矢筈の謎(21)
さむしろ

以前話題に出ました「矢筈」ですが、茶の湯の釜に姥口(うばぐち)というのがあります。筒形の釜もあります。これらをベースに造形をすれば矢筈水指ができます。還付が耳になります。蓋も一緒に焼けばいいでしょう。見本にふさわしい釜は1500年代前半にはすでに存在していたようです。人体美の造形理論との出会いには長い年月を要したのでしょうが、二つを結びつけることは一瞬であったのではないかと想像します。

したり尾

「矢筈」の話は興味を持ちました。これは、説得力があるご意見です。

さむしろ

矢筈の話は面白いでしょう。「釜が矢筈のモデル」論は多分これまでにでていないだろうと思います。モデルと成りうる釜の写真を、近日中にものはら別室に載せていただくよう写真を準備してお願いしましょう。

したり尾

「矢筈」の話は、さむさしろさんの説明が一番合理的です。すぐに納得しました。考えてみれば、中国での焼き物の原型も、鉄器や青銅器でした。釜は、どうしても蓋をしなければなりませんしね。とすると、「矢筈」の花入も水指ですか。あり得るな。

さむしろ

茶会記に1587年に「備前物ノ新キ花瓶」を用意したとの記述があります。織部は1599年より備前水指をしきりに用いた、とありまた、「備前筒花入」を使った記録がある。1601年の茶会記に「備前三角花入」の記述。茶会記をじっくりみていけば、水指が先か花入が先かもわかるのではないでしょうか。矢筈水指より矢筈花入が先では困りますが…。備前桶形水指の名品「破桶」は木桶を模しています。1587年に利休が秀吉を迎えた茶会で「ヤフレ桶水指」を使ったという記録があるようです。もしそれが「破桶」であれば、その当時すでに相当な技巧をそなえていたことになりそうです。

したり尾

花入は、こんなに大きいものだったのかと驚いた記憶があります。あれは、水指の転用であれば納得がいきます。「矢筈花入」が水指より先にあったとは、想像できません。破桶は、もちろん原型が木桶であったことは、容易に分かります。あの時代、何でも試してみたのだなとつくづく思います。発想の問題ですね。

さむしろ

たしかにびっくりするほど大きいですね。水指を脇に置くときに使う細水指というのがありますが、いつ頃からあるのかは解かりません。ただ花入を水指の転用と考えた場合掛け花用のカンをつける穴の説明ができませんので、一部転用があったかもしれませんが、最初から花入として作られたのではないでしょうか。水指ができて、それを参考に花入ができたと考えたいですね。破桶の件ですが、全てのものといっては語弊があるかもしれませんがほとんどのものにモデルがあるということで、矢筈にもモデルがあったと考えたいということです。袱紗さばきもキリスト教の作法のなかから採り入れたとの話がありますし、矢筈がまったくの創作だったということのほうが考えにくいように思います。

したり尾

花入のカンの穴は、初めのうちは、後からあけたのかなと思っていました。「矢筈のモデル」というのは、矢筈口のモデルという意味ですか。もうひとつ、前々から気になっていましたが、袱紗の使い方のモデルといわれるカソリックの儀式とは、具体的にどんなものでしょうか。私もその話をどこかで耳にしたことがあって、それ以来、カソリックの宗教儀式に参加する機会があるたびに、よくよく目を凝らして見ているのですが、それらしき事は、今のところ何も起こりませんので。

さむしろ

矢筈(部分)は釜の姥口がモデルではないかとの仮説です。ただ「うばぐち」ではさえないので「やはず」と呼んだのではないかと…。蓋を考えた場合に随分と都合がよいのではないでしょうか。胴体部分は釜であるか、野菜であるか、その他の器物かを変化させたものが考えられます。袱紗の扱いは、茶入、棗、茶杓を扱うとき、釜の蓋をとるときなどに用います。茶入をきよめる(拭く?)前に袱紗をあらためる作法がありますので、そこらに共通する扱いがあるかもしれませんが、よくはわかりません。

したり尾

「矢筈口」は、さむしろさんのおっしゃることで、間違いないでしょう。いずれ写真も見せていただけるのを楽しみにしています。袱紗については、お茶の使い方は理解できるのですが、カソリックでそのようなものを使うのかどうか、分かりません。いずれ、カソリック関係者を探し出して聞いてみましょう。

マスター

今日、牛窓のアトリエを訪ねました。ちょうど関西在住のIさんも遊びにきておられました。30年程前の絵と近作の水指を並べて見て、水指の造形のみでなく総合的なアート性を強く感じました。波乱の05年も終わりに近づくと同時に06年の新企画に向けて準備が始まっているようでした。06年にどのような作品が送り出されてくるか楽しみにしたいと思います。

さむしろ

ものはら別室に釜の写真が載りました。想像力を膨らませて見てみて下さい。

したり尾

ことに「四方面取羽釜」辺りは、そのままでも水指になりそうですね。さむしろさんの説は、まず間違いないでしょう。マスターが安倍さんのお宅に行かれたとの事、うらやましい限りです。安倍さんは、何といっても焼き物を芸術まで高めていったことが最大の功績でしょう。

さむしろ

ヒントを与えた者がいるはずで、その者はだれか? ひらめいた者がいるはずで、その者はだれか? 作った者がいるはずで、その者はだれか?

したり尾

さてね、そうなると難しい。大体、釜から水指へという変遷そのものを殆どの人は理解しないでしょうしね。和物の水指の第一号は一体なんですかね。昔は水指は南蛮物の壷を見立てたのでしょう、確か。さむしろさんのお説に従えば、「矢筈口」は純粋国産品ということになりますね。水指だけでなく、花入も含めて「矢筈」の古いものを探すことが必要でしょうね。

さむしろ

和物第一号ですか。古い茶会記からどのようなものが使われていたかを調べるのが良いのですが、ふさわしい資料を持ち合わせません。茶碗だけ抽出したもの、花入だけ抽出したものは入手しました。水指は探しているのですがありません。信楽の鬼桶を用いたのは結構最初のほうに近いのではないでしょうか? 「釜がお手本」説の場合、耳の説明もしやすいのではないでしょうか?

したり尾

花入の中で「矢筈口」のものは、何時ぐらいですか。それが分かれば、水指は、それ以前であったという見当がつきますから。

さむしろ

NO734に『茶会記に1587年に「備前物ノ新キ花瓶」を用意したとの記述があります。織部は1599年より備前水指をしきりに用いた、とありまた、「備前筒花入」を使った記録がある。1601年の茶会記に「備前三角花入」の記述。』と書きましたが、「矢筈」の語は今のところ記憶がありません。「新しき花瓶」とある花瓶について。通常花入には花を生けて茶室に掛け、または置くのですが、花は生けずにおき、その日の主客に生けて貰うことがあります。その場合に用意しておくのを「花瓶」と呼ぶようです。従って、ものとしては花瓶も花入です。1601年使用の備前三角花入は矢筈ではないでしょうか?

したり尾

・・・か、どうか。なにか証拠のようなものがほしいところですね。でも、段々いいところに近づいているのかもしれません。

さむしろ

証拠とはなりませんが…。備前筒花入、銘「北向」というのがあります。一重口になっています。解説では「すなおな筒形の掛花入。備前では珍しい作例である。」となっています。一重口は少なかったと読んでもいいのではないでしょうか? 一重口花入は図録でもほとんど見ません。箱には利休所持とあり、利休の師である北向道陳所持のものが利休に伝来したと考えられているようです。

したり尾

この話は、どうやら年を越しそうですね。さむしろさんは、一重口と矢筈口の関係を、どのように捉えていらっしゃるのでしょうか。

マスター

あけましておめでとうございます。安人造備前茶碗で薄茶をいただきながら新年を迎えました。楽と織部様式の同根論を論じていますが、より説得力をもたすためにも、安倍さんに楽茶碗を作っていただくというのが今年の初夢です。本年もよろしくお願い致します。

したり尾

おめでとうございます。皆様、今年もいろいろご迷惑をおかけすることになると思いますが、よろしくご指導ください。伏してお願い申し上げます。安倍安人に「楽」を制作していただくとの夢、誠に結構ですね。叶うことを祈ります。

さむしろ

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。安人作の楽茶碗を見たことがありますが、楽への考えを一変させるほど強烈でした。造形はほとんど施されていませんでしたが大変魅力的でした。現在の造形を加えればと想像しただけでワクワクします。一重口と矢筈口ですが、まず最初に(茶の湯に)備前物を用いたのは雑器の中からのとりあげであったであろうと思います。それが一重口の水指(あるいは花入)です。ただ一重口には後に水指として作られたものもありますのでそれとは区分します。それに対し矢筈は最初から茶陶として作られたと考えています。矢筈については意外な見解がありましたので後ほど紹介します。

さむしろ

桂又三郎氏の著書に「室町末期の末ごろから、桃山にかけて矢筈口の水指が焼かれている。この矢筈口は旅枕花入からヒントを得たものであろう。従来古田織部の創意であるといわれていたが、実物はもっと古く、重美に指定されている弘治年銘の備前焼旅枕花入も矢筈口になっている。」との記載がありました。弘治年銘の備前焼旅枕花入の写真がないのではっきりとしたことはわかりません。同書に「たらいの水指、利休所持、(略)古備前、ふちのあつき物、(略)」とあり、はたして矢筈のヒントとなったのかそれとも口辺があつい物は結構あったということなのかわかりません。強度を考えればあついほうが普通とも言えます。

したり尾

桂氏のいう「旅枕」がどんなものか想像がつかないので、コメントはできません。どこにあるのでしょう。素直に考えれば、蓋をするという目的から「矢筈」はできてきたはずです。水指のほうが先にあったと思えます。また、何も備前が初めであったかどうかも分かりませんから、信楽や伊賀、瀬戸などからも探した方がいいかもしれません。写真は参考にはなりますが、結局一面しか分かりませんし勝手なイメージを描きがちですから、できれば実物で確認したいところです。結局今のところ、私には、さむしろさんの釜からの発想という説が、一番理解しやすいのです。

さむしろ

桂氏のいう旅枕は調べればわかると思います。蓋をするとの考えも同感です。備前以外のものとのお話はもっともです。そこで茶会記から花入を調べてみました。1567 備前物、1578 備前物、備前筒、1579 備前筒、備前角、 1580 備前物之つち、1581 備前物、1584 備前筒、1586 土の花生、1587 備前筒、備前物、土の花生、備前、備前物の新しき花瓶、備前物、1588 信楽筒(織田有楽)、備前ツツ、1590 備前筒、信楽ノツツ(千少庵)、土花生、1592 土花生、シカラキ筒、1593 土ノ花生・備前物カ、備前、1594 信楽ツツ、1599 信楽ツツ、同、備前ツツ、同、信楽ツツ、1601,02,03,04 備前筒、1606 備前、信楽筒、備前筒、1607 信楽筒、 (略) 1638 古伊賀焼、 限られた範囲ですが(一応著明な会記です)圧倒的に備前です。伊賀は1638まで出てきませんでした。以外です。

さむしろ

NO756を一部否定することになりますが、次のような記述もありました。NO756の資料を掲載した同じ本の解説中にありますが、「生爪の花入とまったく同形の花入が伝世しており、その作品の背面には利休の判が漆書されている。(略)、伊賀花入のなかに利休の好んだ作品が含まれていることを明らかとする作品であり、また作為が強く、歪みのあるやきものはすべて利休歿後、古田織部の好みの如くされている傾向をこの花入は修正してくれる。利休の判だとう漆書が真正なものであれば大きな意味があります。茶会記の調査をもっと広げそして深めることが出来ればまだまだいろんなことが見えてきます。

したり尾

よく調べてくださいました。どこで制作されていたかは別にして、備前よりも、信楽や美濃、瀬戸の土のほうが当時の権力者のテリトリーの範囲内ですから、いろいろなものが制作された可能性が高いと踏んでいます。もうひとつお願いがあります。花入もいいのですが、むしろ水指を調べたほうがいいのではありませんか。どうしても、「矢筈」は、花入よりも水指が先にあったという考えを捨てることができないのです。なお、私の知っている限り、信楽の水指「三夕」(中興名物)がごく初期の矢筈口(16世紀末)で、その後は志野の「古岸」(重文)と続き、備前や伊賀は17世紀に入ってからとなっています。かなりいい加減な調べですが。

さむしろ

茶会記への水指の登場記録は以前から探していました。掲載の本の存在がわかりましたので出版社へ連絡をとりましたが、在庫はありませんでした。最近、図書館の蔵書検索をしたところ京都の図書館にあることがわかりましたので、入手の算段をしているところです。

したり尾

分かりました。少し気長に待ちましょう。別室を何回も眺めていますが、眺めれば眺めるだけ、さむしろさんの説は正しいと思えてなりません。いつか実物を拝見したいものです。

さむしろ

信楽「三夕」は今のところ確認できません。志野「古岸」は図録にありましたのでみました。水指について、早く会記を確かめたいのですが…。

したり尾

「三夕」は「古岸」と、ほとんど同じような形をしています。違いは「三夕」は共蓋であるという点ぐらいです。

さむしろ

なるほど。図録の解説をみますと、古岸の口まわりに蓋の置跡が残っているので共蓋だったのではとの記述がありました。矢筈は共蓋でないとまずいですね。NO756の茶会記中に利休が亭主となったものが18回ありますが、その中に楽茶碗以外には織部様式の茶陶らしきものが出てこないので不思議に思っていました。NO757が正しいとすれば、利休は伊賀花入(生爪と同形)を持っていたことになり、仮説の空白部分をうめてくれそうな予感がします。とりあえず、利休時代に織部様式茶陶が存在したこと。利休と織部様式茶陶になんらかのかかわりがある可能性があること。

したり尾

「生爪」と同形の利休のケラ判入りの花入の件、花押は後世の施入である可能性ありとの説もあります。そうしたことは桃山以降、風習としてしばしば行われていたということです。(「花入」(茶道具の世界9)責任編集 矢部良明 淡交社発行)あれは確かどなたか個人がお持ちのもので、博物館所有のものと違って調査はなかなか難しいでしょう。どちらが正しいか事実は分かりません。ところで「織部様式」という言葉は、いつごろ、どなたが言い出した言葉でしょうか。私は、安倍安人さんと出川直樹さんの書き物以外に、あまり見たことがないのですが。この疑問は、さむしろさんの「利休は茶碗以外に織部様式のものを所有していないのはなぜか」という疑問と少々かかわりがあるもので。

さむしろ

「生爪」同形花入の利休の書付が後世のものとの説ですが、大いにありうることだと思います。資料として茶会記の重みが増してくるように思います。「織部様式」なる語がいつから言われているかわかりませんが、安倍安人さんが言い始めたとの話を聞いたような記憶がかすかにあります。根拠となるものはありません。

したり尾

やはり「茶会記」を待つしかないようですね。「織部様式」の話です。利休の時代には、長次郎以外に「織部様式」を作る作家がいなかった。長次郎こそ織部様式の生みの親であって、利休没後、古田織部の時代になり、その様式を発展させる作家が何人か生まれてきたと私は推測しています。おそらく「織部様式」と命名された方も、そう意識したのではないだろうかと思っています。しかし、この推測も「茶会記」を待たなければ正しいものか間違ったものか、結論は出ません。また、現存する「茶会記」に残っていなくとも、利休が織部様式の花入なり、水指なりを持っていなかったとも言い切れるものではありません。既に失われた茶会記も多々あるでしょうから。

さむしろ

したり尾さんの、長次郎こそ織部様式の生みの親との説については多少異論がありまして、わたしは長次郎に焼かせた指導者がいたとの想像をしています。これは以前にも少し論争をしていますので、新たな材料がはいったときにやりましょう。茶会記の記録中利休が亭主というのが18回というのは、全茶会数からみると極めて少ないというべきだろうと思います。しかし全体をみると傾向は現れていると考えていいと思います。したり尾さんのおっしゃるように茶会記にも失われたものも多いと思いますが、未公開のもの、未発見のものもまた多数あるのではないかと期待しています。

したり尾

前々から18回の茶会というのは、不自然だと思っていました。利休の手紙でも忙しくてたまらないとこぼしていた内容があったような記憶もありますので。ともかく、水指の記述のある茶会記がさむしろさんのお手元に入れば、少しは分かってくる可能性があると期待しています。長次郎論については、考え方がまとまりつつあります。しかし、少なくとも「矢筈口」の謎をある程度解くまでは、さむしろさんのおっしゃるとおり、やめておきましょう。そうでないと中途半端になってしまいますから。

さむしろ

茶会記は、松屋会記、天王寺屋会記、宗湛日記、今井宗久茶湯書抜等々の18冊の茶会記から書き出したものです。利休の18回というのも、茶会記の作成者が利休の茶会に招かれたときの記録をしたものであって、残念ながら利休の自らの茶会記ではありません。

したり尾

そうでした。利休の手紙も戦後になってから発見された真筆がいくつかありますから、茶会記も出てくる可能性はありますね。気長に、網を張っていることが必要でしょう。茶釜も同じように、まだ、どこかの道具屋の隅に、矢筈の原型と思われるような面白いものが転がっている可能性はありますかね。

さむしろ

招かれた茶会が多数入っていますので、正確ではありませんが18冊といっても亭主の数は200を超える人々です。結構広い範囲のデータといえるかもしれません。モデルの釜ですが、これはほとんどといっていいくらい転がってはないでしょう。転がっていれば大掘り出しです。姥口の着想だけで必要十分であったのかもしれません。

したり尾

利休主催の茶会だから意味があると思うのですが、そうでなくとも何か分かるのですか。茶釜は、そうかもしれませんね。

さむしろ

利休が、あるいは織部が催した茶会記があれば最も望ましいのですが、それが望めませんので、ではなにがよいかといったときに、数人の茶人の記録より多数の茶人の記録のほうが、傾向はでやすいのではとの考えです。

したり尾

確かにある時代の茶会の傾向は分かるでしょうね。流行の品々も分かるでしょうし。あまり先入観は持たないでおきましょう。

さむしろ

弘治三年銘の備前焼旅枕花入の写真がありましたので「ものはら別室」に載せてもらうようにお願いしました。「年」のほかに「備州大瀧山中道院 常住物」と彫りこまれているようです。矢筈というよりも口縁を丈夫にするためのものと考えたいと思います。ヘラ目もあります。また、「南蛮耳付水指」も掲載してもらいます。共蓋となっています。16-17世紀とありますが、製作年代、伝来時期は未詳ともなっています。昨年愛知県陶磁資料館で開催された「桃山陶の華麗な世界」展の図録掲載のものです。年代は若干下るとの印象をもっています。

したり尾

見つかりましたか。では写真を待ちましょう。

したり尾

「別室」の旅枕、拝見しました。解説の文にあるとおり、これが「矢筈」の始まりだとは言えませんね。水指も「矢筈口」とはかかわりがなさそうです。となると、次は茶会記ということになりますが、今までのところは、「矢筈」は茶釜からの影響の線が、もっとも説得力のある説でしょう。

さむしろ

したり尾さんもそう思われますか。次は会記を急ぐようにします。

したり尾

それにしても桂氏はあの「旅枕」のどこを矢筈口と見たのでしょう。妙に気になりだしました。しかし、それとは別にいかにも利休好みの花入ではありますね。

さむしろ

われわれが言っている矢筈は、名品の水指や花入にある折り返して中が空洞になったあの矢筈をいっていますが、桂さんが言う弘治年銘の旅枕花入は、内側にV字形に縁がとってあるようにみえます。断面の形から言えばこちらのほうが「矢筈」に近いのかもしれません。桂さんが、織部様式を職人の手が長じて出来上がったもの、職人技の延長上のものと考えておられたのであれば、矢筈の原形と考えられるのも無理からぬことかなと思いました。この花入は、先に書いたようにお寺の常住ものであった(茶道具ではなかった)と思われますので、利休も織部も出会う事はなかったであろうと思われます。しかしそれはそれとして旅枕花入はたしかに魅力的な花入です。

したり尾

もし「旅枕」の口が内側に折れているのであれば、口を内側に折るという発想においては、「矢筈口」のスタートのひとつになりうるかもしれません。もっとも「旅枕」の制作年代の確定は必要ですが。しかし、口全体の姿は茶釜の「姥口」からと見るのが素直だろうと思います。実際に見てみないと分かりませんが、この「旅枕」は作家ものですね。

さむしろ

弘治3年は1557年です。写真で見る限り矢筈は折り返したというより、押しつぶしながら内側へつまみ出したという感じですね。常滑の古いものには外側に折り返して口造りをしたものがあります。昔から口部を丈夫にしておくという発想はあったようですから、今のところその流れのものと考えたいですね。

したり尾

「年代確定をする必要がある」と書いたのは、弘冶3年という年が、本当に正しい制作年代といえるのかという意味です。利休の朱書きそのものが、後に書かれた可能性もあるということでしたので。口を丈夫にする工夫は昔からあったというお話は納得しました。すると、ますます、この「旅枕」は矢筈とはあまり関係のないものだということですね。

さむしろ

なるほど。ただ弘治3年というのは花入そのものに彫りこんであるようですから信憑性は高いのではないでしょうか。少なくとも弘治2年、3年以前ということは無いでしょう。お寺への寄進ということであればほぼ間違いないと思いますが、弘治3年の寄進目録にのっとって4年あるいは5年に焼き上げて寄進したということはなくはないかもしれません。

したり尾

彫り込みなら、前後少々の違いはあっても間違いはないでしょう。

さむしろ

少し大きめであるとどこかに書いてあったように思います。それで茶陶ではないとの印象です。制作当時に時代を変えるようなものではないような気がします。やはり時代はあっているということでいいんでしょう。

したり尾

曖昧な記憶で申し訳ないのですが、確か利休の竹花入も実物は想像以上に大きかったように思いました。例の「旅枕」は、どの程度の大きさなのか知りたいですね。また、何かの転用であるならば、何からの転用なのでしょうか。写真で見る限り転用であるようには思えないのです。実物を見ないと確信は持てませんが。

さむしろ

大きさは気をつけていればそのうちにわかるでしょう。太郎庵、三角花入が25~26㎝ですから、それらを基準にして大きいとの理解をしています。お寺で仏さまに花を生けて供えたのではないかとの想像をしています。そうであれば一対であったという可能性もあります。

したり尾

仏像に対する花入にしては、やや粗末というか、芸術的過ぎるというか、そぐわない感じがします。土もので、仏具は相当珍しいでしょう。初めから茶席の花入という気がしますがね。

さむしろ

どういう使い方をしたのかわかりませんが、茶道具に「弘治三年 備州大瀧山中道院 常住物」などと彫りこむでしょうか? 品のある彫りではありません。ただ釜には常住の旨の文字が鋳込んであるものがあったような記憶がありますので全否定はできませんが。茶会記には1567年備前物花入、1578年備前物花入、備前筒が出てきます。弘治3年1557年に花入を作ったでしょうか?

したり尾

そう言われてみるとそうですね。姿といい箆使いといい、写真で見る限りなかなかの代物だと思われましたので、茶道具ではないかなと想像したのです。しかし、写真にはしばしば騙されてきました。それに本題は「矢筈の謎」でしたものね。この花入にあまり深入りしないほうがよさそうです。

さむしろ

矢筈が本題ですが、当時(1500年代後半)はどのような水指を使っていたのでしょうか?「山上宗二記」(天正16年、1588年)の名物水指の項に、紹鴎芋頭、紹鴎信楽、信楽鬼桶、宗及芋頭とあり、他のものにせいかい(備前)、肥前いもかしら(備前の間違いか?)、破桶、たらい(備前か?)などの記載があります。これらは南蛮、信楽、備前ですから他は胡銅とかでしょうか? 思い浮びません。早く茶会記を確かめたい。

したり尾

夏は木の曲げ物などがありますね。焼き物の関係では、殆どが「芋頭型」です。いずれにせよ、芋頭や桶では「矢筈口」になりようはずがないので、さむしろさんのおっしゃるとおり、是非是非、この先の調べがほしいですね。