長次郎の手法は手捏ね(13)
したり尾

そうですか。なるほど・・・。しかし「楽」の場合、手捏ねの後、2、3日室で半乾きになるまで乾かし、その後かなり薄くなるまで削り上げます。そうしないと、釉薬が分厚いので重すぎて使い物になりません。ですから、形は細部まで偶然ではなく、作者の責任です。なお、「楽」の場合、「てびねり」ではなく「てづくね」といって、皿のような円盤を少しずつ立ち上げて、やがて手にすっぽり納まるように作っていくという独特の作り方をしています。作り方、そして刀鍛冶のような特殊な窯に、なにか秘密があるような気がしています。

さむしろ

焼きについてですか?

したり尾

第一に「手捏ね」という作り方です。面白半分、「手捏ね」という方法で作ってみたことがありますが、自然に「楽」の形になってしまいます。轆轤の場合は、どうしても半球体になり、そのままでは面を意識することはありません。しかし「手捏ね」の場合は、はじめから面が意識されます。織部様式の出発点は、ここにあるのかもしれないと思ったのです。第二は、一回にひとつしか焼くことにできない窯の不思議さです。当時、登り窯が登場しようという大量生産時代に入る直前でしたから、敢えて時代に逆行する窯を使ったことに、茶の世界の確立を目指す精神を感じます。いずれにせよ、ひとつずつ、ゆっくりと形作り、削りだしていく中で、織部様式が生まれる可能性はあるように思われます。全然うかもしれませんが・・・。

さむしろ

安倍安人の作品は織部様式茶陶の直写しのものはないのに、織部様式茶陶の模倣であるといわれます。ルールに従って造形すれば必然的に織部様式になっていくと言っています。焼きについては、京の町中で焼くわけですから、大きな窯は無理であったこと、又それで十分であったのかもしれません。多分楽茶碗は利休が関わる特別なものであったのでしょうから、多すぎてもいけなかったと考えられませんか? それと、安倍安人作の楽茶碗を見られたことはありませんか?

したり尾

安倍安人の「黒楽」は一度だけ、見たことがあります。しかし、当時は焼けに気をとられていたので、形はあまり記憶にありません。焼けは、長次郎のようなすばらしいものでした。なお、楽吉左衛門によれば、楽焼の技術の基本は、近年の研究によって中国福建省の窯で焼かれた「素三彩」の技法であることがほぼ確定したとありました。そして、楽家の祖先は、朝鮮半島あるいは中国からきたという説があるそうで、そこから楽吉左衛門は、中国福健省から来た素三彩の技術を持った陶工か瓦師ではないかと推測しています。いずれにせよ、内窯による一品制作は、長次郎の技術と意志、そして利休の思いとが重なり合ったということだと思っています。

さむしろ

そうですか、ご覧になったことがありますか。わたしも、もうだいぶ前ですが一度みました。当時造形がどうとかわからなかったので講釈は言えませんが、おっしゃるように素晴らしい焼きで、形もよく、それまで嫌いだった「楽茶碗」が好きになりました。そんな茶碗でした。

したり尾

私も安倍の「楽」を見て、楽茶碗の面白さに惹かれた一人です。確か、作家になる随分前の作品で、まったくの趣味として焼いていたと聞きました。さむしろさんは、なぜ、安倍の「楽」の話をされるのですか。安倍と長次郎の共通点を探っていらっしゃるのでしょうか。そして、そこから織部様式の発生の秘密を見出したいとお考えなのでしょうか。

さむしろ

いや、そうではありません。したり尾さんがNO192に「特殊な窯に秘密」があるかもしれないとの投稿をされましたので、窯はあまり関係ないのでは、との思いです。もっとも登り窯と比べ低温であること、従ってそれに応じた土、釉薬そして結果としての“焼き成り”が現存のものになったということでは、影響というより原因そのものがあったとは言えるでしょう。同時に「少しずつ立ち上げて・・・作り方」との部分ですが、当初はその「時点」で完成とし、ある時期からその時点のものに造形を加えたとは考えられませんか?

したり尾

よく分かりました。まず、窯の話です。なぜ、一品しか作れない窯を敢えて選んだのかということです。NO154で、さむしろさんは安倍の言葉として「アーティストは一品のみ。作るのも一つ。焼くのも一つ。できたのも一つ」と書かれました。そのことを具体的に現したのが長次郎窯であろうと思いました。窯の秘密とは、窯にさえ長次郎のアーティストとしての覚悟があると思えるということです。もうひとつのご質問、当初は手で形作った時点で完成だったのではないかということです。私は実物を見たことがないのですが、楽氏によれば「『白鷺』は箆による成形の跡が、あまり見られない。全体に厚づくり、見込底部にもまだ分厚く土が残っている」とあります。しかし、まったく箆を使わなかったわけではありません。高台内には、箆の跡が見えます。そういうことですから、おっしゃるとおり、当初は手で形作った時点でほぼ完成だったのでしょう。しかし、「無一物」や「大クロ」は、相当薄作りで、丹念に箆で削っていった跡が見られます。

さむしろ

長次郎は元々陶工あるいは瓦師との話がありましたが、そうであれば職人であり、すくなくとも当初は利休の指示のもとに造り、焼いたのではないでしょうか? 何年か経ち、あるいは次の代になって「茶碗師(アーティスト)」としての自負を持つようになったかもしれませんが、少なくとも当初は一職人であっただろうと想像します。「箆で削り」のことですが、その「削り」と、造形を加えたの「造形」はここでは別の意で使っています。削り終わったところをその「時点」ととらえたいのですが。ただし造形を加えるようになってからは、造形を加えたあと少し乾かしてから削ったということかもしれません。この部分は制作上のことで現実にやり易い方法をとったということでよいのではないでしょうか?

したり尾

書き方が曖昧でした。楽氏が陶工、あるいは瓦師であったであろうと推測しているのは、長次郎ではなくて、その前の「あめや」といわれている人物のことです。これは元禄元年に宗入が書き記したとされる「宗入文書」にあり、長次郎は「あめや倅」とあるそうです。なお、ご存知のことと思いますが、長次郎には茶碗のほかに「三彩瓜文平鉢」があり、赤沼氏によれば16世紀後半まで日本に招来されていた華南三彩を模したもので、この技術は常慶までは伝わっていて、二彩,三彩の技術は、当時楽家の得意としていたところだそうです。また、発掘調査によって、当時京都では、楽家以外にも、こうした技術を持った者がいた形跡があるそうです。第二の成形の問題ですが、これは轆轤挽きの場合も手捻りの場合も手捏ねの場合もすべてそうですが、はじめからある理想の形を思い浮かべて作り上げていきます。これで、お答えになっているでしょうか。それから、これはさむしろさんに質問ですが、なぜ、長次郎はアーティストであってはいけないのですか。安倍さんのいわれるアーティストの条件にすべて当てはまると思うのですが。

さむしろ

信長が安土城を築く際に渡来人を多用していたとの話もあるようです。そんな渡来人の一人あるいはその子であったかもしれませんね。親のあめやが瓦師で、利休が初めて茶碗つくりを依頼したときの長次郎は何屋さんだったのでしょうか?「理想の形を思い浮かべて」は理解できますがそれと「織部様式に従ったもの」とは別だと考えていますが、おっしゃることの意味がわかりません。長次郎とアーティストのことですが、長次郎は二人あるいは三人いるという話は前にでましたが、初代長次郎には茶碗を焼き始める前、焼き始めたとき、道成寺などを焼いたころ、大クロを焼いたころ、俊寛などを焼いたころ等々いろんな時期があります。長次郎が、利休の依頼で茶碗を焼き始めるときに、「特別な精神」、「特殊な窯とその秘密」を考えただろうか? ということです。そのときは一職人であって、その後ある時期にアーティストになるのはいっこうにかまいません。長くなりますがもう一つ言いますと、竹花入れを作るのに大工あるいは指物大工に竹を切らしたと仮定したときに、その大工には相手が天下の大宗匠という意識はあっても、それ以外の特別なものはなかったろうと思います。

したり尾

またしても、私の書き方が曖昧であったようで誤解を与えてしまいました。申し訳ありません。「あめや」は瓦師か、陶工か断定はされていません。長次郎については、何をやっていたのか分かりません。ただ、天正2年には獅子像を作り、それは赤楽の土、赤楽の釉であるということ。また、茶碗以外にも「三彩平鉢」を作っていることが分かっているだけです。何らかの形で、焼き物に従事してはいたのでしょう。また、当時、京都には何人かの中国の技術を持った陶工がいたことが発掘調査で分かっているということです。長次郎複数説は、昭和40年頃から磯野信威氏や大河内風船子などが唱えていましたが、現在楽家では一人説を採っています。制作過程の話は、ご質問の意味を理解しないまま書いてしまいました。申し訳ありません。竹花入のお話と長次郎との関係は、残念ながら理解できませんでした。あれこれ想像はするものの、曖昧なまま話を進めるとまたまた誤解を生みますので、やめにします。できれば、もう少しご教授ください。

さむしろ

長次郎天正2年の獅子(手元の資料は獅子瓦となっています)、天正8年ハタノソリタル茶碗、天正14年宗易形茶碗、天正19年長次郎死亡、という流れでみた場合に長次郎が一人ということになると、随分短期間であそこまで完成させたと言えるのではないでしょうか。当初、初代長次郎は大クロなどのところまでを造った、との仮説をたてました。ところが、「薩摩の門人が茶碗を所望したので利休が三碗送ったところ、一碗を残して二碗を送り返した。残した一碗に銘をつけるよう頼まれた利休がつけた銘が「俊寛」である」との記述がありました。これが正しければ初代長次郎のときすでに楽茶碗における「織部様式」は完成していた可能性が高くなります。

したり尾

私も「俊寛」の命名の件は知っています。どこまで信用できる資料なのか分からないので、今まで触れませんでした。獅子像なのか獅子瓦なのか、資料によってさまざまで、とりあえずできるだけ新しい資料での呼び方にしました。長次郎の没年は、天正17年という記述もあります。短期間に織部様式が完成したことに関連して。たとえば、「ひまわり」などで有名なゴッホは代表的な数百点の作品は、確か死の直前の2年半で描き上げたものです。そのような例は数々あります。一度、方向が決まれば時間はそれほど要りません。文学でも、音楽でも似たような実話はありまして・・・。

さむしろ

そうであるとすると、天正18年(1590、先に19年としたのは誤り)あるいは天正17年(1589)までに楽茶碗の造形は完成された。そうすると、安倍が楽茶碗の造形と同根としている備前物、伊賀・信楽物、唐津等の織部様式茶陶とのかかわりを、短期間の接点で考える必要がでてきます。数的にはおっしゃるとおりで驚きませんが、造形の完成への速さに対し驚きます。確かな技術、技量があったであろうことに異議はありませんが。

したり尾

NO143でさむしろさんが言われた「桃山文化の陶磁器展」にあるように、当時の宗易型茶碗の流行は、今我々が想像する以上に大変なものであったろうと思います。また、時代の変わり目に、地方の人間が都の動きに非常に敏感であったろう事は容易に想像できます。前々から、面白いと思っていることが一つあります。常慶の白釉茶碗の一部には、志野の蓬莱山と釉薬のかけ方までそっくりなものがあります。大きな意味で「楽」と「美濃」の結びつきの強さを感じます。織部様式の完成の早さについては私の意見はありますが、長くなりすぎるので次に書きます。

さむしろ

利休時代に、利休が関与する楽茶碗は垂涎の的であっただろうと想像できます。利休の死(1591)の後、数年後には織部が茶の湯の第一人者になったというような記述もあります。それとともに道具の好み、流行も変化していっただろうと想像します。

したり尾

そういうことでしょう。長次郎の造形の完成の速さについては、私は「獅子」にヒントがあると感じています。そんな説はどこにもありませんが、私はそう感じています。

さむしろ

獅子にヒントとは?

したり尾

「獅子」が瓦であるかないかは別にして、造形に対する意欲のある作品です。中宮寺の菩薩半跏像の部分でも触れましたが、彫刻では既に面と線との関係、あるいは三点展開は実現しています。長次郎が、茶碗を造形物としてみたとすれば、織部様式に繋がることは容易です。そう見たという証拠はありません。しかし、「獅子」を作ったのが長次郎であることだけは事実ですので。

さむしろ

「獅子によって高い技量の持ち主であることはわかります。しかし、おっしゃるように長次郎が、茶碗を造形物としてみたとして、それだけで織部様式に繋がることは容易だったでしょうか? 例えば、近代において、陶陽にしても唐九郎にしても、織部様式として完成された手本を現実にみることが出来たのに、織部様式の本質を理解したとは思えないのですが。

したり尾

今回も私の書き方が曖昧であったか、現代陶芸家に対する知識があまりになかったか、それとも両方か・・。申し訳ないことです。長次郎は、「獅子」を造った人物ですから彫刻を作るように茶碗を作ったのではないかと申し上げたかったのです。陶陽さんや唐九郎さんが、彫刻などほかの美術についても造詣が深いとはまったく知りませんでした。安倍安人が焼き物以外の芸術の分野でも活躍されているので、ふと安倍と長次郎をダブらせてしまったのです。お恥ずかしい。

さむしろ

そうではないのですが、特に陶陽さんは細工物をよくされたとの印象があったということで、長次郎の獅子についても彫刻というより細工物との認識でした。

したり尾

別の角度から見てみましょう。何を読んでも、利休が長次郎を指導して楽茶碗を作ったとあります。それでは、具体的に何をどのように指導したのでしょうか。また、指導によってあのような名品の数々ができるものなのでしょうか。例えば「あの獅子のような茶碗を作ってみろ」と利休が言い、「それでは」と長次郎が作る。何回も駄目出しをされ、試行錯誤の末、楽茶碗が出来上がる。そういうことなら納得できるのですが・・・。世に言われているとおり意志なき職人が名品を作ったということであるなら、あまりに不思議です、本当に。

さむしろ

「具体的に何をどのように指導」したかこそが、ここでの議論で求めている答えそのものです。NO128で「そのあと俊寛などに発展していくのに大きな閃き或いは影響を受けるなにかが」あったように思う、NO134で安倍の「初心者でも教材をともなって教えれば30分かからずマスター」できる、との話を紹介しています。なお、「意思なき職人」と言われますが、長次郎一人説によっても10年余の年月があります。最後まで意志なき職人と言っていいのかどうか疑問です。

したり尾

もうひとつ、別の疑問をあげさせてください。国宝になっている光悦の硯箱は、明らかに光悦が直接制作してはいないのに、光悦作といっても誰も不思議に感じません。それは、デザインや材料など、すべて光悦が決定したからでしょう。世に言われているように利休が長次郎を指導して作ったのが楽茶碗だとすれば、それは利休作といってもいいはずだと思うのですよ。違いは何ですかね。

さむしろ

光悦が硯箱制作にどれだけ関与したか、したり尾さんがおっしゃるような制作の経緯については初耳です。利休・長次郎による楽茶碗も同じ事がいえるのではないかとのことですが、光悦と硯箱については不知。利休・長次郎の楽茶碗については今も議論中で不明、ということですが、したり尾さんのお話を前提に直感的に言えば、二つのそれぞれの関わり方(光悦と職方、利休と長次郎)には質的な違いがあって単純な比較はむつかしいのではないでしょうか。

したり尾

そうですね。前に話のあった出川直樹さんの代表作「民芸~理論の崩壊と様式の誕生」(新潮社)にもありますが、柳宗悦以来、日本人は無名の職人の巧まざる手技に価値を求める傾向が強くなり、それと相まって茶碗制作の面では、利休の存在を必要以上に大きくさせてしまったことはないでしょうか。「ものはら」にお邪魔して以来「アーティストとしての長次郎」という側面から「楽茶碗」を見てみたいという気分が強くなりました。勿論、利休の価値は十分に認めた上の話です。

さむしろ

このテーマを語るうえで考えなければならないのが、NO207でも述べましたが、備前、伊賀、信楽などで造られた織部様式茶陶がどのような経緯でだれによってつくられたか? ということです。同一の造形理論だという安倍理論にのっとっていますので、長次郎がすべてを造ったとすれば一面は解決しますが、そうすると複数の手癖があってはいけないことになります。

したり尾

一般的にいう織部様式の茶碗は、唐津から美濃まで多数ありますが、明らかに、長次郎とは別の複数の人々の制作によるものです。先日唐津の茶碗を見ましたが、ずいぶん大きなものでした。志野の「羽衣」ぐらいはあったでしょうか。

さむしろ

作者複数説に賛成します。ただその場合、どのようにして造形力を手に入れたかです。(造形のルールが同一であるとの前提にたっています。)

したり尾

当時、都で宗易形は大流行したことは、度々触れているところです。また、美濃と京都は特別な関係にあったことも、いつぞや触れました。織部形は、美濃でもっとも盛んであったことと合わせて考えると、美濃にどなたか、西洋的美意識を持ち合わせた相当な目利きがいたのかなと想像します。時期は特定されていませんが・・・。

さむしろ

その考えは備前、伊賀、信楽、唐津などにも当てはまるとお考えですか。