茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.421さむしろ2013-03-08 23:56:31.516369
客が貴人・高位ならば、御出での時刻に、一町成りとも二町成りとも、あるいは半町成りとも、亭主はお迎えに出、我が家まで同道申してより、我が内まで入るべし。

No.422さむしろ2013-03-10 00:18:46.261694
茶の湯に招かれ、席入りするのに作法がある。席入りすると先ず床前に行き掛物を拝見する。ついで手前座に行き棚、釜を拝見する。このとき棚と釜のどちらを先に拝見するかだが、これは流儀により異なるようだ。

草人木には次の記述があった。
「棚の道具が釜より勝れたらば、先ず、棚を見て、その後釜(及び炉中)を見るべし。また、棚の道具より釜が勝れたらば、釜を見て、後棚を見るべし。棚を先に見るともきまらず、釜を先に見るにも限らず、とかく道具の優劣によるべし」


この説は初見。
No.423さむしろ2013-03-10 22:47:31.682467
茶会は、炭→懐石→中立→濃茶→薄茶の順に進む。
「炭」とは、釜の湯が沸くように炉に炭を加えることである。
「懐石」とは、食事である。酒も出る。湯が沸くのを待つ意味がある。
「中立」とは、懐石が終わり、客に一旦外に出て貰い席中を掃除し、飾り付けを改める。客はこの間に用たしなどをする。また、腰掛で煙草を吸ったりする。
「濃茶」「薄茶」とは、再入席の後、濃茶・薄茶をいただく。

この中立をする際、再度、炉中の火の移りや床の掛物を拝見してから席を出るようにと習った。草人木に、次のように書いてある。

「名物の花入か掛物にて、たまに出る道具ならば、中立しざまに、今一度よく見てから立つべし。」

中立の際は、拝見をしないのが原則のようだ。
No.424さむしろ2013-03-12 00:09:57.071291
「草人木」には、読むだけでお点前が出来そうなほどお点前のことが書いてある。
露地、腰掛から席入り、拝見についても詳しい。

概して緩やかで、臨機応変を許しているように思われる。
No.425さむしろ2013-03-13 23:53:54.798508
席中の客作法が延々と続く。

その後、小間茶室と客の座る位置の説明。先に中立についてふれたが、最初に入ったとき(初入り)の座る位置と、中立後に入ったとき(後入り)に座る位置が変わる茶室の説明などもある。

茶の湯に入りすぎて、取り立てて書くことなし。
No.426さむしろ2013-03-15 10:01:23.805998
小間茶室には「つり棚」がある。点前座前の隅に付けられている。
このつり棚にどのように道具を置くかについて長々と書いてあり、やっと読み終えた感じ。特に取り上げることはない。ただ、扱いについては、こまごまとしたことまですでに定まっていたことがわかる。
No.427さむしろ2013-03-17 23:31:55.456281
点前についてこまかく書いてあるが、多いのが「・・・口伝あり」との記載。書物を読めば茶の湯が出来るようになれるということはなく、きちっと習わないと恥をかかない茶の湯は出来ないようだ。ほかにも「なになには色々の習いあり」と注意するよう書いているが答えは書かない箇所がある。

もっとも、全ては書かないというのは当然のことではある。

No.428さむしろ2013-03-20 23:41:43.852935
草人木を読み始めてみたが、茶の湯に招かれた時の作法、道具の置きよう、点前、釣棚など、最後に「台子」「長板」「四方板」「丸板」について書かれている。結局、茶の湯ばかりでここではほとんどとり上げるものはなかった。

「草人木」というのは、出典として書かれていたため知っていたが、同じように出典として時々見る「長闇堂記」というのがあるので読んでみようと思う。
No.429さむしろ2013-03-21 21:40:45.683642
「長闇堂記」は、奈良春日神社の神職なる久保権大輔利世が寛永17年に記述した一巻であるという。

「彼の見聞した茶会や茶道逸話・茶器・名物の来歴について述べ」てあるようだ。
No.430さむしろ2013-03-24 11:15:40.740454
長闇堂記を読んで見た。「長闇堂の由来を物語り、終りに隠居して逍遙自適の生活を送ったことを記している。結局は彼の立志伝中の茶人たるを物語り子孫に遺誡したものである。」とある。

ということから、特にとりあげるところはみあたらなかった。

長闇堂のいわれは、遠州公お出での時、額を書いていただくようお願いをしたところ「長闇」の二字を書いて下された。その意を問うたところ、昔の長明は物識りにして、智あきらかなるゆえ、其の方は物しらず智に暗く、しかも方丈をこのめりによりて、長の文字をとりて、闇はその心也とお笑いになった。
それより、七尺堂をさして長闇堂と名付け、長闇子を我表徳号とした。
No.431さむしろ2013-03-25 23:31:10.01677
次は「源流茶話」
五世藪内紹智(不住斎竹心1678〜1745)の茶道指南書。
本書は長短を争うとか評論のためのものではなく、初心の人にその拠るべき茶道の本源ないし本則を知らせるために筆をおこしたものだという。
No.432さむしろ2013-03-27 00:20:23.240253
竹心は、当時の茶が利休時代の正風を失っていると感じていたようだ。利休の茶を源流とし、織部・遠州自身はともかく、末流、枝流では乱れてしまった。

織部・遠州について「古織は実なれども花よからず、遠州は花うるわしけれども実ならず」評している。
No.433さむしろ2013-03-28 23:57:33.408619
源流茶話(上)は、一問一答形式で書かれている。
問は、
「茶席数奇屋の法はいかがに候や」
「いにしへ台子はいかがに候や」
「長板・小板はいかがに候や」
「茶席の掛物はいかがに候や」

などなど・・・。今のところ興味ある記述はない。

No.434さむしろ2013-03-29 23:51:07.193921
源流茶話(中)も同様一問一答形式である。

(上)と同じく、総じて実戦的な質問とその答えである。
No.435さむしろ2013-03-30 23:57:11.181842
当時の流行がわかる「問」がある。

当世茶人達の物ずき、或いは世上に、黄瀬戸の茶碗をもてはやし候へば、茶人挙って黄瀬戸を賞玩し、又は唐津・織部・光悦、その時々のはやり道具をもてはやされ候事はいかがに候や。

No.436さむしろ2013-03-31 22:08:14.809121
ところがその答は「はやり道具用いるのは、自分の物好きではなく、人の物好きにうつりもうさるる(客の好みに迎合したものの意か?)ことにて候」などとあり、個々の茶碗には触れていない。

その後また「問」が続くが取り上げるものなし。
No.437さむしろ2013-04-01 23:17:07.401808
源流茶話(中)を読み終えた。

次は源流茶話(下)を読む。
「古へより茶人言行口々伝へ、筆に残りたるを集めて、人物の備考とす」とある。
No.438さむしろ2013-04-02 23:44:35.830079
能阿弥、相阿弥から珠光、紹鴎、利休、織部などなど、
粟田口善法、〆貫は当時も評価をうけていたようだ。

No.439さむしろ2013-04-03 22:59:58.830068
茶席にて無用の雑談遠慮すべし

無用の雑談とは

我が仏、隣りの宝、婿・舅、戦の話、人の良し悪し

No.440さむしろ2013-04-05 22:34:03.835426
解題には、
江戸時代のはじめから、元禄時代に至るころまでは、茶書の戦国時代というべきものではなかろうか。文筆の徒にして、茶書の製作を以って生活の資となし得た時代ともいえる。それゆえ、伝授の形式をとり、伝授の形式をとり、伝授というべきものであっても、必ずしもそれが伝書といえぬものもある。

玉石混交である。いわゆる茶書の戦国時代だから、全てが取るに足らぬものというのではない。多くあることは、珠玉もまた多いのである。

注意深く読まなければならない。
No.441さむしろ2013-04-08 00:05:22.253966
以上で「茶道古典全集 第3巻」を終える。
これより「茶道古典全集 第6巻」を読んでみる。
内容は、
北野大茶湯之記
山上宗二記
宗湛日記
利休百回記
である。
No.442さむしろ2013-04-08 23:38:33.971029
北野大茶湯之記には、七つの席の使用道具が記されている。

長次郎茶碗「北野黒」が、北野大茶会に使用されたことによってその銘になったとの説があるので、記録の中に出てくるのではないかと期待したが、なかった。

記載されているものの内、興味あるものは、
紹鴎備前水こほし
備前筒の花入
の二点。どのようなものかについてのヒントとなるものはなかった。
No.443さむしろ2013-04-10 00:28:09.658753
北野大茶湯に関する記録・文献の類は少なくないが、おおよそ四種に分けることができるようである。解題の中にいろいろ解説があるが斜め読みではなかなか理解できない。
No.444さむしろ2013-04-10 23:45:16.229726
山上宗二記
山上宗二記は、利休の高弟山上宗二が、珠光から利休へ相承の茶道秘伝書をその弟子に授けたもので、原本は伝わらないが、現存の写本には天正16年、又は天正17年の奥書があり利休晩年の記録であることが明らかな点、利休当時の茶道を究める上で最も貴重な茶書といえるという。
No.445さむしろ2013-04-11 22:28:45.143231
山上宗二記には、著名道具の特徴、いわれ、所在などが記されている。

茶壷、銘「三日月」について「前ヘ少傾テ面白トテ、三日月ト名付タリ」とか、
茶壷、銘「四十石」について「米四十石トル田地ニ替タレバ四十石ト云」のように。

名物道具の銘、特徴、伝来などを知っていることは茶の湯者として必須条件のようなもので、今のように図録がない当時は、山上宗ニ記は極めて貴重な書物であったと思われる。
No.446さむしろ2013-04-13 09:04:02.912179
「一、井戸茶碗」として、
是天下一ノ高麗茶碗、山上宗ニ見出テ名物ニナル、関白様ニアリ、
惣ジテ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(ナリ)サヘ能候ヘバ数寄道具也」

「今焼ノ茶碗」は長次郎茶碗と考えてよいと思う。
「瀬戸茶碗」がどのようなものか、今のところわからないが、その中に「瀬戸黒茶碗」が含まれているのではないかと考えている。
No.447さむしろ2013-04-13 23:05:51.57276
「形サヘ能ク候ヘバ」としているところをみると、山上宗ニは、利休から、長次郎茶碗に(瀬戸茶碗もか)ほどこされた造形について聞かされていなかったと思われる。
No.448さむしろ2013-04-14 22:51:17.73708
「名物水指、水こぼし」の項
「紹鴎備前物の面桶、萬代屋備前物甕ノ蓋、宗易タコツボ、宗及備前ノ合子、ミキタヤ棒先、此五ツ何レモ数寄道具也」
とあるが、それぞれどのような備前なのかわからない。
No.449さむしろ2013-04-16 00:21:17.080425
「墨蹟之事」の項に次の記述がある。

「惣ジテ墨蹟ハ第一祖師、第二ハ語、又ハ様子次第ニ数寄ニ入リ、代モ高シ、口伝多シ、真贋ノ見ヨウニ口伝在リ」

No.450さむしろ2013-04-16 22:41:00.665672
「侘花入」の項
一、略
一、紹鴎備前筒   城之介(織田信忠)殿ニテ滅
一、備前物竹子(たけのこ) 宗易ホリ出シ 堺 石橋良叱ニ在リ
(注:石橋良叱は利休の長女の夫)

上のほかに説明はなく、「備前」がどのような物であったかわからない。
No.451さむしろ2013-04-18 00:03:49.117674
「茶湯者覚悟十体」というのがある。
茶の湯者として持つべき覚悟を十通り定めた。
また、「又十体」としてもう十通りの計ニ十の覚悟をあげている。
最初の一つをあげる。

「上ヲそ相、下ヲ律儀ニ信可在」

目上の客の時は必要以上にぺこぺこと大切にあつかい、目下の客の時は、いかにも呼んでやったと言わんばかりの態度をとりやすいので、目上の客の時は、少し粗雑にあつかい、目下の客の時は、少し丁寧にあつかう心持がよいということのようだ。
No.452さむしろ2013-04-19 00:24:59.695511
紹鴎について次のように評している。

「物ニタトヘバ、吉野ノ花盛ヲ過ギテ、夏モ過ギ、秋ノ月、紅葉ニ似タリ」


引拙について、

「十月時雨ノ比ノ木葉乱ルルニ似タリ」

No.453さむしろ2013-04-19 23:51:07.16435
利休についてはどうか。

宗易茶湯モ早冬木也

No.454さむしろ2013-04-21 08:30:55.095215
茶室の好み、どのような茶室が良い茶室か?について。

村田珠光は「藁屋ニ名馬ヲ繋ギタリガヨシト也」
つまり「粗相ナル座敷ニ名物置キタルガ好シ」

No.455さむしろ2013-04-21 23:43:26.055475
板部岡江雪斎が、山上宗ニから秘伝書を受けるにあたって「此一巻之儀、今度上洛ニ付テ、血判ノ誓紙ヲ以ッテ御懇望候條、心底残サズ書顕進上候、」と記している。

師匠からその道の秘事を受ける際に、予め誓詞を紙に記して署名血判をすることは、茶道に限らず、中世における学芸界の通例であったという。
No.456さむしろ2013-04-23 00:16:03.945083
解題の最後に、
「ともかく、宗ニ記は、現在知られる限りでは、利休以後は、山上宗ニ・伊勢屋道七・桑山重晴・皆川廣照・板部岡江雪斎・古田織部・片桐石州にまで相伝された珠光流茶道の秘伝書であることが確かめられるのである。」
とあり、宗ニ記が内容の確かさも含めて極めて重要な茶書であることがわかる。
No.457さむしろ2013-04-23 23:50:12.130538
「宗湛日記」
博多の豪商神屋宗湛の茶会記である。

「一時後世の偽書とされたこともあったが、その後その信憑性が見直され、今日では「松屋会記」及び「天王寺屋会記」とならんで三大茶会記の一つにかぞえられ、日本茶道史上の最も貴重な文献、桃山時代研究の根本資料の一つとして高く評価されている。」

とある。
(宗湛日記担当の芳賀幸四郎氏は若干の疑問な点をあげ、もう少し研究の必要があると述べておられる。)
No.458さむしろ2013-04-24 23:50:59.081792
宗湛日記は「天正十四年丙戊小春廿八日ニ、上松浦唐津村ヲ出行シテ、・・・」と始まる。

次のように、今の「茶会記」というものではなく、やはり「日記」の形式である。

丙戊(天正十四年)霜月廿三日ヨリ
廿三日昼
一 天王寺屋宗及老 不時ノ御振舞  宗湛 宗伝
  上京御宿、ウラ座敷ニテ、

廿四日朝
一 宗及老 同宿、・・・・・

のごとくである。
No.459さむしろ2013-04-26 00:03:31.442172
廿七日朝
一 下京四條  宗逸 御会    宗湛  宗伝
 茶碗今ヤキニ道具仕入レテ、

天正十四年霜月(十一)廿七日、「今ヤキ」茶碗が登場した。しかし今ヤキとのみで他にはなんの説明もない。
No.460さむしろ2013-04-27 00:27:06.09432
五日夜(天正十四年十二月)

一 ○庵  夜咄    宗湛  宗伝
  平三畳  イロリ  新釜、自在ツリ
  今ヤキノ茶碗ニ道具仕入テ、・・・

今ヤキがどのようなものであったかの記述はない。
 
No.461さむしろ2013-04-29 00:56:46.989227
七日朝(天正十四年十二月)

一 本住坊 御会事
  セト碗ニ道具仕入テ、・・・

  ・・・、土ノ花生に白梅入テ、・・・

「セト碗」「土ノ花生」がどのようなものか、何もかいてない。
No.462さむしろ2013-04-29 23:27:11.673295
会は、五日朝、五日夜、六日朝、七日朝、七日晩、八日昼、九日昼、十日晩、十一日夜、十二日晩と連日連夜続く。

七日以降もセト茶碗が五度使われているが、セト茶碗がどのようなものかについて触れたものはない。
No.463さむしろ2013-05-01 00:21:59.886809
十五日(天正十四年十二月)

一 天王寺屋道叱老 御会     宗湛  宗伝
  頁の最後2行から次頁、次々頁、次々々頁、次々々々頁の頭3行ほどにわたり、随分と詳しく書かれているが、期待するものはない。茶碗は天目、水指が芋頭である。

掛物については、表装の生地、色、図柄から寸法まで実に詳しい。天目も寸法、フクリンのこと、土の状態等等記録されている。古今の名器に精通することは茶の湯者名人の資格の一つであったことから、会記は見聞録であったと思われる。
No.464さむしろ2013-05-02 00:09:33.172022
茶会は連日続く。
十七日朝

一 新屋了心 御会
  セト茶碗、道具仕入テ、・・・

掛物について詳しく書かれている。表装について詳しく書かれているが、次のようなくだりがある。

「・・・、廿四クタリ有、廿クタリメ五字サケテ、廿一クタリヨリ四クタリ有、・・・」

「・・・、二十四行あり、二十行目を五字下げて、二十一行目より四行あり、・・・」
ということのようである。

どのようなことが書いてあるかについてはまったく触れていない。他に文字の数を記録したものがある。
No.465さむしろ2013-05-03 08:20:57.32839
茶会は続く。
十七日昼。 高麗茶碗。  「床ノ文字終マデ有」も面白い。

十九日朝。 天目。  ウス茶ノ時ハ高麗茶碗。  絵は牧渓、賛は虚堂として、絵・文字の位置・印の位置など略図で軸の様子がわかるように書いている。
軸が第一であったことが想像できる。
No.466さむしろ2013-05-04 00:37:44.892551
廿日朝
一 天王寺屋宗云 御会

  井戸茶碗ニ道具仕入テ、

  井戸茶碗について、口径、高さのほか「薬ノ内黒メニアリ」「常ヨリハムツクリト候」「黒ツクロイ三ツ」「イロウルシノツクロイ細ク五ツ」「薬ノ色少赤メ」「クワンヨウヒビキ也」
などと詳しく様子が記されている。

既に登場した「今ヤキ」「セト茶碗」について何の説明もなかったが、これは宗湛にとってなんでもない茶碗であったからなのであろう。
No.467さむしろ2013-05-04 23:13:05.986466
廿一日朝
一 クサヒ屋道設 御会

  濃茶 天目  ウス茶 セト茶碗

茶入れは肩衝であるが、その様子が十二行にわたって詳しく記されている。一部をあげると、

高三寸一分半、但肩ヨリ上四分半、此内一分ハヒネリカエシ、
口ヒネリカエシノ外カケテ一寸六分、 同内ハカリハ一寸四分、
口付ノ筋二ツアリ、
肩ニ筋一ツ、
薬カケハツシ、
ナタレ一ツ、此左ノ方ニ薬懸ハツレニ処、
土ノイロハ赤メニ、
薬モアメイロニアリ、
等など

肩付茶入が、唐物か和物かわからないが、上薬がかかっていることから備前ではない。茶入は掛物に次いで重要な茶道具であり、有名なものやいい物に出会った時は極めて注意深く観察し、覚えを残したことが想像できる。

「ヒネリカエシ」は、口の部分の”捻り返し”た部分で、見所であったことがわかる。
No.468さむしろ2013-05-06 22:27:03.706679
廿一日晩

大燈国師の墨蹟が掛けられているが

「ー寸法略ー、 九字ツツ七クタリ、字数六十三アリ、此内三ツハヲドリ字也、 ー以下表装略ー」

とあり、前にも書いたが、掛物(墨蹟)を読むということには無頓着であったようだ。
なお茶碗はセト茶碗である。
No.469さむしろ2013-05-07 22:38:01.736832
茶会は年内廿九日まで続くが、これまで”今ヤキ茶碗”は三度しか登場していない。

”セト茶碗”は再々登場する。たまたま今ヤキ茶碗に縁のない席主の茶会が多かったこともありうるが、天正十四年(1586)当時は、まだ広く持たれるに至っていなかったと思われる。

もっとも「宗易形茶碗」が登場したのが天正14年10月13日であることを思えば当然といえば当然であろう。
No.470さむしろ2013-05-09 00:42:43.931175
天正十五年も正月二日の昼会から始まる。三日には大坂城内にて大茶湯。関白秀吉の呼び出し。
この時「宗易ニ始テ御目懸リ候」とある。

御飾りを拝見のとき、
関白から「筑紫ノ坊主ドレゾ」
とのお尋ねがあり、宗及「是ニテ候」と申し上げ、
関白「筑紫ノ坊主一人ニ能ミセヨ」
とのやりとりがこの日の大茶湯のなかで行われた。関白が、宗湛に興味をもっていたことがわかるエピソードである。


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