志野の発生年代が大幅に修正(25)
さむしろ

一昨年頃でしたが、「安倍さんの理論(三点展開)を本に書いた人がいる」という話を聞き(書名はわからない)、それらしき本をインターネットでさがしました。「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」というのがあり、ひょっとしたらと注文しました。しかし、現在準備中でいつになるかわからない、ということでした。

さむしろ

先日、たまたまインターネット検索でヒットし、近くの書店にありましたので買い求めました。「志野の発生年代が大幅に修正された。」といった記述がありました。

さむしろ

こんな記述です。「志野の始まりを慶長3年以降とし、さらに志野の茶碗や水指などと並ぶ他の茶陶類についても流行する時期を慶長年間(1596-1615)の初め頃からと認識するようになった。すなわち天正から慶長という比較的長い期間で考えられてきた桃山陶の流行が慶長年間という短期間に凝縮されたのである。」

したり尾

この記述の根拠は何ですか。そして著者はどなたでしょうか。もしこの記述にあることが正しいとすると、それによってどのような影響が出てくるのでしょうか。

さむしろ

数人の方が書いておられます。1586年の「宗易形茶碗」の登場からおよそ10年が経ってからの登場ということになります。

したり尾

慶長3年は確か秀吉の亡くなった年ですね。そしてまもなく古田織部の時代になろうという年でもあります。志野焼は織部陶と明らかに近い関係にありますから、この記述の意味するところは間違ってはいないだろうと思います。ただ私が気になるのは、なぜ、慶長3年以降と言い切れるのかという点です。

さむしろ

手元の資料でも、慶長3年が秀吉の没年となっています。「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」には、そのきっかけとなったのは、大坂城の遺跡調査で、慶長2年(1597)以前の層から志野が出土していないという調査結果が発表されたことで、その後考古学者の間で志野の発生年代が大幅に修正された。という記述があります。

したり尾

考古学的検証がなされているのはかなり有力な決め手になりますね。やはり志野は、土や釉薬こそ違え、作陶の精神は織部焼と同質のものであるということでしょうか。私は初めからそうに決まっていると思っているのですが、観れば分かるとしか言いようがなくて困っていました。

さむしろ

志野の出現が遅れるということについてですが、このものはらでも「志野水指、伊賀水指が茶会記にほとんどでてこない」(NO863)と指摘しています。NO756も参照。