黒茶碗と瀬戸茶碗(27)
さむしろ

「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」にこんな記載もあります。尼ケ根窯出土の黒茶碗も轆轤成形のやや小振りの茶碗で、形は後に出現してくる箆削りを加えた作為的な瀬戸黒茶碗と違って、長次郎焼の茶碗とどこか趣きの似通った半筒形の腰のまるいつつましやかな作振りである。この碗は考古学的な考察によると天正十年前後の作と推定されている。茶会記に現れる「瀬戸茶碗」について、使用年、頻度を調べてみる必要もありそうです。

したり尾

流れとしては大体それでいいように思えます。瀬戸黒は明らかに織部時代のもののように見えますから。いずれにせよ、長次郎焼は技術的な問題でいくらかは瀬戸茶碗の影響を受けていたのかもしれませんが、歴史の新しい一ページを開いたことに違いはありません。

さむしろ

手元の茶会記資料によると、1558 亭主・納屋宗久 志野茶碗、1570 亭主・納屋宗久 志野茶碗(※ひヽきわれらの茶碗よりこまかに覚候、なりそへに有之、あめふくりんふかし、土紫也、茶碗うすく候、われら茶碗より少也、)以後、1571 志野茶碗、1572 瀬戸天目、1572 瀬戸茶碗、1575 志野茶碗、1579 黒茶碗(薄茶)、1580 千宗易 ハタノソリタル茶碗、などとあります。NO1019で「1597年以前の層から志野が出土していない・・・」との記述の紹介をしていますが、即「おかしいじゃないか」とはならないほうがいいと思います。

さむしろ

武野紹鴎所持といわれる瀬戸白天目茶碗(室町時代)や他にも天目形の志野茶碗がありますが時代は少し上ると思います。あるいはこれらを指しているのではないかと想像します。

したり尾

さむしろさんのおっしゃる意味は、宗久の「志野茶碗」は、今一般的に言われる、例えば「峯紅葉」のような志野とは違うと理解すればいいのですね。とすると、大萱あたりの窯では比較的古くから、白濁した釉薬を使った焼き物は作られていた。それが織部時代になり、今に伝わる様々な名品が作られるようになった。そのように理解すればいいのでしょうか。

さむしろ

大萱のあたりか瀬戸のほうなのかわかりませんが概略そういうことです。1579 黒茶碗(薄茶)も興味あるところです。また、1583 亭主・宗栄 せと茶碗、1585 亭主・古田佐介 瀬戸茶碗、1585 亭主・上院ノ乗春 セト茶碗(薄茶)、1586 亭主・曲音 セト白茶碗、1586 亭主・草部屋道設 瀬度茶碗、1586 亭主・中坊源五 宗易形茶碗とあり、瀬戸茶碗が増えてきます。

したり尾

焼き物に関する限り、当時の「瀬戸茶碗」という呼称が、現在の瀬戸地方の生産品をのみを指しているのか美濃地方の生産品まで含まれるのか詳しいことは知りません。ただ、そのあたりが曖昧だなと感じることは時々あります。いずれにせよ、あの辺りが既に鎌倉期から焼き物の産地であり、中国の焼き物の模倣のようなものを数多く生産していました。かなり先進的な技術がここに蓄積されていたことでしょう。また、信長、秀吉のテリトリーでもありました。ですから、当時、焼き物の技術が瀬戸から京都へ持ち込まれたと考えても何の問題もありません。だから、やがて、逆に京都から瀬戸へ焼き物の思想が流れていってもおかしくはないのです。

さむしろ

京都から瀬戸へ焼き物の思想が流れても勿論おかしくはありません。それどころかはっきりと確認できないものかと考えています。仮に1579の黒茶碗(NO1042)が瀬戸(黒)茶碗であって、またこの黒茶碗ではないとしても、1586の宗易形茶碗より前に轆轤引きのあと「造形」を施された茶碗があったのか、あるいはなかったのかを確かめたいのです。宗易形茶碗と瀬戸黒茶碗の製作の先後をたしかめるヒントが茶会記にないだろうか、ということです。

したり尾

この確認は随分大変だろうと思います。もし楽以前に轆轤挽きでなおかつ造形が施されているものがあれば、やがて発見される可能性はありますが、それは存在しないということを証明することは至難の業だからです。私は轆轤挽きで造形を施されている茶碗は織部や志野、いわゆる瀬戸黒など織部時代にできたものだろうと考えています。長次郎焼は完全な手作りで、制作過程はかなり異質です。それに比べて織部時代のものは轆轤挽きの上に造形を加えています。つまり従来の技術の上に長次郎焼の造形の思想と技術を加えていったということでしょう。

さむしろ

したり尾さんのおっしゃるとおりであろうと思いますが、手造りだから最初に三点展開による造形が可能であったことにはならないのであって、轆轤引きのものに三点展開による造形を行ったとしても矛盾はありません。宗易形茶碗の出現前に瀬戸茶碗、黒茶碗が存在して、これらが瀬戸黒茶碗である可能性が消えない限り、長次郎楽茶碗が最初のものとは断じられないのではないでしょうか?

したり尾

私の言いたかったことは凡そ次のようなことです。もし、長次郎の制作以前に造形を施された茶碗があったことが証明されれば問題はありません。もし証明されない場合でも、長次郎以前に造形された茶碗は存在したが失われてしまったとも言う余地が残ります。つまり、長次郎以前に造形された茶碗はなかったという証明は非常に難しいということです。むしろ、問題の鍵は利休以前の造形論とはどんなもので、利休はどのような造形論を構築したかということではないでしょうか。また、いわゆる瀬戸黒茶碗は動きの大胆さなどから、織部時代以前のものであると言うことは無理があるように思えます。さむしろさんの言われる瀬戸黒が古瀬戸を指しているなら別ですが。

さむしろ

より厳密化していけば、したり尾さんのおっしゃるようになるでしょう。ただ、宗易形茶碗=長次郎楽茶碗として、この茶碗は、①長次郎の創意により製作し、利休がこれを茶の湯茶碗として認めた(あるいは取り上げた)。②利休の創意を長次郎が形にした。のいずれとも決め手になるものはありません。二人のほかに関わった者がいたかもしれないし、いなかったかもしれません。また、いきなり生まれたものか、あるいはなにかヒントになるものがあったのか、わからないことだらけです。そのような理由から極力固定しないで記録的に確定したものを動かないものとして色々な仮説をたてて解明に一歩でも近づきたいという思いです。

したり尾

さむしろさんのおっしゃる意味は理解しているつもりです。宗易形茶碗がどのような経緯で登場したのか、その秘密を知りたいということだろうと思います。その疑問は私も変わりません。ただ、私は技術的な問題に重点を置くのではなく、時代状況や茶に対する考え方などにその答えを見出せないかと考えているのです。技術の問題で言えば、私にとって最大の興味は、なぜ楽独特の窯が誕生したのかという点です。中国に似たものがあるだのないだのいろいろ説はありますが、決定打となるものは知りません。後にも先にもあれだけですから気になって仕方がないのです。

さむしろ

なるほど、お考えの一端がわかりました。わたしは技術的(技法的と言った方がいいかも)な部分からの解明が、わずかかもしれませんが道が明るいと思っていますが、したり尾さんの、時代背景や茶道思想などからの論も待ちたいと思います。楽独特の窯からあの焼き成りが得られたであろうことはわかりますが、あの造形(の本質)もあの窯ゆえとの考えでしょうか?

したり尾

私の時代論や茶道論など大したものではありません。ただ、最近様々なの芸術のジャンルで大きく歴史が変わるときに何が起きたか、それまでとは違う新しいものは、どのようにして登場するのか共通項はあるような気がしています。まだまだ勉強中です。楽独特の窯の件ですが、あの窯と宗易形の成立とは直接的には関係はないでしょう。しかし、全てが他とは違うところがなんとも気になるということです。理由は何かあるのでしょう。

さむしろ

茶道も今では女性の“たしなみ”といわれるところに身を置いていますが、桃山時代は権威の象徴ともいえる程の特権階級にのみ許された「許し事」といってもいいくらいのものであったと思われます。そうした中で利休は、茶の湯について絶対的な権威者であって茶の湯(道具も含)の良し悪しを断じることの出来る唯一の人であったといっても過言でないでしょう。そのような立場であったからこそ「にじり口」を作って秀吉にも頭を下げさせ、(秀吉が嫌ったとの説もある)黒茶碗を用い、これを広めることができたといってもいいでしょう。このことは利休後の織部にもいえることでしょう。このような意味で時代背景も大きな要素であると思います。

したり尾

どこの国でもそうですが、歴史は下克上が健全な流れです。鎌倉期の成立は貴族社会から武家社会への転換という下克上でした。そして桃山という時代は、結局町人文化の始まりの時代ではなかったかと考えています。その象徴が大町人としての利休であると。さむしろさんの言われたことも要すればそういうことだろうと思います。

さむしろ

尼ケ根窯出土の黒茶碗別室に写真を載せました。ともに「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」からの引用です。「尼ケ根窯出土の黒茶碗も轆轤成形のやや小振りの茶碗で、形は後に出現してくる箆削りを加えた作為的な瀬戸黒茶碗と違って、長次郎焼の茶碗とどこか趣の似通った半筒形の腰のまるいつつましやかな作振りである。考古学的な考察によると天正10年前後の作と推定されている。」と解説されています。天正10年は1582年で宗易形茶碗が現れたのが1586年です。

したり尾

確かに別室の写真にある茶碗は、長次郎のものと大変よく似ています。あの写真だけからははっきりとはいえませんが、轆轤挽きだとしても、その後造形をしていますね。あるいは轆轤挽きではないのかしら。作り方から、大変大きな謎です。

さむしろ

そうでしょう。大変興味深いというか気にかけておかなければいけない茶碗であると思いました。

したり尾

問題は「尼が根窯」出土の考古学的考察であると思います。具体的には、どのような考察であったのか、なぜ天正10年前後と言えるのか、また前後とはどの程度の範囲なのかという点を知りたいところです。私が僅かに知っているところでは、考古学では前後数十年の誤差があるはずです。その後、その幅は小さくなったのかもしれません。歴史学的考察でしたら分かるのです。

さむしろ

確定的なものはなかなか期待できないので、複数の状況資料から推察するしかないでしょうね。例えば、正確な記憶ではありませんので後日確かめますが、「黒楽茶碗は瀬戸の引き出し黒からヒントをうけた」といったたぐいの記述です。

したり尾

ここは、一連の議論の中でもっとも重要なポイントですので、慎重な調査をお願いします。私としては、尼が根窯についてあまり詳しくないので、ある程度の情報も欲しいし、この際、この文章を書かれた方も知りたいところです。ある程度、知れた方なら、他の著作などから考古学に明るい方なのかどうか判断の材料になるからです。

さむしろ

わかりました。今夜、本のほうをもう一度読み直してみましょう。

さむしろ

出典は「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」中、林屋晴三「桃山の茶陶 -その造形の展開-」の項の中に出ています。尼ケ根窯については、美濃小名田の尼ケ根と呼ばれる古窯跡出土、となっているだけです。

したり尾

尼が根窯は、確か黄瀬戸や織部が出土されているとは聞いています。しかし、いつの時代の窯か、登り窯か穴窯かなど私にも全く分かりません。なにやら謎だらけですね。

さむしろ

穴窯の時代ではないかと思います。登り窯時代になると緑釉の織部焼きの時代ではないでしょうか? もちろんきれいに一線は引けないでしょうが・・・。「宗易形の茶碗」について同じく「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」の林屋さんの項に、(茶会記の)記述だけでは、それが長次郎作の茶碗であったか否かは厳密には判然としない。だがこの日の茶会の後につづく諸会記の記述から推測すると、この宗易形の茶碗は瀬戸茶碗ではなく、その後今焼茶碗と呼ばれる長次郎焼の茶碗であったと推定される。というのがあります。確かに茶会記は「今焼茶碗」というのがふんだんに出てきます。ただし、今焼茶碗=長次郎焼との根拠は不明です。

したり尾

瀬戸茶碗が天正10年以前だとすると穴窯であると言えますが、まだ、その確証はありません。窯は消耗品ですから、穴窯の跡に登り窯を作るということは考えにくいことです。駄目になれば、次々に土のあるところに移っていくものです。もし、織部焼きも確かに尼が根窯から発見されているとすれば、別室にある黒茶碗が天正10年ごろに作られたという話が危うくなってきます。ということですから、尼が根窯とはどういう窯であるか調べる必要が出てきたように思います。利休のいわゆる宗易形茶碗の話ですが、彼の手紙にある国焼き茶碗は、確か今に伝わる長次郎茶碗ばかりであった記憶があります。手紙にはあったのは茶会の話ではなく、ほとんど売買の話ではありましたが。暇を見て、もう一度じっくり手紙を読んでみようかと思います。

さむしろ

NO1086では勘だけで書きましたが、穴窯、登り窯についてはよくわかりません。穴窯で引出し黒が焼けるかどうかについても確かめていません。尼が根窯跡からどのようなものが出てきているのかについても手持ちの資料では不明です。

したり尾

完全な穴窯であれば、引き出すことは無理でしょうね。半地下式であれば登り窯の一部屋だと思えばいいのですからできるはずです。引き出す口を作ればいいのですから。いずれにしても、ある程度、窯が発達する必要があります。天正年間の美濃地方の窯がどんなものであったのか知りたいですね。話は思いもかけず面白い方向に向かい始めました。この入り口から何か新しいことが発見できるかもしれません。

さむしろ

疑問が次々とでてきます。同じく「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」の林屋さんの項に、天正・文禄・慶長(1573~1615)にかけての茶会記には長次郎や長次郎焼の呼称はまったく記されていない。消息を伝える確かな資料はないが、利休の侘び数寄が深まってゆく天正10年(1582)頃(茶室待庵ができたと推定されている)、利休と長次郎の出会いはすでにあって、  -略-  利休好みの茶碗が造られつつあったと推測される。 -略-  茶碗はまず赤茶碗が先行していた、 -略-  当時の長次郎のもつ技術では、当初は赤茶碗しか出来なかった。 -略-  美濃ですでに焼かれだしていた焼成中に窯から引き出すことによって生じる黒釉の技法“引出し黒”を倣い、手捏ね成形による黒茶碗を長次郎に焼かせたのであろう。といった記述もあります。利休と長次郎のかかわりが、いつから、どの程度のものであったかはっきりしたものはないようですね。それでもここらが核心部分であることは間違いないでしょう。

したり尾

ざっと調べてみたところ、利休自筆の手紙には、長次郎焼きの茶碗は、雁取、早船、大黒の3点です。他の資料でも同様のことが書かれていますから、このほかには利休の手紙には記されていないのでしょう。雁取の手紙には「焼茶碗」と書かれています。利休に近い人間が焼いた茶碗という意味でしょう。書かれた年代は雁取については推定ですが、天正15年あたりです。この3点は気に入っていたらしく当時利休の手元にありました。天正から慶長にかけての茶会記には長次郎焼の記述はなくとも、天正15年には深いかかわりがあったことは分かります。その他の林屋さんの記述についての根拠は、私は分かりません。ただ、一般的には、ほぼそのようなことが言われています。問題は根拠ですね。根拠が明らかになっていない記述は、あえて納得しないで事実なのか推測なのか、ひとつひとつ調べていくことが必要です。

さむしろ

とりあえず続けます。瀬戸黒茶碗について林屋さんは、「宗易形の茶碗」について「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」において、-略- そして天正年間後期になると瀬戸黒茶碗は長次郎焼のような無作為な形の茶碗とはちがって轆轤成形後胴に箆削りを加えて、作為を顕わに見せる作調に変貌して、美濃の瀬戸茶碗独特の作風を見せるようになる。その様相の一端を示すものとして利休所持という伝承を持つ瀬戸黒茶碗「小原木」がある。(「小原木は素朴な溜塗りの曲物におさまり、蓋表に黄漆で「小原木」と記されているが、利休の筆と伝えている。」と中央公論社、日本の陶磁3にあります)

さむしろ

根拠がなかなか難しいですが、書状はいい資料になるかもしれませんね。とにかく根気がいる作業です。

したり尾

林屋氏のご意見では楽茶碗と瀬戸黒茶碗は、造形の上では、楽は瀬戸黒から影響を受け、あの独特の形ができた。その後、楽は大きな変化なく引き継がれていったが、瀬戸黒はさらに動的な茶碗へと変化していった。こういうことですね。つまり瀬戸黒こそ、桃山時代の茶碗のリーダーであったということになります。このご意見を成立させるためには天正10年頃の作とされる瀬戸黒茶碗が、確かに天正10年頃に作られたという証明が必要です。どうしても考古学的検証の実態が知りたいところです。このことが明確に分かれば林屋氏のご意見は正当なものになります。しかし、証明されなければ正当なものとは言えません。また楽茶碗は無作為であるという表現も、私は少々気になります。一般的に楽茶碗は作為がないといわれます。私は織部や瀬戸黒と楽茶碗は動的であるか静的であるかぐらいであって、どちらも十分に作為はあると思っています。

さむしろ

したり尾さんのご理解はちょっと違うと思います。楽茶碗は、瀬戸黒から影響を受けて独特の形が出来た、といわれているのではなく、瀬戸の黒茶碗の引出し黒(黒焼き)の焼成技法を学んだのではないか。そしてその瀬戸の黒茶碗は、轆轤後に箆削りを用いた作調に変貌し独特な作風となった。といわれていると理解しています。林屋さんの「楽茶碗が無作為」との意見には私も同意できません。

したり尾

お言葉ではありますが、NO.1077や別室の写真にあるように、宗易型の茶碗の原型も天正10年制作と思われる瀬戸黒にあるということになりませんか。

さむしろ

確かに原型だと言われれば納得しそうなほどよく似ています。そういう意見があっても良いと思っていますし、その可能性も考える必要があると思っています。ただ、林屋さんは、道陳好みという黄瀬戸茶碗とともに興味深いと言っておられます。また、長次郎焼のように利休と直接的なかかわりはなかったであろうが、あるいはそれらも利休好みの影響下に焼かれているのではないかと最近考えるようになつた、とも。少なくとも引用の本の中で瀬戸黒の影響で楽茶碗ができたというふうに言っておられるのではありません。そのような意味においてです。

したり尾

おっしゃることは、少し分かってきました。その黄瀬戸は、あるいは利休所持といわれた茶碗ですか。もしそれならかつて見たことがあります。あれは明らかに轆轤挽きで、その後手は入れていないように思いました。しかし形は宗易型に近いものでありました。林屋さんの想像なさるような利休と瀬戸あるいは美濃との関係は、まだなんとも言えません。

さむしろ

黄瀬戸茶碗はあの利休所持といわれる茶碗だと思います。瀬戸の黒茶碗ですが、ものはら別室に載せている写真のうち下のほうの茶碗の胴のほうに丸い痕がみえますが、写真で見る限りは引出しの際についた跡ではないかと思われます。現物なりもっとはっきり写った写真なりを見ないと断定はできませんが・・・。

したり尾

少々ボケているので何とも言えませんね。どなたか個人の方がお持ちなのですか。写真の下にそのように書いてあるように見えます。すると展覧会などに出る可能性は少ないのでしょうか。黄瀬戸の場合もそうでしたが、現物を見てみると想像していたものとは随分違います。結局写真を見ているだけでは絶対に確定的なことは言えません。是非とも現物が見てみたいな。そして尼が根窯跡にも行ってみたいものです。文献では分からないことも、現場に行ったり、現物を見たりすることで確信を持って分かるようになるものです。

さむしろ

瀬戸の黒茶碗ですが、確認したところ個人蔵となっています。轆轤造りのようですから、ある程度の数は作っているように思います。現物を是非見てみたいという思いは同感です。情報があればほしいですね。

したり尾

轆轤作りだから数があるとは限りませんよ。瀬戸や美濃のものは原則として轆轤挽きですから。でも現物は見たいものです。

したり尾

この議論のポイントの一つは、瀬戸・美濃地方は焼き物の世界で、どのような役割を果たしてきたのかという点にあるように思います。あの辺りは六古窯とは違って、鎌倉期から主に中国の焼き物をお手本として、その技術を先進的に取り入れてきた地域であると言われています。織豊時代には政治的にも日本の中心地のひとつにまで登り詰めていったのですから、京都とは違った新しい文化が生まれてもおかしくありません。そして新しい焼き物も・・・。ただし、焼き物に絞って言えば、京都と瀬戸・美濃地方の関係が分かったようで分からないのです。

さむしろ

おっしゃっていることは、そう大きくは違わないと思いますが、わたしは、安倍さんがいうところの「織部様式茶陶」の氏素性はいったいどのようなものなのか?
つまり、何時、どこで、だれによって造られたのか?
長次郎黒楽茶碗と瀬戸黒、織部黒、黒織部、志野など(の一群のもの)は同根であるとすると、どれが最初に造られたのか?
安倍さんが「とても及ばない」というほどの優れた造形力が京、美濃、信楽、伊賀、備前、唐津など各窯場で期せずして生まれ得たであろうか? それとも一方から他方へ伝わったのか? もし伝わったのであればどちらが先か? 等の部分がポイントで、その余の話は答をみつけるための参考資料、状況資料といった位置づけと思っています。ポイントを曖昧にしておくと、読む人にとって、わかりにくい話がますますわかりにくくなるように思うからです。