長次郎茶碗の登場(9)
したり尾

さむしろさんが言われたとおり、私は、環境といいますか、思いといいますか、茶の湯の考え方の成立の理由の説明しかしていません。なぜ、あのような造形が生まれたのか、それは推測しかできません。利休型の茶碗は、利休が古くから所有していたとされる黄瀬戸にあるだけです。この茶碗は見たことがあります。これが利休茶碗の原型であるならば、話は簡単です。しかし、原型であるという説を聞いたことはありません。しかも、黄瀬戸茶碗は、確か、轆轤弾きであったと記憶しています。なぜ、楽茶碗は、そもそも手捏ねなのか、なぜ、あのような特殊な窯で作られたのか、そして、なぜ、あのような形なのか、いくつかの推論はありますが、確たる証拠のある議論は知りません。古い時代の作品は、書き物が少ないので訳が分からないところがあります。同時代の屏風絵などでは、随分研究が進んでいてある程度納得のいく説明がなされているのですが、お茶の関係のものは伝説ばかりが多く、理論的な説明がなされていないのが現状です。

さむしろ

しょせん推測しか出来ないだろうとは思います。長次郎の黒楽茶碗「俊寛」のようなものがいきなり出てきたとは思いにくい。その前段階に赤楽「道成寺」や同じく赤楽「勾当」のような茶碗があってそれが進化した、という推測は出来ませんか? 天正8年の利休の茶会に「ハタノソリタル茶碗」がつかわれたとの記録があるようです。

したり尾

推測といいながら、説得力のあるものであるならばそれはそれでいいのですが、曖昧な憶測では具合が悪い。できる限り、証明できることまで証明したいと希望しています。ところで、楽茶碗の話です。私ももちろん匂当や道成寺が、初期のものであろうと想像します。そのあたりまでは、一般的な意見に従います。素直に読めば「ハタノソリタル」は、そうした赤楽を指すのでしょう。

さむしろ

それはそうですが、あまりに窮屈になりすぎるとものが言えなくなりそうです。そこで道成寺や勾当が長次郎の(最)初期のものとして、長次郎の典型的黒楽(胴を気持ちしぼって腰の部分が外へ張っている形)にいくのにもう一段階も二段階もありそうな気がします。赤楽茶碗で「曲水」と「白鷺」の二つの茶碗があります。ともに腰が丸くなってそのあと口縁までほぼまっすぐにあがっています。口辺のつくりはよくわかりませんが単調にみえます。そしてともに高台は無釉です。

したり尾

それは手元に写真がありませんので分かりませんが、高台に釉薬がかかってないのなら、長次郎物としては初期の作品ですね。「憶測・・・」の件ですが、しがしばHPには、憶測や悪意に満ちた捏造記事が多く、しかも本人が消さない限り永遠に残ります。HPの価値を高めるためにもそれだけは避けたいと私は心がけています。このような発言をしたのは、そういうわけです。

さむしろ

なるほど。仮説、推測であることを断っての意見ならどうでしょう。推測ですが、「曲水」「白鷺」は長次郎の「道成寺」「勾当」に次ぐ時代のようにみえます。そのあと俊寛などに発展していくのに大きなひらめき或いは影響を受けるなにかがあったという気がします。

したり尾

いちいち仮説、推測と断る必要はありませんが、ご自分の意見なのか、誰かの意見なのか、それとも事実か、明確に伝わればいいのではないでしょうか。そして、万が一、間違いをした場合、間違いであったことを明らかにすればいいと思います。私的な会話ながら、公の場ではあるのですから。ところで、お説には、今の段階まで賛成です。さて、これがなぜ、「俊寛」などへ変化していくのか、閃きがあったとすれば、それは利休か長次郎か。謎ですね。ところで、NO123で紹介した利休所持とされる黄瀬戸との関係は、どのようにお考えになりますか。

さむしろ

長次郎一人の作意とは考えにくい。あの時代に一介の瓦職人が茶の湯の茶碗をつくるということは恐れ多い事であっただろうという気もします。時系列的に黄瀬戸が先であれば、白鷺・曲水には大いに影響があったと考えるほうが自然かと思います。道成寺は朝鮮ものの熊川茶碗によく似ています。なにか参考になるものがあったというほうが自然でしょうね。

したり尾

黄瀬戸茶碗は、形の上では見事に口が内側に曲がっているのです。展覧会の説明では利休所持とありました。ですから、形の上では初期長次郎の作柄とは随分違います。一番近いものは「俊寛」あたりの形です。ただし、胴の辺りに轆轤目がありました。実物を見て、たいへん驚いたことを記憶しています。さて、どうでしょうか。もうひとつ。長次郎が瓦職人であったということは、既に誰かによって確認されたことなのですか。瓦職人である可能性があるということまでは、何かで読んだことがあるのですが。

さむしろ

長次郎が瓦職人であったであろうという記載はありますが、そうであったあるいはそうでなかったとの記録は知りません。また、長次郎を名乗った者も一人ではないとの説もあります。俊寛の口造りは完成されているとの認識でいますが、その前提で考えると、曲水、白鷺のあとに太郎坊、無一物などがあり大クロへと進化していったと考えるほうが無理なく受け入れられます。黄瀬戸と俊寛が造られたころの楽茶碗とは形は似ていても造形的に決定的な違いがあると考えています。

したり尾

自分の頭の中を整理するために、現代の作家に置き換えて考えてみました。すると、理論は誰か作家でない人物が作り、その誰かに理論どおり作れと作家が命令されて、あのような作品ができあがるとは到底思えないという結論になりました。例えば、安倍安人が注文を受けて茶碗なり茶壷なり作ることはあっても、あくまで安倍理論に基づいた作品であるはずだということです。ですから、いわゆる長次郎茶碗は、長次郎とされる人物が彼個人の理論(美意識と置き換えても結構です)に基づいて、数々の名品を作ったのだろうと思います。また「瓦職人が茶の湯の茶碗を作るのは恐れ多い」といわれますが、例えば和歌の世界などでは、天皇も庶民も同じ場で歌を競い合ったことは、古くから通常行われていたことでした。まして下克上の時代です。身分差別は、江戸期に確立されたことです。利休と長次郎の関係は、世に言われているほど絶対的なものなのかという疑問が私にはあります。いつの時代でも、プロデューサーと作家とは緊張関係にあるものではないでしょうか。むしろいっそのこと「長次郎茶碗は実は利休が作ったものだ」と誰かが言えば、ある程度納得はできます。(むろん長次郎と利休は別人とされていますが)また、作品の順序は大まかに分類すことはできるでしょうし、さむしろさんの分類に私も概ね賛成です。さらに、黄瀬戸との関係も賛成です。「はたを外にそらす」のではなく、あえて内側に曲げてしまうことぐらいは、あの黄瀬戸を見て思いついたのかもしれません。また、偶然その部分のみ、一致してしまったのかもしれません。

さむしろ

長次郎なるものの理論で数々の名品を作ったとの意見には同意しかねます。安倍安人は自らの論文の中で、「文章にすると大変むずかしく感じるが、実践的には初心者でも教材をともなって教えれば30分かからずマスターできる。ある有名大学の造形学の名誉教授などは私が「織部は三点展開だと思うんですが」と言ったとたんに「あ、わかった。そうか。」と三秒もかからなかった。」と言っています。長次郎が瓦職人であったかどうかは別にして、長次郎作とされる獅子瓦があります。並みの腕ではなかったろうと推測します。相当な技術をもったものに造形理論を教えて作らせれば、先の安倍安人の説明とあわせ考えればそうむつかしいことではないのではないか、ということです。その昔には、主君の御道具を見る場合は二間も三間も離れて、かすかに拝む程度であった、といつか読んだことがあります。茶席で同席すれば格別、そうでないときは特に許しがなければみることもかなわなかった、というほうが当時の世相でなかったかと思います。つまり指示指導がなければ作り始めることはできなかっただろうというふうに想像しています。

マスター

なかなか盛り上がっていますね。まあ一服いかがですか?今日は今年1月に亡くなったお茶仲間(といっても90歳を超えておられたようですが)の追善の茶会があり行ってきました。小間で濃茶、広間で薄茶をいただきました。しっかりした道具組でした。小間の床に観音さまの画(由緒ある立派なものでした)に経筒の花入れ、釜が非常にいい古天命の甑口で肩から筋がありました。茶碗は呉器、これも稀に見る名品でした。水指は伊賀でしたが、これはちょっと弱い。広間は故人が好きであったという歌切れ(いい仕度のものでした)、釜は芦屋の霙、水指が古染付けで尻張りになっていましたが、ボディの白いぬけ、呉須もいい発色でした。ともに大名品でした。勝手に言えば、伊賀の水指に替えて安倍安人の通称「像の足」が置いてあれば思わず唸ったでしょう。それではまた続けて下さい。

したり尾

それは、また、羨ましい限りです。では頂戴します。ありがとうございました。結構なお服でした。ところで、さむしろさんに同意頂けなく残念です。安倍安人の逸話は、私はさむしろさんとは逆に理解しました。つまり、安倍安人は作家であるからこそ、織部の三点展開を見抜くことができた。焼き物を長年研究されていた大学の先生は、作家でなかったから織部のポイントを自分の力では見抜けなかった。和物茶碗の頂点にある楽茶碗の大作家が、自分で発想できないはずはないと思います。大黒にせよ俊寛にせよ、自分の発想がなければできないものではないでしょうか。作家の力を信じます。長次郎に関することで申し上げれば、織田有楽斎が長次郎に注文して作らせたという茶碗を見たことがあります。長次郎は利休とは深い関係にありましたが、必ずしも利休のみのための作家でもなかったようです。もっとも、これは長次郎の作品が持て囃されるようになってからのことではありますが。いずれにせよ、中世、都の人間関係は、想像以上に自由なものであったことは、様々な人たちが語っています。まして、町人たちの独立共和国の堺が舞台です。それらの自由さから豊かな町文化が生まれ、茶の湯の思想も育っていったと想像しています。

さむしろ

したり尾さんとの見解の違う部分がみえてきました。「安人は作家であるから見抜けた」との説ですが、それが正しければ、長次郎以降現代まで数千、数万の作家がいたろうに、それらの作家はどうなるでしょうか?「和物茶碗の頂点にある楽茶碗の大作家が自分で発想できないはずがない」というお考えについてですが、このまま理解すると、長次郎がこれまでなかった「無」から「三点展開」を生み出した、というふうに読めるのですが、そういうことでしょうか? その論によった場合、備前、伊賀、信楽、志野等美濃もの、唐津のうちの織部様式のものはどうなるでしょうか? わたしの考え(といっても安倍安人の話からわたしが理解したものです。)では、あるヒントを得た指導者が、長次郎にその理論を教え、それを学んだ長次郎がその実践をとおして進化、完成させていった、というものです。光悦も、土を持って来させて作陶したと手紙があるようですが、随分きつい内容で、身分や立場の違いが如実に現れた書き方である、と現在の楽さんだったと思いますが書かれた本にありました。また、京の町と堺の町では自由度が随分違ったのではないでしょうか

したり尾

ご質問は、次の三点でした。①安倍安人になぜ織部様式のポイントを見抜くことができたのか? ②織部様式と長次郎茶碗との関係 ③当時の人間関係。 いずれもかなり重いご質問です。特に②はかなり込み入った話ですので、今回は①③に絞らせて頂きます。①ご存知のように安倍安人は洋画から出発し、その後焼き物など様々な美術のジャンルで活躍している作家です。絵画では構図が最も重要な要素であり、安倍も構図を考え抜いたに違いありません。その画家としての安倍の目が焼き物に向かった時、織部の構造をつかみとる事ができたのではないか、と想像しています。安倍以外の陶芸家達はあまりにも伝統の世界にとらわれ自由な視点から焼き物を見ることは難しい、考え方もなかなか伝統の域から抜け出す事ができないのでしょう。そんなところではないかと思っています。話は少し外れますが、安倍があの焼き味を獲得したのもおそらく伝統にとらわれない自由さであったと思います。③「光悦」の「楽」への手紙に次のようなものがあります。「茶碗四分ほと 白土赤土御持候而 いそき御出可有候 かしく 光悦(花押)よりちゃわんや 吉左 殿 光悦」手紙の相手は楽家の当主ですが誰だか具体的にはわからないそうです。この手紙を「きつい内容」と読むか「親しい内容」と読むか立場によって読み方は変わります。尚、光悦は「のんこう」とかなり親しかったという話です。当時楽家はかなり貧しく光悦はお金持ちでした。それ以上のことはわかりません。

さむしろ

「伝統の世界にとらわれ」「自由な視点から焼き物を見ることは難しい」。したがって織部様式のポイントを見抜くことができなかった、ということのようですが、一見もっともらしいのですがどうもよくわかりません。とりあえず、既成概念に囚われ、疑問をもつことを忘れ、新しい発想も試してみることもしなかった、というふうに理解してみました。多少極端かもしれませんが、焼きについて言えば桃山、江戸、明治と「伝統」より「効率」を求めたためにすっかり焼きが変わってしまったとは言えませんか? 安倍安人が織部様式のポイントを見抜くことができたのは芸術への広い知識、深い素養、注意深さ、あくなき探究心、不断の努力(挑戦)などと、それを可能にした心と身体と生活の支えとでもいったほうがより真実に近いのではないでしょうか? わたしは安倍安人だからこそ織部様式の本質を解き明かす事が出来たと思っています。

したり尾

「安倍安人だからこそ織部様式を解き明かす事ができた」との事、勿論その通りです。でも、もし私がさむしろさんと同じように答えたら、さむしろさんは「それでは答えにならない」と言われた事でしょう。安倍の内面を語る事は私にはできません。「焼き」の話ですが、江戸初期に登り窯が入ってきた頃、比較的低い温度でも溶けるさまざまな釉薬が出てきた。焼きを忘れたのはそのためだと聞いています。勿論、当時はその方が効率的でした。しかしいつの間にかそれがそのまま固定してしまったのでしょう。私はあまり伝統という言葉はつかわないようにしています。

さむしろ

「安倍安人には芸術への知識、素養、注意深さ等々があって、また強い心身、支えもあった。そのように条件が具わった安倍安人だからこそ織部様式の本質を解き明かす事ができた。」というつもりで書いたのですが、言葉足らずだったようです。一度捨て去った技術を再び取り戻すには、周りの状況(あらゆる知識・環境等)がかわってしまっているだけにかえって難しいということもあるかもしれません。

したり尾

焼き物に限らず建造物など、一体どのように造ったのか今では判らないことが、この世には沢山あります。ところで「茶の湯」は総合芸術だとつくづく思います。茶室という日常でない空間で、日常でないかすかな光の中で、茶碗などの日常ではない諸道具と、わずかな花と…。その中で研ぎ澄まされたすべての感覚を使って、日常でない人間関係を結び、日常でない時を過ごす、宗教上の儀式には世界各地に似たような時の過ごし方があります。しかし「神」のためではなく「美」のためのこうした時の過ごし方は、知る限り「茶の湯」だけです。「美の頂点」ですね。その「茶の湯」を完成させた桃山という時代に限りない魅力を感じます。そして現代の私達には一体何ができるのか考えてしまいます。