作家集団の存在の可能性(29)
したり尾

これは安倍さんの言われていることですが、一人の、例えば京の作家が、各地の窯で作品を制作したのであれば、同時期に各地の窯で焼かれたものが同じような特徴を有していてもおかしくありません。そのような作家の存在があるのかどうかということがポイントであると申し上げたかったのです。そしてあるとき突然途絶えてしまったことも、こう考えれば理解できます。それはその作家が作らなくなってしまった。あるいは作れなくなってしまったということです。これは安倍さんの仮説です。しかし、説得力はありますね。

さむしろ

よくわかりました。わたしも同じ認識です。

したり尾

私は漠然と一種の芸術家集団の存在を想像しています。明らかに手の違う作品があるからです。例は悪いかもしれませんが、例えば柳宗悦の下には川井寛次郎や富本憲吉や浜田庄司が集いました。互いに影響を与えながら、それぞれの個性は失いませんでした。あの様な集団は、どの時代にもどの国にもあるのですから、桃山時代にあっても悪くない。これは安倍さんのお説に刺激を受けての夢想です。

さむしろ

わたしも集団をイメージしていますが、群雄割拠(ちょっとオーバーですが)というよりも一人の名手がいてその子や弟子が一団をなして制作した。絵画の場合、狩野派のように頭領となる者がいて弟子や下職が一団となって、二条城(であったと思う)の襖絵を描きあげるといった大きな仕事をしたという話の記憶があります。ほかに土佐派とかいろいろな派がありますが、規模の大小は別にして各分野ごとにそのような集団化されたグループがあったであろうと想像します。作られたのがおよそ30年間であろうと思われますが、極めて数が少なく、また一方で極めて高度な造形力です。専業ではなかった可能性も想像します。

したり尾

かなり高度な技術を持った人々であるとは思います。専業であるのか、兼業であるのか想像の範囲外ですが。私は集団が存在しても、絵画や仏像制作のような制作集団であるとは想像していません。それぞれの作品があまりに自由で個性的ですから。しかし、すべて想像の世界ですから、どのように思い巡らしても自由です。

さむしろ

すべて想像の世界といえるかもしれません。ただ、少々極端かもしれませんが、作るところを見た人はだれもいないわけで、「これは間違いない」というものは一つもないことになってしまいます。まず仮説をたてて、可能な限りその仮説がなりたついろいろな角度からの資料を集め、また矛盾をみつけ、みえなかったところが少しでもみえないかともがいているわけで・・・。

したり尾

もちろん、そのとおりです。仮説ついでに、大胆に発言しますと。志野の「羽衣」「広沢」「かめのを」あたりは同じ作者でもおかしくない。織部は「冬枯」と「菊文茶碗」は同じ作者かな。あまり沢山見ていないし、忘れてしまったものも多いので、自信を持っていう事はできませんが・・・。しかし信楽の「水の子」などを見ると他の作品とはあまりに違うので、どう考えればいいのか分からなくなってしまいます。

さむしろ

確かによく似た造形のものがたくさんありますね。今、目の前にある図録をみただけでも、志野「通天」「亀甲文茶碗」「山の端」は兄弟のようにみえます。一ヶ所に集めてみれば多くのことがわかってくるでしょうが、出来ないことが残念です。

したり尾

高台の写真があれば、高台だけを見比べてみると面白いですよ。また、別の分類ができます。高台も作者の癖が出ますからね。

さむしろ

確かにNO1129の茶碗の高台をみるとよく似ています。

したり尾

そうでしょう。このようにして、織部や瀬戸黒、志野などを高台を中心に調べてみると、大体、何人ぐらいの作家だか見当がついてきます。ついでに楽や唐津なども見てみると何か分かってくるかもしれません。少し無理があるかもしれませんが、志野の「蓬莱山」と常慶の「香炉釉井戸形楽茶碗」も高台や釉薬のかけ方など似ていないこともありません。この際、想像するだけ精一杯想像してみましょうか。

さむしろ

そうですね、それなら早速その想像(ちょっと論点がずれます)ですが、前々から織部様式の誕生についてひとつのシナリオを思い描いています。そのシナリオの元になりうる、というかまったくの絵空ごとではないのではと都合のよい解釈ができるものがありましたので紹介しましょう。