使いにくいものを作る(8)
さむしろ

あの時代、何のまえぶれもなくいきなり楽茶碗や織部様式の茶陶がでてきたわけですが、これはどのように理解したらいいんでしょうか? たとえば矢筈水指のモデルとなるものがあったんでしょうか?

したり尾

矢筈は難しい。これは説明のつけようがない。考えます。楽については、さむしろさんとは別の観点から不思議に思っていました。なぜ、あの時代にあんなに焼きの甘いものが出てきたのだろうという疑問です。誰も、古い楽の破片を持ったからといって喜びませんものね。また、楽に関する限り、箱があって、伝来があって初めて価値が出てくるので、裸では相当の作家のものでも二束三文です。つまり、作品のよさではなく、誰が所有していたかということに意味がある。焼き物としての価値は、ほとんど認めていないということです。おかしなことだと思われませんか。さむしろさんの次の質問は、次の機会に話しますが、当時の政治状況や経済状況抜きには、その理由は語ることができないだろうと思います。

さむしろ

茶碗は茶を喫するためのものであり、普通に考えれば飲みやすいものを求めるはずです。ところが、あさがお形茶碗と比べてけっしてのみやすくはない楽茶碗がうまれた。矢筈水指にしてもけっして使いやすいものではない。民芸においては「用」の美などと言ったりするけれども、「用」の見地にたてばまったく反対の極にたっている。そしてその使いにくさは何の疑問もなく(なかったであろうとの推測)現在まで受け継がれている。

したり尾

「飲みやすいものを求めるはず」というさむしろさんのはじめの一行で、気がついたことがあります。よく言われていることですが、利休は、(正確に言えば、もう少し前からその動きはありましたが)それまでの価値観を逆にしてしまった。広い華美な「広間の茶」から、狭く遣いづらい田舎屋を模した「茶室」へ。しかも入り口は、屈まないと入れない。道具も、使いやすいものからあえて遣いづらい形のものへ。キーワードは、従来の世俗的で貴族的な価値の否定というところにあると思います。(その背景には、町人社会の台頭、経済活動の本格化があることは、その他の例からも見て取れます)このように制限を設け、敢えて難しくすることは、茶道以外にもしばしば起こることで、例えば芭蕉が、「世俗的な俳諧」から「俳句」へ高めていくときも、似たようなうるさい決まりを作っています。その精神を十分に理解し、使える者しか使えない形にしてしまうということです。「遊び」から「精神を高める場」への変化です。大まかに言えば、この説明は大きく違っているわけではないと思います。では具体的になぜ「矢筈」の形を選んだのか、その原型は何かと問われると、分かりません。その筋の専門家がいるはずですが。

さむしろ

そうなんです。青磁なんかも砧より珠光青磁など侘びたもののほうを評価するようになっていっています。竹を切って花入れをつくるというのも同じ線上のものだろうと思います。この当時利休は「侘びて、慎ましやかで、驕らぬ」さまを茶の本態としていたのかもしれません。秀吉への反発も多分にあったと思います。あるいは秀吉への反発がこのことを加速させていったとも言えるかも知れません。

したり尾

なるほど。秀吉への反発は、個人的なものですか。それとも、経済活動の中心にいた堺の納屋衆としての反発ですか。話は変わりますが、昨夜から今朝にかけて、久々お酒に飲まれまして、ふらふらです。少し寝ます。

さむしろ

普通は酒を飲むんですが、酒に飲まれたんですね。とりあえず体調を戻して下さい。政事についてもあったのでしょうが、唐物名物や金ぴかに飾りつけようとする、「秀吉の茶の湯」に対する軽蔑であったか反発であったか「茶の湯とはそんなものではないよ」という利休の思いは一貫してあったんでしょうね。

したり尾

しばらく考えてみましたが、私には、秀吉というよりも足利の美意識に対する抵抗感があったのではないかと、思えてきました。利休の消息などを読んでも、秀吉に対する恩義こそあれ、抵抗感は見受けられません。なにしろ、秀吉によって大茶人に取り上げられたのですし、一見無理な注文も、逆にそれをうまく取り入れて立派な茶会に仕立て上げてしまうのですから。また、随分お金も儲けさせてもらっているようです。秀吉は政治面で、利休たちは文化面で室町時代を終わらせていったともいえるのではないでしょうか。

さむしろ

もちろんいろいろな要素があって、これと決めつけることは避けなければいけません。室町の唐物による書院茶に否定的であったことは確かでしょう。この書院茶に対し侘びた風情、侘び道具をとりあげたのが村田珠光ではなかったかと思います。侘びへの傾倒をより進め、侘び茶を完成させたのが利休であることに異論はないでしょう。利休の秀吉への恩義は恩義として二人の間にいろいろな確執があったといわれています。例えば黄金の茶室、黒茶碗、朝顔の花をみたいという秀吉を迎えるのに、すべての花を摘み取ってただ一花を床に活けて迎えた。また利休の一番手の弟子である山上宗二の惨殺。最後に利休の切腹とつながるほどの確執があったことは間違いないでしょう。主に対する従の立場と茶の湯者としての信念のはざ間にいて、秀吉との関係が抜き差しならないところまで進んでいったのではないでしょうか。

したり尾

さむしろさんの、はじめの問題提起は、「なぜ、矢筈口ができたのか、なぜ、使いづらい茶碗ができたのか」ということでした。ですから、そのことについては背景として、室町的な美意識の否定があるように思われると考えたのです。利休と秀吉との関係は、また、別の次元の話のように思うのですが・・・。

さむしろ

121の思いでいたのですが、119から秀吉と利休へ行かざるをえないと考えた次第です。室町的美意識の否定の意識があったとは思いますが、まったく新しい造形が生まれた理由にはならないと思うんです。変化や新しいものを受け入れやすい環境ができた素地とはなったとは思いますが。造形的にはなにもないところにいきなり新しい造形が生まれたと理解したいと思います。それもたんなる思いつきあるいは既存のものを変化させてといったものではなく。