安倍安人の「京の作家が制作説」と林屋晴三の「独自進化説」(28)
したり尾

さむしろさんの言われていることは凡そ分かりました。確か安倍さんは織部様式の茶陶は、産地の陶工が制作したものではなく京の作家が制作したものであるという推論をたてているようですね。その根拠のひとつが産地(窯跡)には作品が残されていないことを挙げられていました。多くの者がかかわったなら、窯跡にその破片ぐらい必ず残っているはずだとも。

さむしろ

例えば、(焼いてもらうために)10点の茶碗を送れば10点全部を送り返してもらう。たとえ割れようが、ひっつきがあろうが全てを送り返す、ということですね。

したり尾

その安倍さんのご意見と林屋さんのご意見とどこが違うのか。問題になるのは天正10年といわれる瀬戸の黒茶碗です。尼が根窯跡で発掘されたというところが一番の問題ですね。これが事実であれば、その瀬戸の黒茶碗は京の作家が作ったものではないということになります。時代のずれなどいくつかの推測はできますが、実物を見ないことには作家が作ったものか陶工が作ったものか分かりません。

さむしろ

形は茶碗の形ですよね。それも非常に端正でよく出来ているようにみえます。雑器にはみえません。

さむしろ

林屋さんのお考えをもう一度整理してみると、
① 茶会記において宗易形の茶碗の出現以来「今焼茶碗」と「瀬戸茶碗」がにわかに多く現れるようになる。
② この瀬戸茶碗が何であつたか判然としない。
③ これまで私は黄瀬戸・瀬戸黒・志野などの茶碗であると考えていたが、志野は当時まだ出現していなかったとの見解が強くなった。
④ その中で興味深い作品二つが現存する。一つが道陳好みという黄瀬戸茶碗であり、もう一つが尼ケ根窯出土の瀬戸の黒茶碗である。
⑤ 天正年間後期になり轆轤成形後箆削りを加え作意を顕わに見せる作調に変貌し美濃の瀬戸茶碗独特の作風を見せるようになる。

私は、①について同じ認識です。②についても同じです。③漠然とそんな思いをしていましたが、林屋さんの記述を読みながら和物の釉薬ものをひとくくりに「瀬戸茶碗」といったのではと考えました。唐津が含まれる可能性を考えました。今のところ根拠はありません。④黒茶碗については極めて重要かもしれません。大いに興味をもっています。⑤ここでの「変貌」の認識が決定的な相違点かもしれません。

したり尾

正直に言いまして、お話がやや難しすぎて私は何とご返事していいか分からなくなりました。話の手がかりが私には掴めないのです。申し訳ないのですが・・・。

さむしろ

したり尾さんのNO1110は多分に謙遜がはいっていると思いますが、ここでの議論になじみのないかたを念頭に少し整理してみましょう。
①についてですが、古い茶会記(1500年代半ばくらいからのもの)に出てくる茶碗は、当初はその多くが唐物茶碗でした。ついで利休による侘び茶の進行の影響と思われますが、朝鮮物の茶碗が多く使われだします。そしてそれらが、そのほとんどでもありました。ところが天正14年の茶会記に「宗易形茶碗」を使ったとの記載が現れ、とたんに以後の茶会記に今焼茶碗と瀬戸茶碗が多く現れ、今焼茶碗と瀬戸茶碗が主流となって使われるようになってきました。

さむしろ

②については文章どおり、ところが、この今焼茶碗、瀬戸茶碗が今でいうどの茶碗にあたるのかわかりません。

さむしろ

③ですが、林屋さんは「瀬戸茶碗」とは、黄瀬戸・瀬戸黒・志野などの茶碗であると考えておられたようですが、先に出てきたように志野茶碗の出現がもう少し後になってからとの見解が主流となりました。そこで志野を除いた黄瀬戸・瀬戸黒が「瀬戸茶碗」ではないかと考えられるようになったというのです。わたしも漠然とそんな思いをしていましたが、林屋さんの記述を読みながら、和物の釉薬ものをひとくくりに「瀬戸茶碗」といったのではと考えました。唐津も含まれる可能性を考えました。今のところ根拠はありませんが、わたしが小さい頃、磁器ものを「セトモノ」、土ものを「カラツ」と言っていたように思います。天正年間に、これは美濃、これは瀬戸、これは唐津といった分別ができたのだろうかという疑問です。ただ唐津茶陶について、いつ頃から使われだしたのかについての資料について確かめていません。このことが根拠なしという大きな理由です。今焼茶碗については長次郎茶碗ではないかと思っていますが、もう少し検討します。

したり尾

謙遜ではなく、本当に少々混乱しています。申し訳ありませんが、NO1109から何を話しているのか分からなくなってきました。多分私の理解力が不足しているのでしょう。ただ「セトモノ」と「カラツ」の話だけは分かります。今でも関東では焼き物全体を「セトモノ」といいます。私は関東出身ですが、焼き物というよりセトモノといった方がぴったりきます、陶器であろうが磁器であろうが。関西から西では「カラツ」というらしいと聞いたことはあります。(実際にはそうした呼び方を聞いたことはありません)「セトモノ」「カラツ」という呼び方は食器の生産量の問題で、この議論とは直接的に関係があるとは思っていませんでした。

さむしろ

わたしは関西出身でセトモノ、カラツで育ったように思います。④については読まれたとおりです。⑤の部分での林屋さんの考えを想像すると、ものはら別室に掲載している写真の黒茶碗は、当時ある程度の数が作られていたと考えられる。その黒茶碗は天正年間後期になると、轆轤つくりではあるが、(多分陶工の創意によって)箆削りを加え、そうして強い作意をもった茶碗となって、やがて今にいう「瀬戸黒、黒織部、織部黒」へと進化していった。これは美濃独特の進化である。もっといえば無作為である長次郎茶碗と対極に位置する進化であり、直接の関係はなく生まれた。もちろん利休から何がしかの影響は受けたのではあろうが…。
この独自に進化したことによって生まれたという部分から、安倍さんのいうところの「長次郎楽茶碗と瀬戸黒、黒織部、織部黒、志野、備前、唐津の一群の織部様式茶陶とは同根である」との考えとは出発点から違うといえると思うのです。その意味で、この部分に、林屋さんと安倍理論の相違点が如実に現われていると思ったのです。勿論相違点はこれだけではありませんが・・・。また、「独自に進化」については、多分林屋さんと別の意味で使用することになるかもしれません。

したり尾

ようやくご趣旨が見えてきました。丁寧に書いていただいてありがとうございます。もとより安倍さんのご主張と林屋さんのご主張とは、楽とその他の茶碗の関連性の問題がありますが、その他の相違点も見られます。今までのところ、林屋さんのご意見には制作した作者のことが触れられていません。あの時代のことですから、芸術家の社会的位置は低く職人との区別などありませんでした。ですから作者がたまたま分かっているのは長次郎一人です。(それもきわめて漠然としていて人物像などは全く分かりません)織部や唐津の作者は一般的な陶工なのか、それとも現代で言うところの芸術家なのか、それによって随分議論が違ってきます。私は、現在に伝わる茶碗の大多数は、特定の作家によって制作されたものであると思っています。それが何人ぐらいの作家であるのか、作品の全てを見ていないので私には分かりません。しかし、作品のひとつひとつを検討すればある程度は分かるはずです。この角度から見てみる必要もあるのではありませんか。

さむしろ

わかりにくい文章で申し訳ありません。NO1116下から4行目の「現在に伝わる茶碗の大部分」ですが、誤解を招きそうですから一言書き加えたほうがいいかと思いますがどうでしょうか? たとえば「桃山茶陶のうちいわゆる織部様式茶碗」の大部分、では意味が違うでしょうか? それらの茶陶が特定の数人程度の人たちによって作られたのではないかとの考えはわたしも同じです。したり尾さんの「この角度から」こそ一番の近道であると思います。

したり尾

確かに誤解を招きそうですね。織部様式といってしまうと、またその説明をしなければなりませんから、桃山時代に日本で作られた名品といわれる茶碗の大部分といっておきます。林屋さんは、その文の中ではそうした見方はなさっていないのでしょうか。私は○○焼ということにとらわれず、どの作品とどの作品が同じ手であるか確認したほうが、全体像が見えてくるように思います。しかし、それには写真は限界があります。そこは我々の問題ですね。

さむしろ

林屋さんにその意識があるようには感じられません。作品を確かめるにも限界があるのはその通りですが、避けては通れません。また、同じ手かどうかについてもなかなか判じがたい。しかし必要な作業である事は間違いありません。ある共通の特徴をそなえた作品がほぼ同時期に、京で、美濃で、伊賀・信楽で、備前で、九州唐津で生まれたことは驚きです。しかし、驚きとなるためには「共通の特徴」の存在の理解も必要です。だんだんわからなくなりますが、一ヶ所に絞らずに色んな角度からみたほうが、取り敢えずは近道かなと思います。

したり尾

近道か遠回りか分かりませんが、多角的に検討しないと間違った結論を出してしまうことになります。ポイントは作家であると私は思いますがね。同じ手であるかどうか判じがたいとのお話ですが、例えば安倍さんの作品は、他のどんな作品の中に紛れていても分かるでしょう。それと同じことです。写真はごまかされますが、実物を見れば分かりますよ。チャンスがあれば逃さずにせっせと見ましょう。

さむしろ

「ポイントは作家である」について具体的に説明していただくとありがたいですね。どのような意味においてのポイントであり作家であるのか判断に迷うものですから。同手についての判別はこれからの勉強課題としましょう。