さむしろ2013-12-24 18:31:19.419216
茶道古典全集第九巻「松屋会記」(久好会記)
その後も「黒茶ワン」が続いた後「ヤキ茶ワン」が続く。

1602年卯月(陰暦4月)22日 宇治上林味卜へ
「黒ヤキ茶ワン」
と、黒ヤキ茶ワンが記されている。
「黒茶ワン」「ヤキ茶ワン」「黒ヤキ茶ワン」は使い分けているように思うが、どうだろうか。

No.608マスター2013-12-31 23:57:54.099405
間もなく2013年が終わります。無事に一年を終えるられることを、西に沈む夕日に向って感謝しました。

一年間のご愛読ありがとうございました。
どうぞ良き年をお迎え下さい。
No.609マスター2014-01-01 16:37:37.893267
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

No.610さむしろ2014-01-12 21:38:42.860083
昨年の秋、所用のため茶道・上田宗箇流家元へ久しぶりに行った。その折の「たまにはお出でなさい」とのお言葉から、二十数年ぶりに、今日、1月12日(日曜日)上田宗箇流家元の初釜へ行ってきた。

昨年暮の内にご案内は頂いていて、出席のご返事はすぐに出していた。心配事は正座がむつかしいことであった。むつかしいというのは”しびれる”ことではなく足首が十分に伸びないため正座そのものができないのである。

昨年の春、腰痛(ぎっくり腰)の再発で難渋していたが、幸い良いマッサージ師に出会い直ったが、そのついでに足の柔軟性も戻り正座が出来るようになっていたことから腰痛に併せたマッサージで直ることを体験的に知っていた。そこで年が明けてから二回の治療を受け、今日の席入りに備えていた。(つづく)
No.611さむしろ2014-01-12 22:01:51.032068
久しぶりの茶席ということもあり、昨夜の内に懐紙、扇子、袱紗等を確認準備し、定刻(10時の案内)10分前には余裕をもって着くように出発した。

思いのほか早く着いたので、少し時間を潰しながら15分前に、和風堂数奇屋門に着いた。ところが、数奇屋門の扉は閉じられていた。よく見ると張り紙があり「初釜のお方は冠木門へお回り下さい」とある。頭の中で動きを想定していたのがまったくくずれてしまった。

想定といえば所どころ写真を撮って、茶会の記に写真を添えようと考えていたが、数奇屋門に着いた時に携帯電話を忘れて出ていたことに気付いた。従って最初の写真になるはずであった数奇屋門の写真はないし、以後もない。ここでは写真が載せられないが、この機会に上田宗箇流家元ホームページでご覧いただきたい。(つづく)
No.612さむしろ2014-01-13 20:27:20.960387
冠木門前に着いた時、二十メートル程向うに止まったタクシーから紋付に袴を着けた懐かしい容貌の男が下りてきた。二十数年ぶりの○山さんも同じ席のようだ。にこやかに近づいてきた○山さんと挨拶を交わし冠木門をくぐった。

ついで二十メートルほど先の石段十数段上ったところにある長屋門外で受付を済ませ門内に入る。長屋門は、巾4間、奥行き2間ほどもあったであろうか、思いのほかの広さがあり、ここが寄り付きとなっていた。大方の連客は揃っていたようで、しばらくして「少し早いですがご案内します」との言葉で露地へ案内された。
○山さんは「正客を頼まれまして」と言いながら私に一緒に入りましょうと次客を勧めた。無論私に異論はなく、先に進むことを断りながら○山さんに続いた。

No.613さむしろ2014-01-13 20:56:10.922023
上田宗箇流家元の茶寮全体を「和風堂」というが、和風堂の特徴の一つに外露地がある。和風堂の外露地は四方を高塀で囲んだ二十坪ほどの圧迫感のある空間である。外腰掛、下腹雪隠がそなわり、中潜りを通って内露地に入るようになっている。

「中潜り」は、地面から七十センチ程のところに、縦横七十センチほどの潜り穴があり、そこを潜って内露地に入る仕組みになっている。使い方が難しく(多分女性には無理)、あまり例はないと思う。表千家・不審庵は中潜りになっていたと記憶している。

今回は外露地に留まることなく、また中潜りを通らず通い戸(正式名称は知らない)を通って内路地へ入った。
No.614さむしろ2014-01-14 17:55:32.68868
内路地には、腰掛、砂雪隠がしつらえられている。腰掛から右正面に小間茶室「遠鐘」、左正面に広間「敬慎斎」がある。遠鐘は、かやぶき屋根で、席内は古田織部好みに宗箇が工夫を加えたものになっている。

半東さんの案内で左手広間へ向かった。広間「敬慎斎」にはゆかりの蹲踞が据えられていた。
遠鐘の蹲踞は立ったまま使えるよう高く据えられているが、敬慎斎の蹲踞はそれより半分の少し下くらいの高さに据えられていた。
No.615さむしろ2014-01-14 18:13:20.345462
敬慎斎では上田宗冏家元のお手前で濃茶を頂いた。気になっていた足であるが、思考力が1割程度に落ちるほどの痛みであったがなんとか我慢して濃茶席を終えた。

濃茶が終わると半東さんの案内で入り側から苑路(和風堂玄関から外露地へ向かう外側の路)側へ降り、鎖の間「建渓」へ移った。

No.616さむしろ2014-01-15 19:28:33.622315
建渓の間(鎖の間)は次の間と一緒にした広いお席で、大福茶をいただいた。もともと鎖の間は休息の間で、こちらでは薄茶をいただく扱いであったようだ。

次の間は「洞庫の間」のしつらいのようであった。

以前に書いたが、上田宗箇の最も大きな功績の一つが御成りの茶事の形式策定である。浅野幸長の指示をうけてのことではあり、また、古田織部との共同作業ではあったが「将軍の御成り」の重みを考えると特筆すべきことだと思う。
No.617さむしろ2014-01-15 19:46:05.662672
和風堂での「御成り」を考えてみる。

1.数寄屋門より入る。
2.苑路を通って外露地・腰掛へ。
3.中潜りを通って遠鐘へ。
4.濃茶(懐石、炭、中立)
5.鎖の間(薄茶・休息)
6.洞庫の間(飾り付け・展観など)
7.御成り書院(廊橋を通って上段、一之間・二之間・三之間の書院でセレモニー、盃事・膳など)

といったことになる。
今回の初釜では、上記7.の御成り書院でお祝い膳を頂いた。この席では、お酒を注がれるとき、椀物など持ち出されたとき以外は、足を崩させていただいた。
No.618さむしろ2014-01-16 18:08:43.300591
祝い膳が終わり、「松涛の間」を通って鎗之間から出て、長屋門を通って冠木門から帰路についた。
一方通行の流れで各席をまわれるようになっていて、他の組の客と出会うことなくスムーズに進んだ。少々冷え込んだが天気も良く、清々しい気分であった。

No.619さむしろ2014-02-11 23:06:02.805002
茶道古典全集第九巻「松屋会記」(久重会記)

慶長年代に入ってしばらくすると登場する茶会の数が極端に少なくなる。
1608年2月25日 千宗旦へ
    トモフタ カラツ水指   ジュ楽黒茶ワン
1608年3月22日 釈名寺へ
    カラツ水指   今焼黒茶ワン
1608年卯月(陰暦4月)9日  成林寺へ
            黒茶ワン
1612年11月22日  イマヤキ黒茶ワン
1613年12月18日  クロ茶ワン

このようにこの時期の久重会記への茶碗の登場は少ない。これらの記載から「クロ(黒)茶碗」と「イマヤキ(今焼)黒茶ワン」を別物として記していると考えるか、その時々の気分で記していると考えるか、決め手になるものはない。しかし直感としてはきっちり書き分けていると感じている。
No.620さむしろ2014-02-12 18:48:06.674206
茶道古典全集第九巻「松屋会記」を読んでみたが、期待するものはなかった。すでに知られている「ヒョウゲタルモノナリ」の記述にもそれ以外の説明はない。「黒茶ワン」と「今焼黒茶ワン」についても書き分けているように思うが、断定できるものはない。

本読みはしばらく休憩する。
今、以前二度ほどご覧いただいたビデオ「桃山茶陶の焼成と造形」の英語版を作製し、安倍理論を世界へ発信したいと準備中である。これは安倍さんが質問に答えながら桃山名品茶陶の名品なる所以を解説したものである。

文字起こし、英文翻訳、ビデオ編集がいずれも大変で、もうしばらくかかりそうだ。
せっかく文字起こしをしたので、こちらだけ先にお読みいただこうと思う。ビデオは「日本の陶磁6 備前 中央公論社」を見ながら説明をされたものなので、本をお持ちの方は、作品写真を見ながら、想像力を働かせてご覧いただけば理解が深まると思う。

過去分へ 新しい分へ


クリックすると日本語トップページに戻ります。