柳宗悦の「奇数の美」(20)
したり尾

「奇数の美」という表題の文章は、昭和30年に出版された柳宗悦選集 第6巻にあります。長い文章ですから、ごく一部をかいつまんでご紹介します。柳は近代の美術運動の特徴はデフォルメ(破形)への追求であり、「破形」の本質は「奇数形」であるとしたうえで、次のように述べています。「『破形』即ち『奇数形』は、別に新しい表現の道ではなく、却って一切の真実な藝術が必然に要請するのものだといってよい。ただ、その破形の美を新しく見直し、意識的にそれを強調したのが近代藝術の特色であるが、東洋ではそれよりずっと以前から、茶の湯においては『数寄』の美として厚く鑑賞せられた。(中略)それ故茶人達の愛した美の世界には大いに近代的なものがあり、むしろその先駆をなすものであって、この歴史的事実はもっと注意されてよいであろう。」なお柳は「数寄」とは「好き」の意味であるが、「奇数」を意識した書き方であるという推理も述べています。数十ページに渡る長い文の一部ですから十分には伝えられませんが、基本的には安倍さんの説と同じことです。さらに詳しくお読みになりたければ「茶と美」(講談社学術文庫)をお読みください。

さむしろ

難解ですね。以前、茶道具の取り合わせで偶数を嫌い、奇数になるように飾るものの数を加減する、という話を聞いた事があります。ただ流派によって違うかもしれません。

したり尾

「破形」という言葉や「奇数形」という言葉が理解しにくいのでしょうか。NO.641と併せて読んでいただければお分かりになると思います。「破形」について、柳は次のように説明しています。「『破形』とは定まった形を破ることで、(中略)これを『不定形』とか『不整形』とかいってもよいが、分かりやすく『奇数の美』と呼ぶことにしたい。『奇』とは(中略)『整わざる様』である。形を不均斉、不整備のままにすることで、要するに『破形』は『不均等』asymmetryと相通じる。」つまり「ゆがみ」です。柳はこの「ゆがみの美」を「奇数の美」と理解したのです。柳の話は、やがて茶器にも及び、次のようにも記しています。「近世西洋で破形(デフォーメーション)の美が意識的に考えられ、近代美術はほとんどすべて何らかの破形を求めるが、実に『茶美』は四百年も前にこの破形の美を求めていたのである。」
いかがでしょうか。安倍安人のお考えと基本的には同じことだと思いませんか。

さむしろ

「破形」あるいは「奇数形」の意味が「ゆがみ」と同様の意味であれば、安倍安人の三点展開の理論とは異なるのではないかと思います。確かに安倍備前はゆがんで見えるとも言えますが、「ゆがみ」ということは安倍安人の本意ではないように思います。つまり、ゆがんで見えるということと、ゆがめたということは違うわけで、安倍安人の造形は「ゆがめる」ための造形ではないと理解しています。いずれにしても本人に聞くのが一番かと思います。

したり尾

失礼しました。柳の文を読んで私がすぐに感じたのは、安倍さんの常々言われていた桃山茶陶には、一定の論理があるという点です。それを安倍さんは三点展開と言い、柳は奇数と言っていますので、ある共通点を感じましたので。ゆがみにはゆがみの理論がある、それを三点展開であると安倍さんは言われる、ゆがめ、削ったことによって始めて面ができる。それが桃山茶陶の特色である。私は今まで、そう思っていました。また、安倍備前は安倍備前であり、桃山茶陶は桃山茶陶であるとも思っていました。ただ、桃山茶陶のついての安倍さんの見解が柳のそれと同質であると認識したのです。しかし、それは基本的に大間違いであるということですね。すると、柳も基本の認識が違っているということですか。どうやら私の認識が甘いようですね。なお、ヨーロッパの近代美術もデフォルメすることを目的にしてはいないことは、申し添えておきます。それにしても、浅薄な知識を振り回してお恥ずかしい。

さむしろ

柳は「数」としての「奇数」と「形」としての「破形=奇数(形)」をごっちゃにして理解したのではないでしょうか。茶の湯において、数としての奇数は、わたしも認識していますし、多分安倍さんも認められるでしょう。柳のいう「破形」について、安倍さんに尋ねれば、多分柳は「くずれた」との理解だろう(三点展開ということは理解していないだろう)、とおっしゃるのではないでしょうか。これはまったくの想像ですが、柳は、破形をいやらしい作意とみて評価をせず、李朝壺や李朝秋草文のような民芸にその美を求めていったのではないかと思うんです。いずれにしても、したり尾さんの提言は極めて重要で、又だれもが陥りやすいところだと思います。もちろんわたしの理解が正しければですが。そしてこの部分が整理されれば、桃山織部様式茶陶の本当の評価が定まるといってもいいのではないかと思います。