茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.521さむしろ2013-07-28 23:25:42.742136
7月26日の夜やっとビデオ編集を終えてDVDにコピーした。DVDの容量の都合から随分映像を削ることになった。左写真は一本目。
No.522さむしろ2013-07-28 23:46:34.559871
二本目。
30時間か、40時間か、50時間かわからないほど見続けた画像で、出来については新鮮味には欠けるがわりと良い感じにできたように思う。
No.523さむしろ2013-07-29 23:58:46.89053
今回の茶会では、安倍安人作「備前水指」を使用した。残念ながら写真がないのですぐにはお見せできないが、短い動画に編集して御覧いただけるようにするつもりだ。

No.524さむしろ2013-08-01 00:22:06.155156
出来上がったDVDを、茶会参加者で正直に批評してくれるTさんに見てもらった。

想定外のクレームがついた。指摘の個所は記憶にあるシーンだが、いずれも問題なしとしたわずかなシーンである。しかし視点が変わればそれもありかなと思えるので修正しようと思う。

DVDへのコピーもほぼ終えているのでボツになるが仕方がない。
No.525さむしろ2013-08-05 23:55:42.594603
編集中のビデオの修正が完了し、DVDにコピーするだけになっていたが、もう一ヶ所気になるところがあった。

席中で点前を凝視する一人の客を写している生テープを、使える部分全てを使って編集していたが、どうも少し長すぎる気がしてきた。
3秒ほどカットして編集し直した。

茶会ビデオを5分半ほどに編集する作業が終わった。出来るだけ早くこのHPで見られるようにしたいが、今しばらくお待ちいただきたい。
No.526さむしろ2013-08-13 15:28:29.567507
このHPへのUP用の茶会ビデオが出来上がったので、昨日、DVDにコピーしたものを送り、HPで見られるようUP作業の依頼をした。
近日中にご覧いただけるはずである。
No.527さむしろ2013-08-15 15:33:48.464141
奥出雲・櫻井家での茶会ビデオをユーチューブにUPしました。

http://www.youtube.com/watch?v=Y8lW4MPxVfc

No.528さむしろ2013-08-22 00:13:14.440093
朝日新聞、2013年8月15日朝刊に安倍さんがらみの記事が掲載された。情報を聞いてコンビニで朝日新聞を買ったが当地では載っていなかった。安倍さんのところでも載っていなかったようだ。

左の写真がそれで「罪語り 誓う 不戦」とある。
今日、友人から送られてきたが、記事によると、
「戦後40年がたったころ、同郷の陶芸家・安倍安人さんが、矢野さんの戦中の日記を偶然読んだ。日記は安倍さんらの手で出版社に持ち込まれ、「ルソン島敗戦実記」と題されて86年、世に出た。」
ということである。

ヤフーで書名を検索したが、およそ1900件あった。
No.529さむしろ2013-09-03 18:17:30.212089
これまで織部様式について書いてきた。織部様式とは、ここでは、安倍さんの造形理論である”三点展開”による造形と、焼成理論である”数度焼き”によって作られた名品群の様式をいう。

安倍さんが時々口にする言葉に「(織部様式名品群は)何でここまでこだわって作ったのか。」というものがある。造形におけるこだわり、技術の高さ、とても及ばないとも言う。「焼き」についても五回、十回、なかには二十回にも及ぶのではないかというものもあると言う。

「何故ここまでこだわって作られたか」について、ここ”ものはら”では、名品群は「特殊な任務を帯びていた。」との仮説を立て、その証明を試みている。

No.530さむしろ2013-09-03 18:41:39.070839
「特殊な任務を帯びていた。」との仮説とは、豊臣から徳川への権力移行期において、徳川方による豊臣譜代大名、豊臣の恩顧大名達への調略、懐柔に利用された、というものである。

これらのことについても、これまで随分触れてきたが、これまで「関ヶ原」から「大阪冬・夏の陣」にいたる間の、徳川方と豊臣方の間に何があったか、緊張関係とはどのようなものであったかについてはほとんど触れていない。

この視点を欠くと、せっかくの仮説も理解されにくいし、証明への道が開けない。そこで、関ヶ原から大阪冬・夏の陣に至る間がどのような状況であったかについて少し覗いてみようと思う。
No.531さむしろ2013-09-04 18:07:14.574176
関ヶ原の戦いが「天下分け目の戦い」と言われていることは知っているが、その詳細についてはよくわからない。

ネットにある「わかりやすい関ヶ原の戦い」によると、

日本最大の合戦であったにも関わらず、「関ヶ原の戦い」 があったのは戦国時代の終わり頃であり、戦国時代のヒーローと言える人(信長、秀吉、信玄、謙信など)は、すでにみんな死んだ後だったこと、そして、関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、それまでの戦国の歴史と比べると複雑であり、おまけに戦闘が1日で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられません。
「小説」 や 「歴史書」 では取り上げられる機会が多くても 内容は戦国時代に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。

というふうに記されている。以下、しばらく引用するが、端折りながらになるので原文にあたっていただくとありがたい。
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm
No.532さむしろ2013-09-05 12:22:44.112131
秀吉の死後、日本を統治したのは「豊臣五大老」と「豊臣五奉行」であった。

「豊臣五大老」とは、
徳川家康(筆頭。関東を支配)、前田利家(北陸を支配)、毛利輝元(中国地方西部を支配)、宇喜多秀家(中国地方東部を支配)、上杉景勝(越後を支配)

「豊臣五奉行」とは、実際に政務を行っていた
石田三成(筆頭)、増田長盛、浅野長政、前田玄以、長束正家の五名。
No.533さむしろ2013-09-05 12:27:07.494602
これまで豊臣家の中で勝手に行うことを禁じられていた、(権力者の専権事項である)大名への「婚姻斡旋」「知行の授与」などを、五奉行に相談せずに勝手に行うようになる。

このことに五奉行は反発し、家康は筆頭石田三成と対決するようになる。

ところがこの石田三成はかなりの嫌われ者であった。三成は秀吉の側近として、実務官僚とはいえ、諸大名、武将の失敗、失態などを釈明を無視し、情け容赦なく秀吉に伝え、それについての処罰を告げ、それでいて自身は豊臣家のトップにい続ける。実際に戦場で戦うこともない。このようなことから恨みをもたれることが多く、実戦を戦っている武将からも嫌われていた。

このことから豊臣秀吉がいるころから官僚派と武闘派(実戦派)の内部対立が発生していた。そしてこの内部対立が「関ヶ原の戦い」の主要要因となっていく。
No.534マスター2013-09-05 18:33:37.381685
安倍さんの焼成指導に基づいて焼成実験が行われ、

「焼おとし」について
 −スギとヒノキを利用した「備前焼」の焼成実験より

とする実験報告が、陶説「九月号」(726)で発表されている。
詳細の説明は避けるが、
http://blogs.yahoo.co.jp/ryouma66jp

Yahooburogu 美を追い求めて

に掲載されているのでご覧いただきたい。
No.535さむしろ2013-09-06 18:30:01.501769
秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻や知行の斡旋などを行っていたのは非難されるべきものであったが、それを受けた武将にとってはありがたいものであり、おまけに非難している石田三成サイドは嫌われていたため、武将たちはそれぞれ「家康派」と「三成派」に分かれていく事になった。

しかし豊臣家の中には前田利家がいて、利家は豊臣五大老のNO.2としての権力と、多くの武将や大名たちから慕われていた人徳を併せ持ち、事件が起こりそうになっても仲裁して大きなトラブルにならないよう配慮していた。

また、彼自身は徳川家康の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行寄りの立場として、武断派の武将の暴発を抑える役割も果たしていた。
No.536さむしろ2013-09-07 17:08:13.943361
秀吉の死の翌年(1599年)前田利家も死去。
仲裁役を失った豊臣家の内部分裂は激化、ついに大事件「石田三成暗殺未遂事件」が勃発。

石田三成と対立していた、豊臣家武闘派武将福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長(記録によっては池田輝政、蜂須賀家政、脇坂安治を含める)の7人が三成襲撃を計画したが、三成は事前に察知し身を晦まし逃れたというものである。

このとき仲裁役を務め、事なきを得さしめたのが徳川家康であった。石田三成は一時的に失脚し、家康の影響力はさらに大きくなった。三成が失脚すると、家康は豊臣家中枢大坂城に入り、自ら政務を指揮し、ますます権力を強化していく。同時にこのことが五奉行との対立を深めていく。
No.537さむしろ2013-09-08 15:12:46.633823
そんなある日、家康は、豊臣五奉行に好意的であった前田利家の後を継いだ前田利長と五奉行の一人浅野長政が結託して「徳川家康暗殺計画」を企てたと公表。

この企てが実際にあったかなかったかわからないが(家康の策略説も)浅野長政は失脚。

家康はさらに前田家討伐の兵の準備を進める。しかし前田利家の妻が徳川家に人質として行き、前田家が徳川家に恭順の姿勢を示したため、前田家討伐は回避される。

結果として、徳川は五大老のNO2の前田を従え、さらに五奉行も弱体化していく。
No.538さむしろ2013-09-10 10:41:28.366555
1600年正月。徳川家康は各大名家に年賀の挨拶に来るように要求。
ところが上杉家だけはこれを断り、そのうえ家康の意を伝える使者であった自らの家臣を謀反の疑いで処罰しようとした。
そのためその家臣は上杉家を出奔、家康に「上杉家に謀反の気配あり」と報告。

元々、前年より上杉家では軍備の増強、合戦の準備をしているとのうわさが流れていた。そのため、家康は、これらの件について釈明を求める書状を出した。

これに対する上杉家重臣直江兼続の返信は、

「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので釈明の必要もない。軍備は東北の大名に対する備えのもの。そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者、武具を整えるのが武士の心得。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などしたくせに、人に違約違反をいうのはおかしい。前田家をお仕置きしたらしいが、たいそうな威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を揃えて出迎えてやるからいつでもかかってこい。」

というものであった。これが天下を掌握しつつあった徳川家に対し挑戦状を叩き付けた有名な「直江状」である。
No.539さむしろ2013-09-11 18:24:56.579089
この「直江状」については、後世、色々の説や推測があるという。
上杉側が家康の上杉を嵌めるための策略に嵌った、あるいは上杉と石田三成はすでに連携していた、など。
しかしこれが関ヶ原の戦いの引き金になったことは確かで、家康は「上杉の謀反は疑いようもない」と大軍を率いて大坂城を出発。(1600.6)
No.540さむしろ2013-09-12 17:49:15.342822
結果として大坂城には徳川派がいなくなる。

石田三成は行動を開始。大谷吉継、豊臣五奉行の増田長盛、小西行長、毛利家家臣安国寺恵瓊等と徳川打倒を計画、翌7月に徳川討伐の挙兵を宣言。

家康の罪状を並べたてた、家康討伐の檄文を諸将に送り集結を呼びかける。そして毛利輝元を総大将とし、大坂城にいる東軍側の武将の家族を人質とする。
No.541さむしろ2013-09-13 17:39:43.12617
翌日、徳川の残留部隊のいる伏見城を総攻撃、伏見城は炎上し落城。この結果は徳川本隊家康に報告される。家康は、小山というところで評定を行う。これが「小山評定」である。

まず家康が武将達に「人質を取られた者たちは、ここで大阪に帰ってもよい。道中の安全は保証する。」と諮る。すると福島正則、黒田長政、山内一豊らが人質があったとしても徳川家に協力し共に戦うと述べ、よって上杉討伐に向かっていた徳川軍はそのまま大阪方面に向きを変え、石田三成と戦うこととなる。

この時点で「石田三成(豊臣)軍=西軍」対「徳川家康軍=東軍」という関ヶ原の戦いの2大陣容が決定付けられた。

その後、東軍に参加した細川忠興の妻細川ガラシャ(明智光秀の娘)が、自分が人質では東軍の夫の戦いの邪魔になると言って自決。

こうした話が伝わるごとに東軍の結束は固まっていく。ただ戦国の名称真田昌幸だけは、当初徳川軍に参加していたが、小山評定の際に徳川軍から離脱した。
No.542さむしろ2013-09-14 13:39:38.104112
関東・東北地方の西軍方・・・上杉家、佐竹家
同じく東軍方・・・最上家、伊達家

家康は息子である結城秀康を佐竹家の押さえをさせ、最上家・伊達家に上杉家への攻撃を依頼。

家康は東海道から西に向かい、秀忠が中仙道を通って西に進軍した。(ただ、秀忠は途中真田昌幸・幸村の上田城攻めがあり、関ヶ原の戦いには間に合わなかった。)
No.543マスター2013-09-15 03:06:03.749411
「安倍安人展 in 平寛堂」が始まりました。

9/23まで   福岡市博多区 平寛堂にて

こちらから作品をご覧いただけます。

http://heisgallery.blog.fc2.com/


No.544さむしろ2013-09-16 12:48:25.218662
西軍三成方
毛利家、宇喜多家・・・動きが鈍く、思うほどの軍事行動がならず。二代目武将が多く実戦経験が乏しかった。徳川方からの寝返りの誘い、三成への不人気によるやる気の欠如。

豊臣五奉行の一人増田長盛(三成と共に軍事計画を立案した)でさえ、実は家康に内通していたという。
島左近・・・三成から「私の知行の半分をあげるから、ぜひ家臣になってくれ」と言われ、感動して三成のために尽くす。

小早川秀秋・・・秀吉の養子。秀吉に可愛がられ、一時は豊臣家の跡継ぎ候補でもあった。元・豊臣五大老の一人小早川隆景の養子で小早川家を継いだ人物で、小早川家は西軍の総大将の毛利家の家臣でもある。西軍に属すべき立場にあった。

しかし、朝鮮出兵の時の秀秋の失態を三成が秀吉に詳細に報告し、秀秋は秀吉に怒られたあげく領地も没収されるといういきさつがあり、大の石田三成嫌いであった。その上、その後秀秋と秀吉の仲を取り持ったのが家康だった。
No.545さむしろ2013-09-17 14:52:15.794345
そのため小早川秀秋は徳川方につきたかったが、立場的にはどうしても豊臣方。豊臣、徳川の双方から「我が方に」との説得をうけ、どちらとも決めぬまま関ヶ原決戦の日を迎えてしまう。

No.546さむしろ2013-09-19 10:53:56.790368
関ヶ原の布陣は、四方を山に囲まれたくぼ地にいる徳川軍を、山の上に布陣した豊臣軍が完全に包囲した状況で、誰が見ても豊臣軍有利は明らかだった。

石田三成が最も頼りとした島左近が戦闘開始早々負傷。

西軍・島津義弘・・・鹿児島からはるばるやってきた援軍ながら三成の攻撃要請を拒否。島津は豊臣家への義理を果たすために西軍に参加したものの、三成の態度を嫌っていて、三成に全面的に協力している訳ではなかった。

三成は、次に毛利軍に進軍を要請。毛利軍は進軍しようとしたが、毛利軍にいた吉川広家の部隊が突然反逆し、進軍の命令に従わない。「弁当を食べているからダメ」などと言い出す始末。(宰相殿の空弁当といわれる。)吉川広家が毛利軍の前に立ち塞がるかたちになり、味方同士で争うことを嫌って毛利軍も身動きがとれない。
No.547さむしろ2013-09-20 19:36:42.367347
もともと毛利家には小早川隆景と吉川元春の二人の重臣がいたが、互いに考え方の違いから毛利家の内部も二派に分かれていた。

毛利家を西軍に参加させた安国寺恵瓊は小早川派、吉川広家は元春の子で、早い段階から徳川家康に接近し、東軍側の存在となっていた。そして東軍が勝った後、毛利家の安泰の約束も取り付けていた。

この広家の寝返りで、毛利軍はまともな戦いのないまま、関ヶ原の戦いを終えてしまった。
毛利家は、西軍のの総大将ということであったが、総大将らしきことはなにもしなかった。
No.548さむしろ2013-09-21 17:42:43.76011
土佐の長宗我部家も西軍に参加していたが、こちらも東軍に参加するつもりであったが関所が閉鎖されていたため東軍と合流できず、止む無く西軍になったくらいで、戦闘をする気はなかった。

三成は、あてにしていた軍が動かないため小早川秀秋に進軍を要請した。秀秋はもともと三成嫌いで、東軍からも寝返りの催促が続く。秀秋は松尾山から、どちらか優勢な方に付きたいと思っていたようだが、家康が一計を案じ、秀秋軍に鉄砲隊の攻撃をしかけ、これに慌てて小心者の秀秋が寝返りをした、といわれているようだが、創作との説もあるという。

秀秋の裏切りを予測していた大谷吉継により秀秋も苦戦するも、大谷方の中にも裏切り者がいて、大谷吉継も戦死。

この大谷吉継の戦死と小早川秀秋の寝返りにより関ヶ原の戦いの勝負はほぼ決した。
No.549さむしろ2013-09-22 14:13:26.001165
石田三成軍は、猛将本田忠勝により撃破される。
宇喜多秀家は、小早川軍の側面攻撃により軍勢瓦解、戦場から退散。
島津軍も善戦するも西軍が崩壊し始めたのを見て撤退。
1600年9月15日昼戦いは決着。戦闘時間およそ6時間。
No.550さむしろ2013-09-23 15:09:00.283303
石田三成、安国寺恵瓊、小西行長は京都引き回しの上、処刑されたという。
毛利家・・・領地安堵の約束を反故にされ、領地を大幅に縮小。
小早川秀秋・・・大大名に出世。しかし、関ヶ原での裏切り、醜態に、世間から非難中傷。
島津義弘・・・鹿児島に戻った後、九州で東軍の見方を宣言した黒田如水、西軍に付いた立花宗茂などと合戦を繰り広げ、緊張状態にあったが、家康から停船命令が届き、合戦寸前で中止。島津家は家康から領土を認められ、九州の対立も終息。
宇喜多秀家・・・島流しの刑。
上杉家・・・徳川に謝罪し、領地は大幅に縮小するも大名家として存続。
伊達家・・・領地加増。
最上家・・・領地加増。
豊臣家・・・大幅に縮小、普通の大名家に。
関ヶ原の合戦から3年後(1603)江戸幕府を開く。

江戸時代となり、とりあえず太平の世となっていくことになる。
No.551さむしろ2013-09-24 18:13:52.168453
「別冊歴史読本」戦況図録 大坂の陣(新人物往来社)を読んでみよう。なお、同書には大変詳しく書かれているので原文にあたっていただきたい。


関ヶ原の戦いはほぼ互角であった。
 東軍徳川家康方兵力   7万4000
 西軍豊臣方兵力      8万4000
 石高の合計もほぼ拮抗していた。

戦後の処分
 西軍側大名のうち所領没収   88名
  その所領高         410万余石
 西軍側大名のうち所領厳封 毛利輝元・上杉景勝など5名
  その厳封石高        210万余石

家康は、620万余石の再配分権を手にした。

No.552さむしろ2013-09-25 18:50:02.055368
そもそも家康の上杉討伐の出陣は豊臣五大老の一人としての資格であった。家康出陣の前日には秀頼から軍資金と米が渡されていて、家康対上杉の戦いではなく豊臣対上杉の戦いであった。

だからこそ、福島正則らの豊臣恩顧の大名たちも家康に従って従軍した。

No.553さむしろ2013-09-26 22:22:11.240614
つまり、家康は、上杉討伐のときには、豊臣秀頼を旗頭に出陣したが、途中方向転換して関が原の合戦を戦い、その戦勝後には秀頼を無視して家康一人で六百数十万石の論功行賞をおこなった。

結果的にこの論功行賞によって豊臣恩顧の大名達は、秀頼とではなく家康と主従関係を結ぶ形になってしまった。

これは福島正則ら豊臣恩顧の大名達にとってまったく想定外の展開であったが、異論を述べるにはあまりにも家康の力は強大になってしまっていた。
No.554さむしろ2013-09-27 18:26:29.168004
家康は、関ヶ原の合戦までは250万石であったが、戦後は400万石となり、加えて自らの家臣にも多くの加増を行った。これらのことから、それまでの豊臣政権下での大大名ではなくなっていた。

一方豊臣秀頼は、66万石足らずの一大名と同じ規模となってしまった。
家康と秀頼の力関係は大きく変わっていくことになる。
諸大名達の家康への臣従の度合いも強まっていった。

ただ、これによって家康が天下人となったわけではなく、依然豊臣政権であり、家康も天下の大家老に過ぎなかった。豊臣恩顧の大名達も、秀頼様が成人すれば関白になって再び政権を担うとの思いがあった。
No.555さむしろ2013-09-28 14:10:25.586527
家康には、秀頼待望論を打ち壊す必要があった。

それは、関ヶ原の合戦が徳川対豊臣の戦いではなく、石田三成対反石田三成の戦いであったことに由来する。福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、加藤嘉明らの東軍主力メンバーは「豊臣家のためにならない石田三成を討つ」という一点で家康の東軍側で戦ったからである。

福島正則以下の諸将は、自分たちの東軍参加が、その後の豊臣家滅亡に追い込むことになるとは思ってもいなかったし、徳川政権の樹立の手助けになるとは夢にも思わなかったであろう。
No.556さむしろ2013-09-29 14:36:02.989115
慶長八年(1603)、家康は征夷代将軍に就く。
諸大名は、秀頼が成人しても、その成人後の権力図に不安を抱くようになる。

一方家康の方にも不安があった。
難攻不落の「大坂城」と秀吉が残した莫大な「軍資金」である。関ヶ原の戦い後、秀頼への金銀の上納が途絶えたり、領地が二百万石から六十余万石に減じたが、大坂城には家康が脅威を感じるほどの軍資金があった。
No.557さむしろ2013-09-30 17:53:27.108196
家康は、軍資金を使わせるために、淀殿・秀頼の母子に「秀吉さま追善のため」と称して社寺の造営を働きかけた。

社寺造営に費やした費用は莫大であったようであるが、それでも大坂夏の陣後の大坂城の焼け跡には、24万両がもの大金が残っていたという。
No.558さむしろ2013-10-01 18:42:52.789541
難攻不落の大坂城だが、次のような話がある。


大坂冬の陣での和睦の条件は
『大坂城の外堀のみ埋める』約束であつたが家康は反古にして内堀も埋めてしまった。

秀吉が家康に大坂城攻略方法を語った時、
『南に出城(後の真田丸)が出来上がって攻撃に幅が広がる。もし、ワシがこの城を攻めても落せないであろう、そこでじゃ?家康殿なら如何する?』

家康は『判りませぬ』
秀吉は
『相手をだまして、堀を埋めてしまい、裸城にするしか策は無い』

淀君はまんまと、家康に騙された。
No.559さむしろ2013-10-02 18:40:38.742495
家康は、秀頼に三つの条件を出したようである。

1、大坂城を出て移封に応じるか、
2、秀頼自らが人質となり江戸に向かうか、
3、淀殿が人質になるか、

秀頼が、この三つの内のどれかを呑んでいれば大坂の陣に至らず、豊臣家滅亡もなかったかもしれない、との見方があるようである。

しかしこれを拒絶したことにより、大坂の陣は必然であったようである。
No.560さむしろ2013-10-03 18:38:59.721065
ところが、豊臣方は、秀頼が成人し家康と戦うといえば豊臣恩顧の大名達がこぞって味方をしてくれると思い込んでいた。

淀殿、秀頼や取り巻きの重鎮たちは、時代の流れを読み切れず幻想を見ていたことになる。

秀頼からは、大坂の陣の前、豊臣恩顧の大名に親書が出されていた。島津家久、蜂須賀家政など西国の豊臣恩顧大名に宛てられていたという。
No.561さむしろ2013-10-04 17:39:32.186148
家康の方も、大坂方の動きは察知し、諸大名に誓書を提出させていた。その内容は、

1.両御所様に対し、別心表裏致さぬこと。
1.上意に背く輩どもに対し、一切談ずべからざること。
1.仰せ出されるご法度に毛頭相背き申すべからざること。

の三か条であった。
No.562さむしろ2013-10-06 19:15:11.95745
現在、誓書の写しが残っているのを確認されているのが、
毛利秀就
島津家久
鍋島勝茂
で、秀頼から親書を受けそうな西国大名が警戒された様子がうかがわれる。
No.563さむしろ2013-10-07 22:23:59.561399
大坂の陣
特に淀君は、自分や秀頼が「家康と戦う」といえば、豊臣恩顧の大名達は直ぐにはせ参じてくるものと思い込んでいた。しかし、大名クラスの武将で駆けつけるものはいなかった。

時代は大きく徳川に傾いていた。
No.564さむしろ2013-10-08 17:53:58.982541
とはいえ、関ヶ原の合戦後改易された大名が八十八家もあり、その家臣達の多くは浪人となっていた。

大坂方は恩顧大名とともに、関ヶ原浪人たちに大坂方に着くよう呼びかけた。

関ヶ原浪人は、一説には十万人ともいわれているという。関ヶ原後も改易大名はあり、浪人は増え続けたという。

浪人たちにしてみれば、取り敢えずの現金や、「ここで一旗あげて」などの野心があった。
No.565さむしろ2013-10-09 18:40:47.572384
大坂城に集まった浪人は十二万とも十三万ともいわれる、おびただしい数であった。

対する徳川方は二十万人。しかしそのうちの福島正則、黒田長政、加藤嘉明は「太閤の恩義甚だ厚し。彼の輩、秀頼に敵し難し」との懸念から江戸に留め置かれた。
No.566さむしろ2013-10-10 14:53:34.813455
大坂城が難攻不落の名城といわれたのは「総構」によるという。秀吉が秀頼の将来を案じ、築いた大坂城総構は、百戦錬磨の秀吉ならではの最高の防御性能を有していた。

しかしその真価を知らない大坂方指揮官らは冬の陣の講和条件で総構の破却を呑んでしまった。

その時点で豊臣氏の滅亡は決定した。

徳川方が約束に反して二の丸までを破壊したのは、大坂方に再度兵を挙げさせるための策略で、総構の破却で落城はすでに決していたようである。事実その後の夏の陣で落城炎上した。
No.567さむしろ2013-10-12 16:38:10.455879
誰が味方か、
誰が敵か。

関ヶ原後、大坂の冬・夏の陣前、戦国の乱世を生き抜いた戦国武将達が、乱世に終止符を打ち、自らの命運を賭けることになる最後の決断を迫られた局面における読みは?

豊臣方・・・恩顧の大名を味方と読む。
徳川方・・・飴と鞭で外様大名を抑え込む。

疱瘡を患った秀頼を見舞うのに、家康の目を憚りひそかに見舞ったというように、豊臣方に対する家康の監視は厳しかったようだ。

家康の懐柔は、領地の加増召し上げ、「松平」姓の賜与。松平を名乗ることは徳川の親族並みの特典をうけることになる。

家康、秀忠の娘・養女を嫁がせ縁戚に連ならせた。

家康は、城普請の重い賦役を外様大名に課し、大名達の財力を消耗させた。賦役を課せられた大名達も、家康に警戒されるのを恐れ、また歓心を買うためか競ってこれに携わった。

家康の周到な戦後処理と成果に対し、秀頼方は羽・翼をむしり取られた状態であったがそのことにも気づかなかった。というか、その天下の形勢判断が出来る人材がすでにいなかった。その人材としてすでに亡き加藤清正、浅野長政、池田輝政らを挙げている。
No.568さむしろ2013-10-15 18:08:58.628314
戦況図録「大坂の陣」によると関ヶ原合戦後の主な外様大名は、
最上家親     伊達正宗
蒲生秀行     前田利常
豊臣秀頼     池田利隆
浅野長晟     池田忠継
福島正則     毛利秀就
黒田長政     鍋島勝茂
加藤忠広     島津家久
と書かれている。
No.569さむしろ2013-10-16 17:47:22.141759
1602年正月、前田利長が江戸に参勤。(後の参勤交代制度の先駆)
これに対し、秀忠が板橋宿まで出迎えたという。五大老の一人である利長に気遣った。気遣う必要があったということであろう。

伊達政宗が大坂城で秀頼に謁したということを聞いた家康はあからさまに不快な顔をしたという。

同2月14日、家康は伏見城に入る。その後3月14日になって大坂城へ行き、秀頼に年頭の挨拶をする。伏見に入って一月も経ってからの挨拶というのも家康が秀頼を軽く扱っていることを示している。
No.570さむしろ2013-10-17 17:33:13.378537
同年5月より二条城の築城開始
同年6月より伏見城の修築工事開始

共に家康一人での普請ではなく、諸大名を動員しての「天下普請」で行われた。家康が他の諸大名を自分のために使役するようになってくる。諸大名も、真意はともかくこれを容認し受け入れる。

一方秀頼は社寺造営に力をいれている。秀吉の追善供養と豊臣家の家運隆盛のためであったが、その数、畿内だけでも六十余か所という。莫大な財政負担であったと思われる。

同年、方広寺火災。再建は1608年からとなるが、これが後の方広寺事件の元ととなる。

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