モーツァルトと脳の安らぎ(23)
さむしろ

大変失礼しました。今モーツァルトが静かなブームだそうで、そのモーツァルトの誕生日が昨日だったそうですね。先日、モーツァルトの曲が単に有名なだけであるということでなく、確かに人に安らぎを与えているということを脳波を調べることによって実証していました。ベートーベンを聞いた場合と比較しながらでした。ノーベル賞学者の小柴教授は大変なモーツァルトファンだそうですが、その教授が「モーツァルトは曲を聞かせるだけで世界の誰に対してでも心の安らぎを与えるのだから凄いことだ。私の科学ではとても真似のできないことである」といったことを話しておられました。そこで安人ですが、安倍さんの水指と茶入を別々の機会にですが、半年間かそれ以上の間座右において朝晩眺めていたことがあります。妙に落ち着くというか、違和感がないというか飽きがきませんでした。モーツァルトの話を聞いてこのことを思い出しました。

したり尾

モーツアルトは確かに非常に稀な天才といっていいでしょう。去年の暮れ、残されたモーツアルトの手紙を読みました。実生活は一生お金の苦労ばかりで、悲惨な生活です。しかし、そうしたことと彼の作る音楽は全く関係がないのです。人生のどんな苦労も、彼の音楽に影響を与えませんでした。肉親の死のときも作った曲は実に明るいのです。亡くなる直前まで作っていた未完のレクイエムでさえ、明るく力強いものでした。殆どの人たちはそれなりに人生の軌跡がその作品に現れるものですが、モーツアルトにはそれが見えません。天才とはこういう人間をいうのだと思いました。しかし、モーツアルトの曲が誰にでも安らぎを与えるという小柴教授の言い方には少々抵抗があります。誰にでも安らぎを与えるものでもありません。モーツアルトが嫌いな演奏家は山のようにいます。脳波にアルファ波が現れるという研究も、牛にモーツアルトを聞かせると乳の出がよくなるという話も、素直に信じることはできません。ベートーベンとモーツアルトと比較するから、そのような結果が現れるのであって、おそらくモーツアルトとハイドンと比較すれば結果は似たようなものになるはずです。なお、私自身は、モーツアルトも安倍安人さんの作品も大好きです。しかし、それは小柴さんのいう安らぎとは少し違うものです。

さむしろ

そうですか、モーツァルトも貧乏だったのですか。それは面白い話です。確かにだれもと言えばおっしゃるとおりで、例えば安倍安人と聞いただけで反発する人がわたしのまわりににもいます。先の書き込みの表現は必ずしも正確ではありませんが、ただ、わたしは、某番組でのコメントを別段の違和感なく聞き入れました。

したり尾

実はその番組は私も見ています。多分モーツアルトであればすべてよしとする傾向に抵抗を覚えるのは、私の人生の大半をモーツアルトを聴きながら過ごしてきたせいでしょう。面白いのはモーツアルトは嫌いだとか、苦手だとかいう演奏家のほうが、かえってモーツアルトの曲の本質を突くような、いい演奏をすることもあることです。私は、長く聞いてきた割にはモーツアルトにそれほど詳しくはないのですが、何でもかんでも盲目的によしとすることは、どこか間違っているとは思います。安倍安人の場合も、安倍安人だから好きとか、安倍安人だから嫌いと決め付けてしまうことには、やはり少々抵抗があります。ひとつひとつ作品を観察し、いろいろな側面から、いつも捉えなおし続ける作業が必要なのだと思っています。

さむしろ

「モーツァルトであればすべてよし」と聞かれましたか。わたしはそうは受け取りませんでした。

したり尾

この話は、あまり深く突っ込みたくはないのですが・・・。あのような実験というのは、一見科学的に見えるのですが、条件さえ変えればまったく別の結論を導き出すことも可能です。テレビ的ではありますが際どい演出です。そこへノーベル賞の小柴教授の発言をはめると、その際どい実験さえも、正しい結論であるかのような印象を視聴者に与え危険です。遊びの一種とみなせば、許される類でしょう。まさか「ものはら」でモーツアルト談議をすることになるとは思ってもみませんでした。

さむしろ

したり尾さんがモーツァルトに一家言お持ちとは知りませんでした。しかし、そこまで難しく考えるほどのことではないように思いましたが・・・。確かにマスメディアに大きな弊害もあることはわかりますが、そのことはほとんどの人が気付いていて、個々の基準で割り引いてみていると思います。しかしうっかりということもありますので、一歩引いてみる癖をつけるように気をつけましょう。砂漠のような乾燥地では乾燥地にあった植物が育ち、湿地帯では湿地帯にあった植物が育つように、モーツァルトからはモーツァルトらしい曲が生まれてくる、といった程度の話です。また、野球では3割打てば一流の仲間入りです。7割の凡打をもってダメの烙印を押すことはしません。そんな視点でもよいのではないでしょうか?

したり尾

一家言あるというほどでもないのですがね。ただ何となく、長い間モーツアルトも聴いてきたという程度です。モーツアルトは3割打者というレベルではありません。10代に作曲した曲も亡くなる直前に作った曲も、同じように誰も届かない高い曲でした。永遠の神童というところでしょうか。これは音楽好きの人たちが皆そう語っていることです。でも、彼の生きていた頃は、人々にとって、そんなことはどうでもいいことでした。一時期、大いに持て囃されて流行作家になったのですが、そのうち飽きられて、亡くなってから、人々はようやくモーツアルトを惜しんだという程度だったのですよ。お葬式には誰も出席しなかったので、今もお墓の正確な場所が分かっていません。作家の価値とは何ですかね。・・・というより、人の一生とは何でしょうか。それにしても、普段、メディアには少々問題があると感じていたもので、やや熱くなりました。大人気ない。

したり尾

朝になって、さむしろさんの言われる意味がようやく理解できました。817の私の書き込みの一部が誤解を与えました。「モーツアルトであればすべてよしとする傾向には抵抗がある」という私の書き込みは、確かに「モーツアルトにも、いい曲と悪い曲がある」という意味に理解できますね。そう表現したかったのではありませんでした。なにかモーツアルトの曲が精神安定剤のような効果があるという趣旨の一部の本や番組の表現に強い反発を感じると表現したかったのです。書き方が違っていたなと思います。すみません。その他、申し上げたいことは821に書き込んでいるとおりです。

さむしろ

なるほど、おっしゃりたいことが理解できました。メディアについての思いについては、わたしも似たような感想をもっています。ただ、三流だ害悪だと思っていても今回の外務省による上海領事館員の自殺隠蔽を明らかにしたようなスクープもありますので完全否定はできません。読者、視聴者が賢くならなければしようがないんでしょうね。これからは名誉毀損訴訟が増えると予想していますので、メディアも自制するのではないかとの淡い期待もあります。

したり尾

政治向きの話は、やめておきませんか。メディア論も、あまり深くは突っ込まないことにして、それでもひと言だけ。新聞にしろ、テレビにしろ、雑誌にしろ、読んだり見たりしながら、もっと深く社会の動きを知る方法。 ①なぜ、「昨日」ではなく「明日」でもなく「今日」そのことをニュースにするのか。 ②「何を伝えているのか」ではなく、「何を伝えていないのか」考えてみること。 この2点を絶えず意識しながらメディアに接すると、大分世の中が分かってきますよ。例えば、昨日まで大ニュースだったものが、いつの間にかどこにも載らなくなってしまうことがあるでしょう。必ず、理由がありますよ。その辺りに案外、興味深い世の中の仕組みが潜んでいることもあります。

さむしろ

異議なし。ご意見、今後参考にします。