一品ものと量産もの(6)
さむしろ

「進歩」とか「美術品」とかがつくと、どうもよくわかりません。桃山茶陶のうち織部様式のものも本来はお茶のための「道具」であったはずです。ただそれまで(当時も)茶道具の主流であった唐物とともに用い、あるいはそれらにとって代わるべく作られたものであり、一国の主や豪商達の時の権力者が頭を下げて扱うものであることから、それらの道具は特別なものである必要はあっただろうと推測します。しかしそれらの一品ものも織部の死とともに消え、また忘れ去られていきます。ただ「桃山茶陶のうち織部様式のもの」をアートとすることに異議はありません。いつ頃から始まったのかわかりませんが、千家に十職がいてそれぞれ茶道具をつくっています。十職のことを職方ともいい、すくなくともこれらの作品については「美術品」といった概念では捉えていないのではないでしょうか?遠州以降の陶磁器、茶道具についても「美術品」との捉え方はしていなだろうと思います。あくまで、お茶のための道具であったはずです。美術品としだしたのは近代になってからではないでしょうか。

したり尾

「美術品」という言い方は誤解を生みますね。すみません。茶道具にせよ、軸物にせよ、あるいは仏像など社寺仏閣の様々なものにせよ、特別な「美」を意識していたと、言い直します。確かに「美術品」という括り方をしてしまったために美術館や博物館のガラスの向こうに置かれてしまったのですから。そんなものではなかったはずです。「美的な生活のための道具」というところでしょうか。日常生活とは違うものですから。これも、だいぶトンチンカンでしょうか。

さむしろ

そうですね。非日常のもの、特別のものであったのでしょうね。ただ、利休の楽茶碗、織部様式のものが利休、織部の生存中にうけた評価と、遠州以降につくられた茶碗などがその時代にうけた評価の質には相当な開きがあっただろうと想像しています。

したり尾

どのような評価の質のひらきがあるとお考えでしょうか。そして、それはどのような根拠に基づくものでしょうか。

さむしろ

オートクチュールと既製服の違いといったところでしょうか。ただ、現在では既製服も上等、中等、下等と幅広くありますが、遠州以降においても「お茶」は限られた身分の者たちのものであり、道具の質については、現代の既製服ほどの幅はなかっただろうと思うんです。織部様式のものでは、例えば伊賀花入れ銘「生爪」のように、上田宗箇から是非ゆずってほしいと懇願された古田織部が「生爪をはがされるような思い」でこれに応じた、といった逸話があります。遠州以降のものではそのような話しを聞いたことがありません。遠州蔵帳、雲州蔵帳において上位におかれたものは唐物、高麗ものであり遠州七窯のものがわずかにその名をとどめている程度です。そして現代においては、織部様式(利休・織部がかかわった茶陶)茶陶の評価は数千万円から数億円と評価され、他方は数百万円、それも伝来書付が揃っての評価ではないでしょうか。高い評価をされるものとしては例外的に仁清や乾山といったところでしょう。