時代の個性と規範(26)
したり尾

時代の個性というものがあります。利休のどちらかというと内に力を秘める生き方と、織部の力を外に向かって誇示していく生き方と。勿論、基本的な思想は同じことなのでしょうが、精神のあり方が違うわけで、それは形に表れてきます。志野も瀬戸黒も黒織部も織部のあり方を反映しているものであることは、今回のさむしろさんの発見された著作からも明らかです。その流れは19世紀末のヨーロッパ絵画のあり方とよく似ています。利休から織部への流れはヨーロッパでのセザンヌからピカソへの流れと同質のものであるといっていいでしょう。ただ、日本とヨーロッパの決定的な違いは、ヨーロッパでは、その流れは一気に抽象へと進んでいきましたが、日本ではそういう進み方はしなかったということです。日本では、不幸なことにこの一連の芸術運動があまりにも早く、時代が追いついていかなかったということでしょう。

さむしろ

セザンヌからピカソへの流れがわかりません。(絵画オンチのため)抑制のきいた楽茶碗「俊寛」的表現から大胆に表現した「峯紅葉」への流れ、ちょいミニ(スカート)から大胆ミニへの流れと同じような意味で理解していいでしょうか?

さむしろ

つまり理論は同じだがその現し方が一方はほとんど気付かない程度、他方は極めて大胆といった意味ですが。

したり尾

NO.1023の方が私の申し上げたいことに近いですね。利休が川上にあり、川下に織部がいる。同じ河ではあるけれど上流と中流では流れ方も変わります。さらに海に近くなれば、もっと流れは大きく姿を変えるはずでした。しかし、どうもそうはいかなかったと申し上げたかったのです。しかし、この話は今回のテーマの本筋ではありませんね。このたび、さむしろさんが見つけられた著作によって、織部時代の焼き物が明確になったように思います。

さむしろ

志野、黒織部、織部黒、瀬戸黒が古田織部の影響を受けているということについては一致しているのですが、次ぎのように「宗易形のような規範をもたない瀬戸茶碗は」として織部作品には「規範」がないとの理解です。長次郎茶碗にも端然とした存在感を示しつつも個性が現れていたが、瀬戸黒には外側にくっきりと箆削りが加えられているので、茶碗の表現としてはより個性的な作為が強調されている。そしてさらに長次郎焼きにおける宗易形のような規範を持たない瀬戸茶碗は作為の表出を自由に展開して、時代の茶碗に新風をもたらした。(「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」から)

したり尾

この表現だけではなんとも申しようがありません。要するに曖昧なのです。瀬戸茶碗は宗易形の延長線上にはないとも読み取れるし、延長線上にあって、より新しく自由であるとも読めるし・・・。宗易形における「規範」という言葉も、具体的に何を指すのか、文章の範囲では分かりません。したがって結論は保留します。

さむしろ

確かに「規範」がどのようなものであるかよくわかりませんが、「宗易形のような規範」といっていますから造形手法についての規範があるということではなく「形」そのものが規範と言っているように思いました。「宗易形茶碗」というのが初めて茶会記に現れたのは天正14年です。「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」に「室町時代後期から江戸時代を通じての茶会記に「宗易形」のように「形」という表現で茶碗を記録した例は外になく、・・・」と書いていますが、「宗易形茶碗」は「楽茶碗」の呼び名が定まるまでの間の代名詞ではなかったでしょうか。

したり尾

なるほど。「長次郎焼きにおける宗易形のような規範」という言葉の読み方が、さむしろさんと私では違っていました。さむしろさんは「長次郎焼きには宗易形という規範がある」と読み取られた。私は「長次郎焼きの宗易形には規範がある」と読みました。どちらも解釈としては成り立ちますが、さむしろさんの理解の方が素直かなと思います。とすると、「宗易形」とは縁が内側に入り込んでいる楽独特の形を指すものではないでしょうか。京都で大量に発掘された「楽」のような茶碗は、皆「大黒」か「俊寛」のようなものばかりであったように記憶しています。しかし「規範」という言葉は、やはり少々気になります。

さむしろ

おっしゃるとおり楽独特の形と理解します。したり尾さんと同様「規範」には異議があります。三点展開を考慮しない、あるいは三点展開論の存在さえも知らない立場と、三点展開を規範の中心におく立場とでは、「規範」の用い方も意味もまったく違ってしまいます。

したり尾

問題は、織部陶は宗易形とは関係なく誕生したのかどうかという点だろうと思います。純粋にお茶のためだけの器は、長次郎の制作した楽茶碗が初めてであることは言うまでもありません。宗易形の茶碗は、当時は全く自由な発想のもとに新しく創作されたものでした。この茶碗はたちまち都で流行し、似たようなものがあちこちで作られるようになりました。利休は非常に斬新な芸術運動の火をつけたのです。それこそ「時代の新風をもたらし」ました。その運動の次のリーダーが織部です。織部はこの芸術運動を引き継いで大胆に発展させていきました。つまり、大きな流れを見れば、織部陶は宗易形があったればこそ誕生した焼き物であって、両者は深く結びついていることは自明の理であると思うのですが・・・。「規範」という言葉を使えば、織部陶の規範は宗易形であると私は言いたい。それが一見どれほど違って見えようと。

さむしろ

織部陶(様式)と宗易形の関係について、したり尾さんとほぼ同意見です。織部が次ぎのリーダーとして大胆に発展させたとのご意見も同感です。「織部陶の規範は宗易形である」の部分についてですが、「織部陶(様式)と宗易形は同じ規範に則って造られている」と理解したいと思います。ただ製作過程において、利休と織部が互いにどのようにかかわりあっていたのか最大の疑問です。

したり尾

私はこの際、織部陶と織部様式は分けて話を進めてきました。また、織部陶といっても、広く考えればそこには志野も瀬戸黒も織部黒も信楽、備前や唐津の一部も含まれると考えます。要するに織部時代の焼き物全てです。これらの焼き物の原点が宗易形の茶碗です。宗易形の茶碗の制作には織部自身はかかわりがないでしょう。宗易形の茶碗は力を内に秘めたものですし、織部陶の作品の数々は外に向かって力を発揮している。明らかな個性の違いがあります。織部陶の制作者は宗易形の茶碗から制作の原理を学んだと考えるのが自然でしょう。その原理を安倍さんは「織部様式」と呼んでいるのだと思います。ただし宗易形の茶碗の制作に利休自身がどのように関与していたのか、また織部陶の制作に古田織部が、どのように関与していたのかは不明です。

さむしろ

織部陶の定義について「織部時代の焼き物全て」というのは想定外でした。これまでの分類、例えば日本陶磁4.「織部」には、織部菊文茶碗、黒織部茶碗・銘「冬枯」も入っていますが緑釉の作品がほとんどです。「織部陶」との分類は初見です。それとしても「織部陶」=「織部様式」であれば信楽、備前、唐津の一部も含まれるとの説に同意できますが、そうではない織部陶は今段階では理解できません。

したり尾

織部陶をこんなに広く定義することには当然抵抗があるでしょう。敢えて幅を広げてみたほうが議論がしやすいかなと考えて、織部時代に制作された織部様式に当てはまる全てを仮に織部陶と呼んでみたのです。あくまで仮にです。

さむしろ

個人間の対話で、いち度定義づけをして「織部陶」を使うのはいいでしょうが、他からの訪問者が圧倒的に多いこの「ものはら」で「織部陶」を使うことには賛成できません。「織部陶」の文字面だけからでは「織部焼き全般」と同義にとられかねない、あるいは同義ととるほうが普通かもしれないので、訪問者には却って話をわかりにくくすると思うからです。

したり尾

さむしろさんの指摘されたとおりですね。その部分は撤回します。失礼しました。そのほかの部分はいかがですか。

さむしろ

なまいきを申しました。そのほかの部分こそ最も知りたいところです。今段階では宗易形茶碗が最初であろうとの考えは同じです。ただ、楽の黒焼きと瀬戸黒の先後も大変重要です。瀬戸黒の引き出しによる制作技法が黒楽の制作につながったとの話もどこかにあったような気がします。

したり尾

そういえば、そんな話を聞いたこともあったかもしれません。待てよ、古瀬戸ではなかったでしたっけ??古瀬戸であるなら辻褄が合うのです。