京都市内屋敷跡で大量発掘の陶磁器(10)
さむしろ

友人から京都市考古資料館で開催中の「桃山文化の陶磁器」の展示目録冊子をもらいました。京都市内屋敷跡から大量に発掘されたものです。茶碗、水指、花入れ、鉢、向付けなどですが、数の多さにビックリです。三点の擂鉢はありますがあとは茶道具と言っていいでしょう。織部様式のものとそうでないものがあります。織部様式のものと言っても、安倍安人のいうところの「アーティスト」が作ったもの、「職人」が作ったもの(このことについては掲載中の「桃山茶陶の造形と焼成」の動画を見て頂きたい)の両方があるようにみえます。勿論「職人もの」と思われるものがほとんどです。もっとも厳密に峻別する眼力はありませんのでお断りしておきます。昨年9月から今日(3月31日)までの予定でしたが展示物を追加して「続桃山文化の陶磁器」として17年8月末日まで延長されるそうです。

したり尾

私も数年前、京都の屋敷跡などから出たという黒楽を大量に見た事があります。量の多さに驚きました。焼きは長次郎の黒楽とよく似ていたように思います。記憶では「大黒」によく似たものが多かったようでした。当時京都では茶の湯が大流行したのですね。しかし、それらの黒楽は正直に申しあげてつまらないものばかりでした。たまたま「大黒」と「俊寛」もそこにあったので、その差が非常によくわかって、いい勉強をしました。さむしろさんの言われる展覧会も見れば必ず勉強になるはずです。時間があれば行きたいものです。

さむしろ

資料によると9ケ所からの出土だそうですが、おびただしい数をみると、おっしゃるように茶の湯は相当に盛んであったようですね。「出土品には使用された痕跡がなく、窯だしの新品に近い状態」で発見されたと説明されています。いつの頃どうしてこのようなことをしたのか大いに興味のわくところです。写真を見る限り、いずれもほぼ同時代の作とみます。遠州好みというか遠州七窯時代というか、そんな雰囲気のものは見当りません。ということはそれ以前ということか? 古田織部の死後、織部様式のものが茶会記から消えたとの印象をもっていますが、そこらへんに謎を解く鍵があるのかもしれません。

したり尾

私がかって見た黒楽も殆どが出土品でした。かせていたものも多くありましたが、そうでもないものもありました。かせたものはともかくその他のものは、道入以降のような釉ではなく明らかに長次郎風のものでした。確か説明書きには「利休の時代、都では茶の湯が大流行し、黒楽が出ると人々はたちまちそれを求めた」とあったように記憶しています。その説明が素直に信じられるような焼き物でした。でもゲテモノばかりですヨ。いずれにしても桃山期である事だけは間違いのないところだと思います。話はまったく変わりますが、さむしろさんでしたかマスターでしたか和蘭陀茶碗を見たと言われましたね。それはやや小ぶりのどちらかというと遠州好みの茶碗ではありませんか。実は最近カフェ・オ・レ・ボウルなるものの存在を知りました。それが、小ぶりの茶碗そっくりだったもので、あるいはと思ったのです。もっともカフェ・オ・レ・ボウルがいつの時代からあるのか知りませんが。ほんの興味本位で申し訳ありませんが、教えていただければ…。

さむしろ

和蘭陀茶碗のことを書いたのはさむしろですが、小さいとも大きいとも特に感じませんでした。ちょうど頃合いであったと思います。用途がどのようなものであったかわかりませんが、時代は結構あるように思いました。茶の湯の大流行といっても限られた世界での茶の湯ですから、強烈なリーダーの死によって茶の湯も変化していって当然ということでしょう。週刊誌で井沢元彦氏が書いていますが、三千家監修発行の利休大辞典には利休の処罰の理由として①利休キリシタン説 ②秀吉毒殺陰謀への加担説 ③舟岡山仏台石不敬事件の犠牲説 ④秀吉の利休名物所望に対する拒否説 ⑤秀吉朝鮮出兵反対説 ⑥秀吉の征服欲と芸術家利休の不屈の精神の対立説など10の説があるようです。ただここでの話題の中心である織部様式については、その消滅に織部の死が大きく関わっていることは間違いないでしょう。巷間言われているように罪を問われての死であって、身分の高低を問わず古田織部や織部茶陶、織部茶道に関わる事が憚られる事情があったとの説が理解しやすいですね。

したり尾

カフェ・オ・レ・ボウルの歴史についてはコーヒーの専門家に調べてもらう事にします。織部様式については、さむしろさんのおっしゃるとおり古田織部の死とともに終焉したと言えます。1615年大阪夏の陣で豊臣が滅ぼされ、織部が自刃を命じられ、光悦の鷹が峰拝領となる。すべて偶然同じ年に起きた事ではなく、徳川の世の本当の意味でのスタートであったのです。文化面もふくめて信長、秀吉的なものの全否定です。織部に代表される革新的な文化活動は、事実上禁止されたともいえるでしょう。もっとも桃山期というわずか二十年の間になすべき事はすべてなされたともいえるのです。

さむしろ

事実上の禁止をしたのは徳川幕府でしょうね。他にはそれだけの権力は考えられませんから。したり尾さんの言われる「織部に代表される革新的な文化」には徳川の治世のためには害となるものを含んでいたということでしょう。徳川幕府はやがて鎖国へと進んでいきます。広い意味での桃山文化のスタートとなるのが鉄砲伝来、キリスト教伝来とみると、南蛮文化、バテレン文化が桃山文化の形成・発展に与えた影響は極めて大きく、信長の時代にはそうでもないのですが、秀吉の時代になるとキリスト教の禁止措置など功罪の罪のほうにも目が向いてきています。それらの文化が、利休の茶の湯完成や織部様式茶陶の制作にも少なからず影響を与えただろうと想像します。

したり尾

安土桃山時代は教科書流に言えば中央集権体制がここからスタートします。その中で自由都市堺も信長、秀吉によって弾圧され解体されていきます。信長、秀吉などの新興勢力はその力を貯えるうちに安土城に見られるような豪華絢爛な文化を作り上げていきました。それは、当時成立した茶の湯の思想とは一見正反対であるように見えます。しかしその茶の湯は信長、秀吉によって擁護され、だからこそあっという間に大名達に拡がっていきました。思想的には正反対のものが、互いに作用しあい高めていった事がこの時代の特徴の一つであると私は思います。ただし織部陶のような動きの激しいものについては時代の空気を反映していると言ってもいいと思います。この時代とはどういう時代であるのか、様々な要素があるので一口では言えません。分からない事だらけです。

さむしろ

随分前の話ですが、NHKドラマの中で木下藤吉郎が戦で手柄をあげ、信長から茶の湯の釜を授けられ、これで自分も茶の湯ができる、と大喜びをするシーンがありました。当時茶の湯ができるということは大きなステータスだったんだろうと想像できます。作り話かもしれませんが、戦さの褒美に下手な一国をもらうより名物茶入れをもらいたいと言った武将がいたとの話もありますので、当時の茶の湯や茶道具は相当な価値をもっていたようですね。そのようなことから、例えば「今焼きの茶碗」でも特別のものでなければならなかったということがあったのではないでしょうか?

マスター

よそのサイトに次のような投稿がありました。「古志野筒茶碗ってほとんど見ないけど数が少ないのか? 橋の絵をモチーフにした志野は数が多いが卯の花垣のような絵のものは見ないなあ。卯の花垣と同じ形で同じ絵付の志野茶碗はあれだけではなく、作られた数はもっと多いはず。だから、あがりは違っても同じ形と絵付けの伝世品が存在しても不思議ではない。同じ手があの一碗だけしかないと言うほうが不自然だよね。」というものなんですが、こういうふうに考える人が多いんでしょうかね?

したり尾

普通に考えれば同じ絵付の茶碗はまだまだあるはずだという気持ちはわかります。しかし実際には後述の利休の消息文にもあるとおり、名品はできた当時から名品ともてはやされ、大事にされたからこそ現代まで生き残ってきたのですね。「大黒」「早舟」がこの世に一つしかないように「卯の花垣」もこの世に一つのものでしょう。だいぶ前にさむしろさんがお書きになっていたように、旧家の蔵の中には私達の想像すらしていないような名品が眠っている可能性はありますが…。

さむしろ

安倍安人が言っているんだけど、桃山茶陶にはアーティストの手によるものと職人の手によるものがある。職人は沢山作ってそのうちの出来の良いものを残せばいい。それが1点でも2点でも3点でも。しかし、アーティストは一品のみ。作るのも一つ、焼くのも一つ、出来たのも一つ。その作品の出来がよければ残り、悪ければ壊されて土に還る。このHPで連載中のアトリエ訪問や桃山茶陶の造形と焼成の動画をみていただきたいですね。安倍安人が嘆いているように、ほとんどの人、専門家といわれる人でさえ桃山茶陶のすべてが、壺や甕や擂鉢と同じように出来ていると思って疑わない。

したり尾

茶碗や名物茶入れなどは一国に値するという話はよく聞きますね。しかし茶の湯についての色々な話は後世の人々によって作られたものが多いので本当のところは分かりません。ただ、名品は当時から是非手に入れたいと所望する人が多かったようです。例えば利休の自筆の消息に次のようなものがあります。