「楽茶碗は長次郎で完成しているので、いまさら古作(長次郎)を写しても意味がない」との見解(17)
さむしろ

とあるところの書き込みです。
ある人(原文にはあるが確認できないのでこのように記す)はこのように言っている「・・・ 楽茶碗は長次郎で完成しているので、いまさら古作(長次郎)を写しても意味がない。それは単なる模倣にすぎない。 今を生きる陶芸家は、今を生き今作陶する意味を考え、現代に合った、新しい現代の陶芸を行うべきである。 芸術とは過去の模倣ではけっしてなく、新しいものを生み出すことである。古作の模倣(写し)は古作の代用としての意味しかない。 古作が現在にも残されている以上、古作が欲しければ、古作を買えば良い。 現代の陶芸家として現代の作品を作り上げる事が、現代の陶芸家としての義務であり、陶芸史の発展につながるものである。 古作の模倣(写し)は、長い陶芸の歴史からみると意味のないことであり、古作が欲しい人へ代用品を安価で提供するという意味しかない。(ここまで引用)」
どうも理屈っぽくてよくわからない。模倣(写し)の定義もよくわからない。コピーの意味ならわからなくはないが…。定義がわからないままだが、はたして模倣しきれたものがあるのだろうか? たとえ模倣でも長次郎を模倣しきれているのであれば是非手にとってみたい。

したり尾

完璧な模倣があったとして、それはやはり贋作の部類になってしまいますから、まずいでしょう。いわゆる「写し」はよくあることです。作家の勉強のためであれば分かりますが、そうでなければ「とある人」のご意見に賛成です。

さむしろ

オリジナル性よりも、物そのものが魅力をもっていればそれはそれで名品といっていいのではないでしょうか?

したり尾

おっしゃる気持ちは分からないではありませんが、現実にはあり得ません。

さむしろ

おっしゃるとおり同一のモノは出来ないでしょう。ですが、造れる造れないという視点ではなく、全て「模倣モノ = 魅力ナシ」とは言えないのではないかということです。
模倣モノでも魅力のあるものは受け入れますということです。ただ現実にあるかどうかは別の話です。

したり尾

陶芸に限らず作家が作品を作るとき、その作品でしか表現できない世界を表そうというする意志があります。仮に寸分違わず同じ作品を作ったとしても、形は模倣できても、その精神は模倣しきれるものではありません。あるいは、例えば長次郎と同じ高さの精神と同程度の技術の持ち主がいれば、彼は俊寛を作らなくとも、別の作品で同程度の高さの感動を与えることができるでしょう。

さむしろ

宗達の描いた杜若図(であったと思う)屏風がありますが、ほぼ同じ構図(であったと思う)の杜若図屏風を光琳と抱一(であったと思う)が描いています。であったと思う、ばかりで心もとないですが、宗達の杜若図屏風、光琳の杜若図屏風、抱一の杜若図屏風としていずれも高い評価を得ていると認識しています。

したり尾

「風神雷神図」も同じことですね。本歌は明らかに宗達ですが、光琳も確か抱一も「風神雷神図」を描き、それぞれ芸術として独立している。こうなると、本歌と写しとの勝負というところですね。このような関係の茶碗があれば面白いのですが・・・。