「黒楽と瀬戸黒の関係を考古学的観察をした結果からの推察」との資料(12)
したり尾

さむしろさんは、織部様式は利休時代に既にあったということを証明なさりたいのですね。それを裏付ける別の資料があります。平成12年2月に出版された「茶道具の世界 楽茶碗」(楽 吉左衛門責任編集 淡交社)の中に黒楽と瀬戸黒の関係を考古学的観察をした結果、瀬戸黒の技法を取り入れて黒楽が作られるようになったと推察しています。つまり、瀬戸黒が先にあったというのです。(天正10年以前)どうお感じになりますか。

さむしろ

織部様式への関与について、1.織部の主導 2.利休の主導 3.織部、利休の共同  4.織部が主、利休が補 5.利休が主、織部が補 6.その他等が考えられます。そこで、まずそれらの道具がいつ頃から茶会記に現れるのかというところから調べてみたいと思ったんです。瀬戸黒の天正10年というのは随分早いですね。

したり尾

瀬戸黒の話は、いかにして黒楽が誕生したかというくだりに記載されていました。美濃窯の発掘調査の結果、引き出し黒の技法の年代が特定されたとありました。ただし、その瀬戸黒の茶碗は「小原女」のような碗形ではなく、長次郎の茶碗に近いものだとあります。この文章は、茶道資料館学芸部長の赤沼多佳氏の記述です。いずれにせよ、織部茶碗を生んだ美濃焼と楽焼の深い関係を暗示しています。

さむしろ

利休の茶会記に「ハタノソリタル茶碗」が出てくるのが天正8年12月ですから、瀬戸黒の天正10年以前という話と重なることは重なりますね。赤楽を焼いていたが美濃の引き出し黒の技法を学んで黒楽を焼き始めたということですか?

したり尾

そのとおりです。ちなみにさむしろさんが前に指摘されていた「獅子像」ですが、これも赤楽と同じ土、同じ釉薬を使っており、その腹部には「天正二年春 長次良 造之」とあるそうです。なお、瀬戸黒の茶碗は轆轤成形だそうで、この点では以前私が指摘した黄瀬戸に近いものかなと想像しています。赤沼さんの結論では「初期に赤茶碗がつくられ、さらに美濃窯の技法が取り入れられて黒茶碗がつくられるようになったようである」とあります。

さむしろ

唐津の登り窯が美濃に伝わって、美濃地方でも登り窯を使うようになったとの話があったように思います。そのような意味での技術の移転ということだろうと思います。慶長6(1601)織部の7月20日の茶会記に「三角筒」と記され(宗久茶湯書抜)以後織部は備前三角花入をしばしば用いる、との記載があります。出典は未確認ですが、この頃には備前三角花入れが存在したと思われます。これがHP動画にでてくる三角花入れであれば、この頃にはすでに織部様式は完成していたことになります。

したり尾

今までの話をまとめてみると、1586年に瀬戸茶碗と宗易形の茶碗が茶会に登場してきている。しかも、それ以前に瀬戸黒の技術が黒楽の誕生に関わっている。とすると、楽茶碗と瀬戸茶碗が互いに影響しあいながら、織部様式へと向かっていったとは考えられませんか。勿論、高麗茶碗も大きな影響を与えていると思います。慶長の初期には「小原女」のような瀬戸黒、志野などが制作されているようです。こうしたことから完成と言い切れなくても、少なくとも慶長初期には織部様式が登場していたことは間違いないように思います。

さむしろ

茶会記に「宗易形茶碗」が現れたことの意味ですが、これはその時点における楽茶碗の存在を意味しても織部様式の造形は必ずしも意味しないとの思いがあります。楽茶碗「無一物」や「大クロ」には織部様式的造形はなされていないのではないかとの思いです。

したり尾

長次郎の作品の特徴のひとつに口縁のうねりがあります。それまでのものには、高麗茶碗のような偶然のゆがみを別にして、口縁のうねりはありませんでした。それは手捏ねで作り上げられる際に生まれた力学的な必然です。そして、長次郎によって開発されたゆがみの美は美濃の作家に受け継がれ、大胆に変化し様式化していきました。織部様式は、こうして誕生し完成していったのだと私は理解していました。ですから「大クロ」も「無一物」も、あるいは「太郎坊」も織部様式の作品であり、長次郎の代表作のひとつであると思っていました。この理解が間違っていたようです。自分の浅学と浅い美意識を恥じるしかありません。

さむしろ

なにをおっしゃいますやら。わたしも安倍安人の理論を繰り返し何度も聞き、やっと安倍安人の言う事のほうがすなおに納得できるようになりました。

したり尾

すると、「早舟」「大クロ」「一文字」「太郎坊」「二郎坊」「北野」「まこも」「恩城寺」「なでしこ」「禿」「白鷺」などは、いけないということですね。まったく自信がなくなりました。「ムキ栗」はどうでしょうか。

さむしろ

いけないということではなくて、いつから、あるいはどの作品から「織部様式の造形」がなされたかということを追究することによって、利休が織部様式といっている造形に関わってきたかとか、関わっていなかったとかわかれば面白いと思うのですが…。大クロ、北野、まこも、一文字は同じような形ですね。太郎坊はかすかに造形があるようにも見えます。これは利休所持となっているようですので、これに造形がなされていれば利休の関与の可能性が推測できますね。二郎坊は胴を押したように見えますがどうでしょう。禿は造形がなされているように見えますがどうでしょうか?白鷺は特に古い手のように見えます。ムキ栗は四方ですね。どうでしょうか?他は手元の資料で見つかりませんでした。

したり尾

今までは、面によって構成されているもの、しかも力の波及が力学的に自然にできているもの、それは自然の摂理に従って3点で展開されていくものを織部様式と認識してきました。その意味で「大クロ」なども「ムキ栗」も面によって構成されていて、それまでの焼き物とは違うものだと思っていました。しかし、それでは織部様式としては、やはり何かが足りないのでしょうね。それとも、見方が甘すぎるのでしょうか。

さむしろ

織部様式には典型的造形の約束があって、それらを作品によって強く、弱く変化させながら形造る、といった理解です。茶碗の場合、高台、高台脇、腰、胴、口縁がそれぞれ勝手に造形されるのではなく、一つの変化が次ぎの変化に影響を与えながら全体を形造っているのではないかと思います。

したり尾

なるほど。それが力の波及ということですね。織部様式のおさらいのようで申し訳ありません。さむしろさんが「大クロ」を織部様式ではないと言われる理由は何ですか。私には高台から始まって口縁にいたるまで静かな力が無理なく伝わっていっているように見えるのです。胴の僅かな膨らみも、微かな口縁のうねりに波及しているように見えました。

さむしろ

胴の膨らみのつぎには押さえ(くぼみ)があるはずなんですが、それが見えません。そのほかの部分も、手捻りの凹凸かそれとも造形かわかりません。手にとってみれば、もう少しわかるかもしれませんが所詮素人ですから限界があります。プロ(安倍安人)が手にとってみた、その感想を聞きたいものです。