織部様式と三点展開(7)
したり尾

よく分かりました。ところで、利休のかかわった物も、織部様式と言われましたが、それはなぜですか。一般的には、利休のかかわったものと、織部とでは随分違うように見えるのですが。

さむしろ

安倍安人は、織部がかかわったとされる茶陶と利休の指導によって生まれたとされる長次郎の楽茶碗は、ともに同じ三点展開理論によって形作られているといっています。残念ながらそれらの茶陶を直接手にとって見る機会はないのですが、複数の角度からの写真を注意深くみると、安倍安人の主張と附合することがわかります。そのことから造形的には長次郎の楽茶碗と織部様式茶陶は同種、同根であって、その意味でひとくくりに織部様式といっています。ただ、この織部様式という言い方は広く認知されたものではありません。一部のものがかってに使っていると理解していただいとほうがいいでしょう。

したり尾

さむしろさんが言われていることは、「窯辺談論」のうち、門脇満さんの書かれた「安倍安人の『理』と『ロマン』」の趣旨を指すわけですね。

さむしろ

「安倍備前の造形と焼成考」のほうですね。わたしはできるだけ単純化したほうが理解しやすいと思っています。遠州や不昧の資料のなかに、紙に道具の形・寸法を書いたものがありますが、それによって注文したと思われます。このことは、遠州や不昧の指導によるものは紙に形・寸法を書いて送ればできるものであったということを示しています。ところが、長次郎を含めた織部様式の茶陶は、写真や現物の一部については手にとってみたであろう近代から現代の著名な陶芸家、人間国宝が挑戦しながら遠く及んでいないという事実があります。

したり尾

なぜですか。

さむしろ

「なぜですか?」の対象がなにかわかりませんが、単純化したほうがわかりやすい、の部分について述べましょう。織部様式とそれ以外のものと若干の例外を考えています。「それ以外のもの」の範疇にはいる陶芸職人・作家は数千、数万に及ぶでしょう。そしてそのだれもが主張やこだわりをもっていたことでしょう。それらをいちいち検証しようとしても不可能ですし、その意欲を持たせてくれる作品に出会いません。だから「それ以外のもの」としてひとくくりにすることによって、安倍安人がいうところの「アート」と「職人仕事」と若干の「例外」にわける程度がわかりやすいという結論になります。このことは、個別に興味の対象をもって研究する人がいてもそれを中傷するものではありません。

したり尾

曖昧な質問で失礼しました。伺いたかったのは、なぜ「近代から現代の著名な陶芸家が挑戦しながらも遠く及んでいない」と言えるのかということです。今、一部お答えいただきましたが。また、この話は、アートとしての焼き物全般に及ぶのでしょうか。それとも、茶陶に限っての話でしょうか。

さむしろ

茶陶に限ってです。他分野のアートについては語るべき見識はもちろん知識もありません。評価するについてはいろいろな尺度があるでしょうが、金額評価つまりいくらまでなら出せる、いくらまでなら買う人がいるという評価方法がわかりやすいと思うのですが、それによると前に述べたように一方は数千万円、なかには数億円を払って動くかどうかというものもあります。他方は高いもので数百万円、多分数千万円という額はでてこないでしょう。このような視点にたてば評価の差は歴然でしょう。とはいっても、だれだれの作が好きだという御仁もおられるでしょうが、それは人それぞれですからご勝手にというしかありません。著名な美濃もの作家がいますが、写真で見る限りですが、どうしてもいじくりまわしているだけとの印象がぬぐえません。とにかく「ほしい」と思えないんです。

したり尾

現代の陶芸家についてのご意見は、よく分かりました。ところで、茶陶に絞るというお話ですが、しかし、茶陶の成立について、当時の文化状況、経済状況、あるいは政治状況など、周辺の状況を語らないわけにはいかないと思うのですが、いかがでしょうか。