「乱世に映したゆがみの美」(日本経済新聞連載)に思う(18)
マスター

第1回 三井記念美術館の開館記念展が10月8日から行われているようです。今日付け日経新聞、詩歌・教養、かたち百景、「乱世に映したゆがみの美」として展示中の「伊賀耳付花入、銘業平」が解説されていました。何回かに別けて掲載します。当然、通説的な解説だろうと思いますが、同意、異論、反論その他を投稿下さい。第1回前も後ろも、胴体がぐにゃりと変形している。首の下には無造作なへら跡。窯の灰が降り注いで生まれた緑や黄の模様も調和して、さびた味わいと風格が漂う。「伊賀耳付花入、銘業平」は、豪商三井家が秘蔵してきた古伊賀の名品。

さむしろ

珍しく横からの写真がでていて変形ぶりがよくわかります。「無造作なへら跡」などと書かかれていると、それを読んだ人は(信じてしまうでしょうから)、へらは無造作にいれるものだと思ってしまうでしょう。

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第2回 ところが、この器を焼き物の本家、中国の専門家にみせたとする。「間違いなく、なぜこんなゆがんだものを飾っておくんだと首をかしげるでしょね」と同館の清水実学芸課長は苦笑する。「ゆがみの美」は日本、それも茶の湯文化が全盛期を迎えた桃山時代、一人の戦国武将によって完成された美意識だからだ。武将の名は古田織部。千利休の一番弟子だ。利休の趣味をよく反映した「楽茶碗」にも、わずかなゆがみやアシンメトリー(非対称)な造形が見られるが、織部は師匠亡き後、それを大胆にデフォルメして「織部好み」と呼ばれるゆがんだ茶器を作り出した。

さむしろ

『ゆがみの美』私は織部様式茶陶は、現代でいうところの彫刻であるとの理解です。そうすると「ゆがみの美」といったのでは本質を誤ると考えます。『「楽茶碗」にも、わずかなゆがみやアシンメトリー(非対称)な造形が見られるが、織部は師匠亡き後、それを大胆にデフォルメして「織部好み」と呼ばれるゆがんだ茶器を作り出した』この部分は大筋で同じ考えです。しかし、この部分こそ茶陶史中最大の謎です。1586/10/13 「宗易形茶碗」を使用とある(松屋会記)、1590 利休切腹、1598 織部スターダムへ、1600/7/20 織部の茶会記に三角筒(備前花入)、などとあるので、じっくり茶会記をみればもう少しはっきりしてくるのではと希望を持っている。

さむしろ

1587/3/6の茶人春世の茶会で「備前物の新しき花瓶」を用意した、とあります。この新しき花瓶がどのようなものであったかはわからない。ただ、茶会記をみると、この頃より唐物中心から和物中心に移っていくのがよくわかる(ある本・矢部著による)、とある。はっきりしている(と思われる)ことは、1586年には利休形の茶碗(楽茶碗と推定)があったということ。1600年に備前三角花入れがあったということ。(織部の茶会)その間が13年あります。どの時点で、だれによって「大胆にデフォルメ」されたのか?そして織部様式の茶陶が1600年以前に用いられた記録はないのか?

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「大胆にデフォルメ」を指導したのはだれか? とともにその指導によって制作したものはだれか? が謎です。
第3回 これが京都の商人を通じて大流行し、織部をまねて自分の城で焼かせる大名が現れる。この花入も、利休に学んでいた伊賀上野の大名が、城内の窯で作らせたものといわれている。既成の価値観にとらわれない自由で豪放な姿の焼き物は、成り上がりが天下をとった時代の気分にふさわしかったのだろう。

さむしろ

近年、京都の商人邸跡からおびただしい数の桃山茶陶が発掘されたことからも、京都の商人を通じて広まるほど流行したであろうことは想像できます。伊賀では城内から窯跡が発掘されたとの話を読んだ記憶があります。ただこのHP「桃山茶陶の焼成と造形」の中で安倍さんがいっておられますが、同じ三角備前花入でも、ものによって、かたや数億円かたや数百万円というほど評価がわかれます。説明にあるように城内で作らせたとして、織部様式を習得した名人の手によるか、小器用な職人の手によるかによって大きく評価が分かれるはずです。名人であれば、伊賀の住人なのか京都から呼び寄せたのかといった疑問が湧いてきます。

さむしろ

安倍さんは、織部様式茶陶の造形力について極めて高度であることを力説しておられ、名品・古備前三角花入について自分にはとても手が届かない(ほど高度)という話もされています。このことから「利休に学んだ大名が、城内の窯で作らせ」たくらいで、はたして天下の名品が焼き上がるものだろうか? といった疑問がどうしても残ります。一方(横側)からだけですが、みるところ名品です。

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第4回 だが、ゆがんだ形を美しいと見る目は「必ずしも、織部一人が観念的に作り出したものではなかったと思う」と、清水氏は見る。

さむしろ

黒楽茶碗銘「大クロ」、「東陽坊」、「北野黒」は、いわゆる造形(ゆがんだ形)はほどこされていない。銘「俊寛」は写真でみてもわかるほどの造形(ゆがんだ形)がほどこされている。いずれも利休所持といわれ、利休の存命中の作と思われる。これは、利休の指導で長次郎が造形を加えたか、利休と長次郎が相談しながら造形をした、長次郎の作意による造形を利休が認めた、利休・長次郎以外にアドバイスするものがいた、などが考えられる。

さむしろ

「古田織部」(土岐著)では、織部が27才のときに、利休(47才)に茶の湯の教えを請うた、という設定になっています。1569~1570頃かと思われます。この頃に二人の交流が始まったとすると、利休の楽茶碗の造形に織部が関与する可能性はあったといえるでしょう。「ゆがんだ形を美しいと見る目は必ずしも、織部一人が・・・作り出したものではなかった」。このことについて安倍さんは、楽茶碗と織部様式は同根であると言っておられる。(黒楽茶碗「俊寛」は織部様式と同一の造形が完璧になされていると言っておられる。)「ゆがんだ形を美しいと見る」を、ゆがんだ形=美しい、と受け取るべきではない。造形の安定性が安心感、安らぎを与え、焼きの濃密さが味わい深さとか「こく」を与えている、ということですが、このHP窯辺論談の「安倍備前の造形と焼成考」で詳しく論じています。

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(ゆがんだ形への)造形は、利休の創意なのか長次郎の作意なのか、あるいは織部のひらめきなのか、またまったく別のところにあったのかわからないということは確かなようです。(まったく別というのは考えにくい)安倍さんの話をじっくり聞いてみると、偶然に出来たものではないということは、はっきり言ってもいいと思います。

第5回 縄文土器の有機体を思わせるごてごてとした装飾、あるいは樹齢を重ねて曲がりくねった大木を神木とあがめる感性。「日本人は古来、人工的に完成された造形物よりも、自然のありのままの姿に美しさを見出してきた」。その古い美意識をうまくすくい上げ、洗練させたのが織部好みの器だったとも言える。

さむしろ

「自然のありのままの姿に美しさを見出し」という美意識について異論はない。しかしその美意識と織部様式の美意識を同一視することには異論がある。鎌倉時代頃の那智の滝図(であったと思う)は、下から見上げるように描かれたものでも、又上から見下ろすように描かれたものでもない。上部も中ほども下部もそれぞれ同じ高さ(上部、中ほど、下部)の位置からの目線で描かれている。(流れ落ちる水の巾が上下同じに描かれている。)仏像にしても一部の例外を除けば、腕の上下の違いはあるが左右はほぼ対称であり、「動き」は表現していない。検証する必要はあるが「動き」を表現するのは「バテレン文化」が入り始めた桃山以降(ここでは楽茶碗が最初ではないかと考えている)ではないか(といっても織部とともに消えてしまうが)と思うがどうだろうか。

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第6回 江戸期になると、織部好みの人気は衰える。代わって流行するのは、端正でゆがみのない中国風の茶器。美濃焼が桃山の古陶を再現しようとするが、良質な器は生まれなかった。太平の世と、戦乱の世では人々が求める美も変わる。そんな人心の移ろいをも伝えている一点だ。(了)

さむしろ

江戸期になって織部好みの人気が衰える、というのは正確ではないと思う。織部様式の道具が使われなくなったのは、織部の死と関係があるとみられている。織部の死(1615)とともに遠州が次のリーダーとなる。確かに遠州七窯など、いずれも端正な道具である。またはっきりしない記憶であるが、織部存命中の遠州の茶会記には織部様式と思われる道具はほとんどでてこない。織部様式を評価しなかったのか、あるいは認めたくなかったのか? また、『宗甫公お尋ね書き』に、このころ(慶長17年ころ)遠州は織部を避けるようになり、離れていったことが記されているそうだ。

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織部の死について、ORIBE研究家の久野治氏は次ぎのように書いておられる。(日経新聞03.10.20より)「和平工作が招いた死」これまで、織部切腹の理由の根拠として「徳川実記」巻三十八の記述があげられてきた。いわく、「大坂(豊臣方)に内通し」、京都を焼き払おうとしたことが露見して罪せられたと。これを元に、スパイ説、反乱説、キリスタン説、はては家康暗殺未遂説まで飛び出した。私はこうした俗説を排し「織部ハト派説」を唱えてきた。織部と家康の関係が悪くなるのは、慶長17年、二代将軍秀忠の茶道指南役として江戸へ下向するころからだ。織部はこの機会をとらえて、徳川・豊臣両者の平和的共存はできないものかと和平工作に動いた。それが、家康の意に反したのだと私はさまざまな物証から確信している。