大黒を少庵にとらせ可申候はや舟をば松賀嶋殿へ参度候(11)
したり尾

此暁三人御出きとくにて候とかく思案候に色々申被下候ても不調候我等物を 大黒を少庵にとらせ可申候はや舟をば松賀嶋殿へ参度候 又々とかく越中サマ御心へ分候はではいやにて候此理を古織と御談合候て今日中に御済あるべく候 明日松殿は下向にて候何にとも早舟事ぞうさなく候是もむつかしく候越中殿へも心へ候て右如申候 はや舟をば飛もし参候大ぐろを少庵に可被遣候事乍迷惑 其分にすまし可申候巳上かしく十九日両三人まいるここにある越中とは細川です。「大黒は少庵にやる事にしたので、細川がほしがっても渡す訳にはいかない」と言っています。名茶碗を皆がほしがっている様子がわかります。

マスター

利休所持ゆえにほしがったのか、利休所持でかつ長次郎造の名品だったからでしょうか?つまりこの当時すでに長次郎造というだけでの評価もあったのか?ということですが。

さむしろ

長次郎は二人いるという説があるし三人だという説もある。ある本では長次郎は1589年没となっている。

マスター

利休の切腹が1591年。とすると、したり尾さんの紹介された大黒、早舟は初代長次郎かもしれないし2代長次郎かもしれない、ということが言えるということですね。

したり尾

長次郎が何人いたのか分かりませんが、利休自筆の消息文で分かる事は「大黒」と「早舟」は初めから名碗で、弟子の細川三斎がほしがったが結局利休は、「大黒」は息子の少庵に、「早舟」は弟子の蒲生氏郷にやってしまったという事です。なお、この手紙では蒲生氏郷を松賀嶋と呼んでいますが、これは氏郷が近江の日野から伊勢の松ケ島へ移封されたためで、またそれが天正15年(1587)であるからこの消息は天正15年以降のものだとわかるという事です。

さむしろ

天正14年(1586)10月13日の茶会に、奈良の井上源吾が「宗易形茶碗」を使用したとの記録があるそうです。今、明らかになっている記録では最も古いものだそうです。

マスター

ということは、楽茶碗の誕生は天正14年(1586)から大きくはさかのぼらない?

したり尾

「勾当」「道成寺」「早舟」「大クロ」の四つの茶碗は、多くの本が1586年頃の作とあります。この四つだけ、なぜそのように特定できるのでしょうか?10月13日の茶会と関係があるのですか?

さむしろ

一つには造形があるのではないでしょうか? 「勾当」「道成寺」は造形的に出来上がっておらず稚拙な感じ、よくいえばおぼこいということになりそうですが…。「早舟」は写真がみつからないので「大クロ」にかぎっていえば形が端正です。正装といった感じです。やがて造形がくわえられ動きが出てくると想像します。

マスター

茶会記は最も有力な資料の一つでしょう。赤茶碗の「無一物」も大クロと同じ範疇に入るんでしょうね。

したり尾

やはり茶会記は制作年代を決定づける上で大切なものだという事がよく分かりました。今日は昔から一度見たかった中宮寺の国宝「菩薩半跏像」をみてきました。実に美しかったし、思ったよりなまめかしいものでした。美しさの理由は、勿論そのお顔にもありますが、全体像にもあります。説明によれば、足元の蓮弁の両端と光背の先端を結ぶ三角形の中にそのお姿がうまく収められているからだという事でした。確かにお顔は異常に大きいのに、なぜか全体像はバランスがいいのです。

マスター

そうですか。それは羨ましい。心静かに菩薩像を拝むのもいいものでしょうね。前述の利休消息文の頃には和物道具を結構使い始めたと考えていいんですかね?

さむしろ

菩薩半跏像なんていいですね。なまめかしいですか、いいですね。松屋会記によると和物で「瀬戸白茶碗」が1586年に使われている。和物茶入は1582年頃までは、一流数寄者間ではほとんど無視状態で、利休が1587年に備前茶入を表舞台に登場させたあたりから人気を高めた。茶会記の花入をみると、この頃を境に唐物中心から和物花入へと趨勢が移っている、との記述がある。

したり尾

これはかなり重要な情報ですね。さむしろさんは1586年の「瀬戸白茶碗」は志野茶碗だとお考えですか。志野だとすると・・・?

さむしろ

おっしゃるように志野ではないかと思っています。そしてしたり尾さんのご期待?の織部様式を思いたいのですが、織部が本格的に主導権をにぎるのはもう少し後になります。今手元にある資料からでも結構みえてきますね。いまこれまでの考えを若干修正する仮説がうかんできつつあります。

したり尾

今までの仮説をどのように修正しようとお考えですか。

さむしろ

昨日は、初代長次郎の楽茶碗では彫刻的造形をしていないのでは、との可能性を考えました。ところが、今朝資料をみていると「伊賀花入生爪と同形の花入があり、その背面には利休の判が漆書されている。」「伊賀花入れのなかに利休好みのものがあること」「歪みのあるものはすべて利休没後、織部の好みのごとくされている傾向をこの花入れは修正」などとあります。資料をじっくり読む必要があることを改めて認識しました。

マスター

安倍安人は「桃山茶陶の一部のものは特別の意識で造形焼成されたアートであって、偶然できた職人ものとは別ものであり、わたしはそれを目指している。」と言っています。しかし桃山茶陶の一部のものがアートであるとの主張は極一部の主張で、広く認知されたものではありません。今ここでは、そんな安倍の主張についての議論がされています。

したり尾

資料は大変重要です。資料を読む際、大事なことはその説の大本になる資料がいつの時代にできたものか、真筆か、写しかということだということが最近分かりました。たとえば、例の朝顔の茶事ですが「天正元年9月16日南坊宛利休自筆伝書」にそのよりどころを求める者があったけれど、これは後世の作り物で、明治34年岡倉天心が「茶の本」でさらにこれを広めてしまいました。また、別に「道喜老人宛朝顔の文」がありますが、これも真筆と写しがあり、内容が若干違っています。難しいことですが、資料をきちんと読み込むために、まず資料を疑ってかかれというところでしょうか。これは自分に言い聞かせているところです。

さむしろ

信憑性のことはおっしゃるとおりだと思います。その信憑性が高いとされた茶会記は一級の資料だろうと思います。その茶会記によると1587まではほとんどが唐物花入れで、翌1588には急激に備前花入れが増加。1590には竹花入れ初見とあります。今段階では「多分」ですが、竹花入は向う掛けといって床の真中ほどに釘を打って掛けて使う使い方があります。織部様式花入には釘あながありますから、向う掛けを行うようになってからの作と言っていいと思います。