彫刻家に学ぶ「佐藤忠良の美学の要点」(19)
マスター

彫刻家佐藤忠良についての日経新聞記事(02.09.22)から目深に帽子をかぶり、足を広げて腰掛けた女性像「帽子・夏」(72年)は、傑作との評価が高い。スラックスが八分丈ほどになっているが、これは「パンタロンのすそを切った。帽子とパンタロンの両方に焦点が分散してしまうのが嫌だった」からだ。この「帽子・夏」には、佐藤美学の要点がギッシリ詰まっている。女性の両足がハイヒールを履いたように、かかとを上げているのも意図的だという。「重心が低くなりすぎるのを防いだ。五重塔の屋根の先が、きゅっと上がっているのも同じ理屈。職人の徒弟制度で作られた昔の良いものは、作用、反作用の配分がきちんと考えられている」さらに左右対称に見えるが、実は微妙に違って作られている。「仏像と同じで、右と左が少しだけ違っているところに、何度見ても飽きない造形の秘密がある。これが職人の技。技巧ではなく技術です。芸術は『爆発だ』とは思わない。能のように爆発しない内向きの力の中で、喜び、悲しみ、怒りを伝えたい」失敗を重ねながら、コツコツと誠実に作る。「私は職人ですから」と念を押し、「受けようとしたら良い作品にはならない。自分の作品も昔の方がいい」と自戒する。

したり尾

彫刻家佐藤忠良のこの言葉には、いろいろな要素が含まれています。①焦点の分散を防ぐために作用、反作用の配分を意識したこと ②左右非対称のバランス ③これらは技巧ではなく技術であること ④芸術は爆発ではない。内向きの力の中で表現することである。
③の「技巧」と「技術」の違いは、理解が難しいところですが、個人的な思いつきによるアイデアではなく、美の法則のようなものであると受け止めてもいいのでしょうか。④は①~③までとは違って、佐藤忠良の姿勢であると理解しました。全く同じことをカナダのピアニスト グレン・グールドも次のように語っています。「芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、驚きと穏やかな心の状態を、生涯かけて築いてゆくことである」。私の分類がマスターの意図とあるいは違っているかもしれません。マスターは、佐藤忠良のこれらの言葉の中で、何に注目されたのでしょうか。

マスター

安倍備前は彫刻である、との考えにたっています。そのため「彫刻」についての記述には目がとまります。 ①「両方に焦点が分散してしまうのが嫌」→パンタロンのすそを切った ②「重心が低くなりすぎるのを防」ぐため → かかとを上げ ③「作用、反作用の配分がきちんと」 ④左右対称に見えるが・・・「右と左が少しだけ違っているところに」・・・造形の秘密があったなどの説明とともに「職人の徒弟制度で作られた昔の良いもの」、「これが職人の技」、「私は職人ですから」と職人であることを強調しておられます。①②③④は安倍さんの造形の考え方と一致していると思います。安倍さんは「職人もの」と「アーティストもの」を区別しておられます。その基準でいくと佐藤忠良さんは「アーティスト」となるでしょう。しかし、それはそれとして、職人も名人といわれる人の物作りは「理」に則っている。アーティストの傑作も又「理」に則っている。そういう意味では両者は共通している。が、しかし、やはり職人とアーティストは分けて考えるべきであると思います。おなじく芸術を「爆発」とは思いません。これについての私見はきちっとした説明はできませんが「表現」だと思います。その「表現」が伝わるかそれとも伝わらないかが秀作と駄作の違いということが言えるのではないでしょうか。忠良さんが「技巧」ではなく「技術」です、といっておられる意味がまったくわかりません。

したり尾

随分丁寧に佐藤忠良の文章をお読みになったのですね。マスターの理解に刺激を受けました。言われるとおり、この文のキーワードは「職人」という言葉です。安倍安人の焼き物が彫刻であると言い切っていいものかどうか、少々異論はあります。しかし、美術作品であることには違いありません。さて、「芸術は爆発だ」と言ったのは太陽の塔で有名な岡本太郎です。(あれは何かのコマーシャルでした)岡本と佐藤は全く同時代の作家であり、岡本は日本の抽象芸術の中で大きな足跡を残し、佐藤忠良は今もなお具象芸術の巨匠です。岡本は「自分の内側にあるものを外に向かって大胆に表現していくこと」を「爆発」という言葉で表したのでしょう。それに対して、佐藤は「内側にあるものを見つめ、掘り下げていくことこそ芸術的行為である。そしてそれを表現するには過去のさまざまな技を学ぶことが欠かせない」と言いたかったのでしょう。「過去に蓄積された技術」を学ぶことは、まさしく「職人」としての行為です。その意味で佐藤は自分自身を「職人」と規定したのだと思います。この表現の違いに、同じ時代を生きた岡本に対する佐藤の対抗意識を感じます。安倍安人があえて職人を否定するのは、現代の焼き物がこうした美術界の外側に位置し、ほとんどの陶芸家たちもそのことに疑問を持たないことに対する怒りがあるのでしょう。焼き物以外の美術の世界では「美」とは何か、どう表現すればよいか、さまざまな葛藤があり、理論があり挑戦があります。そうした美術の世界の人間である安倍から見れば、ただ過去の技にのみしがみつく陶芸界が我慢のならない存在であるに違いありません。佐藤が自身を職人と言い切ったのは、美術界に身を置いているからこそです。

マスター

「技巧」と「技術」の違いですが、技巧はその人固有のテクニックであって個性といってもいい要素を含んでいる。技術は正しく伝承すれば次代、次代と正しく伝わる普遍的なまさしく技術である、とはいえないでしょうか?

したり尾

「技巧を凝らす」という言い方はありますが、「技術を凝らす」とは言いません。また「技術的に確かなものがある」とは言いますが、「技巧的に確かなものがある」とは言いません。佐藤忠良がどのような意味で遣っているのか正確には分かりませんが、一般的には「技巧」は個別のものであり、「技術」は普遍的なものであるというニュアンスの違いはあります。ただ、一人の作家の作品にも技巧を凝らしたものもあれば、そうでないものもありますから、技巧が個性と結びつく要素を含むというと、やや言いすぎかなという気がします。

マスター

最新作(02年当時)「おおきなかぶ」制作中のアトリエの壁際にロープが結んである。反対側の壁には大きな鏡。「ひもを自分で引っ張って、鏡を見ながら体の動きを研究する。つま先を上げたり足の動きを変えたりして、もう既に何度も作り直してきたが、二人の足の運びが同じになってしまった。まだバランスが悪いかな」制作過程はこんな調子のようです。テレビでもみましたが、繰り返し繰り返し体のバランスを確かめ、限りなく自然な動きに近づけようとされていました。安倍備前の場合は鏡に写してもわかりません。例えば水指のヘラ一つを取ったらどうなるだろうか、とか、あるいは一ヘラ加えられないだろうかと何日間も眺めていて、結局見つからず諦めたことがあります。

したり尾

表現をする場合「バランス」(構成、構図)が大変重要な要素になります。我々の書く文章でさえ、何をどのように配置して書けば意図が伝わるか、少しは文章構成を考えます。作家の皆さんが、さまざまなご苦労をされていることは言うまでもありません。

マスター

その「バランス」のとり方ですが、多くの場合「こんなものだろう」という「勘」によっているのではないでしょうか? 安倍さんの造形では「力」を定量化して、加えた分だけ他から引く、という作業の積み重ねがなされているとの理解です。もちろん秤ではかるということではありませんが…。

したり尾

マスターのご質問の中の「多くの場合」は、焼き物の世界のことでしょうか。それとも美術全般の話ですか。

マスター

焼き物の世界一般の場合ですが、他の世界でもあるいは同じではないかなと思っています。ただ、そうは言っても絵画の世界についてはまったくの素人ですから、絵画はそうではないと言われれば反論はありません。小説を読んで面白かったからドラマになっても面白いとはかぎりません。例えば1時間内におさめるためあちらこちらを端折るため、本を読んだほどの感動がなかったということがあります。これもバランスの狂いといってもいいのではないでしょうか。しかし、世界々々によって妥協せざるを得ないことが多いのも事実でしょう。そこで妥協が出来る人と出来ない人がいて、その結果が異なったものなるということもあるでしょう。

したり尾

安倍安人がよく「西洋美術を学んだことのあるものなら、自分の言うことはよく理解するはずだ」と言われています。絵画の構図も配色もすべてバランスです。例えば、美術教室などで人体のデッサンをしますが、あれは基礎的なバランスを学ぶためのものです。小説も、最も大事なのは構成です。(プロットといいます)犯人探しの推理小説は、プロットなしには生まれませんでした。テレビ制作でも、構成力のない制作者は一流にはなれません。音楽の世界はさらに厳しく、クラシック音楽などは複雑で厳密な理論によって構築されていました。だから、ある作曲家は「音楽は安らぎの場ではなく、思考の場である」とまで言い切っています。つまり「表現の世界」は、すべて大変論理的な世界です。焼き物の世界だけが、どうもそこから外れている。もともと理論はあったのでしょうが、日本的な「言わず語らず」の伝え方の中で、理論が抜け落ちていったのでしょうか。

マスター

あらゆる分野で、バランスや構成に多くの注意をはらっておられることはわかりました。そうした中で出来上がった作品の内どれくらいの数の作品が、後世までその評価を受け続けることが出来るだろうか、ということですが、その点はいかがでしょう? つまり、多くの注意や労力をかけたということと、適ったということの違いですが…。焼き物は職人物であったということであろうと思っています。桃山の一時期一部作品を除いて…。