ルネサンスがヒントとなって織部様式誕生?(30)
したり尾

面白そうですね。どんなストーリーになるのか楽しみにしています。精一杯話を膨らませてください。ただし、無理があるなと思ったら、遠慮なく書かせていただきますよ。いいですか。

さむしろ

どうぞどうぞ。それでは、06.7.23日経新聞「美の美、レオナルドの目」からの抜粋です。レオナルドがこだわったのは、顔だけではない。人体研究にかけても、疲れを知らない男だった。冬の夜長は夏に描きためた裸体画から一番立派な肉体を選んで練習し、覚えこむことが大切だと手記に書く。裸体画の裏づけは、死体の解剖によってなされた。(つづく)

さむしろ

「どうして画家は解剖学を知る必要があるのか一裸体の人々によってなされうる姿勢や身振りにおける肢体を上手に描くためには、腱や骨や筋や腕肉の解剖を知ることが画家には必要である」(『レオナルド・ダ・ビィンチの手記』)まったくもって、ルネサンスはすごい時代である。画家が絵を描くために死体を解剖することは珍しくなかった。レオナルドは -(略)- 約三十体もの解剖をおこなっている。 -(略) (つづく)

したり尾

思いもよらない入り口から入ってきましたね。びっくりしました。さてこの話がどう展開されるのでしょう。

さむしろ

美術評論家の布施英利氏(美術解剖学)は、医学部の研究室でレオナルドの解剖を追体験したことがある。一(略)一 その布施氏に聞いてみた。一(略)一 「レオナルドは手 首を回転させるとき、骨がX状に動くさままでデッサンしている。そこまで解剖図にした人は、当時いなかったんじゃないかなあ。内面から構造的に人体を把握している。美術館で見ても、他の画家の作品とはジャンルがちがう。他の画家の作品が絵だとすれば、彼のは設計図です。」(引用終わり)

したり尾

ここからが、さむしろさんのご意見の開陳となるわけですね。楽しみです。

さむしろ

引用は以上ですが、レオナルドが生きたのが1452~1519のようです。画家が絵を描くために死体を解剖することは珍しくなかったようですから、当時のヨーロッパではこのように感覚だけでなく極めて正確に人体の動きを表現するという技法、あるいは意識が、画家などの芸術家の世界ではある程度一般的となっていたであろうと想像します。そしてそのような知識をもった者が、16Cに日本にきたキリスト教伝教者あるいはその従者にいたのではないか、という想像です。その伝教者らが茶の湯者と接点があったことは記録からも明らかですから、茶の湯の道具の話題やルネサンス芸術について語ることがあったとしても不思議ではないでしょう。したり尾さんはお気づきでしょうが、ここで言いたい事は、ルネサンス芸術の知識(技能)と茶の湯者の出会いが「長次郎楽茶碗」や「織部様式茶陶」を誕生させることとなった、という想像です。ただこの部分は、したり尾さんと見解を異にする部分でもあります。

したり尾

もし、さむしろさんのお説のとおりだとして、レオナルドの人体解剖と織部様式とはどのような関係があるのでしょうか。

さむしろ

わたしは「長次郎楽茶碗」や「織部様式茶陶」にくわえられている造形は、他からの何らかのヒントそれにもとづくひらめきがあったればこその誕生であったと考えています。そして、その何らかのヒント或いはひらめきの元は身体の動きを表現した彫刻であると考えていました。ところがレオナルドの人体解剖の記事をみて彫刻だけに限ることはないと思いました。

したり尾

「彫刻だけに限らない」とすると、絵画にも幅を広げて考えてみたということでしょうか。あるいはもっと広げてお考えになったのでしょうか。

したり尾

後から考えてみると、これは野暮な質問でした。さむしろさんは彫刻であれ絵画であれ、人体と織部様式を結びつけてお考えなのですね。その根拠は何ですか。

さむしろ

レオナルドの描く人物にそう感じました。根拠といえるかどうかわかりませんが、織部様式を安倍理論の三点展開における「面」で理解しようとしても理解出来ないように思います。例えば耳付水指の耳は、左右で位置が違います(一方が少し上で他方は少し下)。このことを面の理論では(私には)説明出来ません。また、「力の波及」ということも理解しないと織部様式の理解が出来ないのではないかと、私は考えています。

したり尾

さむしろさんのご意見は次のようなことと理解していいのでしょうか。レオナルド・ダ・ヴィンチの人体の研究は、肉体における「力の波及」の研究である。こうした考え方が何かの形で桃山期に日本に輸入され「織部様式」が誕生した。こういうことでしょうか。

さむしろ

そこまで単純化するほど理解が深まっているわけではありません。レオナルド・ダ・ビィンチが人体を研究した理由は、NO1136にあるように「どうして画家は解剖学を知る必要があるのか――裸体の人々によってなされうる姿勢や身振りにおける肢体を上手に描くためには、腱や骨や筋や腕肉の解剖を知ることが画家には必要である」(『レオナルド・ダ・ビィンチの手記』)をそのままに受け入れればいいだろうと思います。このことは彫刻においてもそのまま当てはまり、16Cのヨーロッパではそのような考えが芸術家の間では広く一般化されていたであろうという、ある意味想像です。そのような考え方が利休の頃に日本に伝わり、その考え方と茶の湯茶碗の両方を理解した者の手によって、あるいは両方を理解した者の指導によって、その考えをとりいれた茶碗の造形がなされた。そして水指、花入においてもそうした造形がなされるようになった、という想像です。

したり尾

なかなか難しいところですが、ダ・ヴィンチはルネサンス時代でも特別な存在であったようです。ルネサンスを代表する作家は、一般的にはミケランジェロ、ラファエロ、ダ・ヴィンチだと言われています。3人とも、絵画や彫刻ばかりでなく、現在もイタリアに残る建造物も作っています。その意味では当時の作家は現在よりも幅広いジャンルで活躍をしていたようです。その中でもダ・ヴィンチは抜きんでた存在で、土木、工学、音楽、数学、地理、機械、植物、そして解剖学と活躍の場は多岐に渡り、ルネサンスの理想像と言われています。ですから、ダ・ヴィンチを基準に考えると無理が出てしまうように思います。

さむしろ

引用の新聞記事には「画家が絵を描くために死体を解剖することは珍しくなかった。」とも書いています。したり尾さんは、16C前半のヨーロッパにおいて、肉体を出来るだけ忠実に描写しようという考え方が、ある程度の広がりをもって存在した、あるいはそうではなかったについて、肯定的でしょうか? それとも否定的でしょうか? わたしはそれを肯定的にとらえています。そしてそのような描写、造形の考え方が伝わった可能性は十分にあると思っています。レオナルド・ダ・ビィンチその人の理論なり描写力なりが日本に届いた必要はありません。

したり尾

ルネサンスという時代は、ヨーロッパがローマンカトリックから解き放たれ、この世の美を謳歌した時代でした。ヨーロッパの人々は、この世の全てのものに強い関心を抱き、ある人は地の果てまで旅をし、ある人は科学や哲学に没頭していきました。こうしたことは否定できるものではありません。そしてその大きな波が日本にも押し寄せてきたことも、日本の文化に、日本の人々の生活に強い影響を与えたことは、歴史的事実であると思っています。しかし、日本にも既に運慶、快慶らの作品など鎌倉期から、非常に優れたリアリズムの作品もあります。ですから、肉体表現という角度だけからヨーロッパの影響を考えることは課題が残るのではないかと思っています。

さむしろ

わたしはこれまで述べたような仮説のもとに、肯定的材料や否定的材料を集め、少しでも真実に近づきたいと考えています。今度は「長次郎楽茶碗、織部様式茶陶の誕生」についてのしたり尾さんのお考えをお聞きしたいですね。

したり尾

今は、まだ「織部様式の誕生」について直接語れるほど材料も揃っていませんし、考えもまとまってもいません。しかし、今「それまで全く存在していなかったものが、突然誕生する」他の例を、我々の時代の中で探し出し、その秘密を探ろうとしています。はるか昔の出来事の真実をつかまえる事は難しいものですが、せめて現代のことであれば理解できるに違いない。それが分かれば、「織部様式誕生」の様子が少し見えるかもしれないと思うからです。

さむしろ

NO1151に書きもらした部分がありましたので書き加えます。NO1145で書いたように「長次郎楽茶碗や織部様式茶陶」が肉体表現のみを参考に成り立っているとの考えではありません。いくつかの側面があると考えています。たまたま目にとまって例にあげたレオナルドの死体解剖にその一つの側面を感じたということです。

したり尾

それでは、私の話しの前に、さむしろさんから、その他に影響を受けたと考えられるものをお教え頂けますか。

さむしろ

言葉として繰り返し出ていると思いますが、「三点展開」が大変大きな要素であると思っています。安倍さんから、三点展開について繰り返し聞きましたが「これこれから影響を受けた」といえる確たるものは持ち合わせません。三点展開について安倍さんは、エル・グレコが二次元の空間にもう一点を加えて三角形による表現法を発見し・・・、と説明しています。言い方を変え、点と点を結ぶと線である。この線にもう一つ点を加えた三点を結ぶと面になる、とも説明しています。エル・グレコは1541-1614で、自身が目指した宮廷画家への道は開けなかったが、宗教関係者や知識人からは圧倒的な支持を得た、と解説されています。このエル・グレコの三角形による表現方法の考え方が宗教人を通して日本に届いたとしても時代的には矛盾はありません。

したり尾

エル・グレコがスペインで仕事を始めたのが1577年とされていますし、南蛮貿易は1543年、ザビエルの布教が1549年からですから、時代としては少々難しいかなと思います。私は、勿論、ヨーロッパの影響を否定するものではありません。例えば、桂離宮やその庭園などには、当時、京都に建てられていた教会建築や庭園の影響が見られると言われています。遠近法や黄金比がそれです。これは確かにルネサンスで、ヨーロッパで明らかになった技法であり、さまざまな分野に広がりを見せていました。しかし三点展開は、当時のヨーロッパで理論として広がっていたようなものではありません。ヨーロッパの文明の洗礼を受けた日本で、世界に先駆けて誕生したものではないかと、私は考えています。だからこそすばらしい。だからこそ、当時の日本人の美意識に目を見張るのです。文明と文明が出遭った時、それまでには全くなかったものが誕生することが時としてあるものです。こうしたことは我々の生きている現代でも起きています。

さむしろ

1543、1549年以後鎖国まで、幾人もの人々が入れ替わり立ち代り(当時のことですから、当初は数年に1度、その後、年に1度程度かと思います)日本を訪れたと理解しています。仮に1577年を起点としても1586年の宗易形茶碗登場までに9年あることになります。あの時代とはいえ十分な時間といってもいいのではないでしょうか。したり尾さんは三点展開は日本で誕生したのではないかとの説を述べられました。今のところその可能性を否定するだけの材料はありませんし、その可能性はあるかもしれません。それはそれとして、したり尾さんのお考えでは、長次郎楽茶碗や織部様式茶陶に加えられている造形は、三点展開理論のみで成り立っているのでしょうか?それとも他のルールも併存して成り立っているとお考えでしょうか?

したり尾

もちろん、茶碗ですから、例えば利休流であれば利休の指定する大きさなど、さまざまなルールがあるのでしょう。織部も同様。私は茶の世界は暗いので詳しいルールは分かりませんが。

さむしろ

質問が悪かったようです。大きさとかといった茶道具としてのルールではなく、「造形」上のルールのことで、NO1142~NO1147あたりでふれた意味でのルールです。三点展開と同列の意味でのルールというか、構成要素といってもいいかと思います。そんなものがあるとお考えか、あるいは茶碗を三点展開のみで組立てて(造形して)いくとあのような茶碗になるとお考えなのかということです。

したり尾

やはり安倍さんの言われる「三点展開」が基本でしょうね。しかし、三点展開を基本として作れば、誰でも長次郎のような茶碗が作れるのかといわれれば、そうではないと答えるしかありません。基本は押さえてあるのだから、茶碗として一応さまにはなるということです。

さむしろ

技術的な巧拙での話しになると本題からはずれてしまいます。三点展開のみと考えるか、他のルール(理論)もあると考えるかによって、その誕生の秘密を解きほどく道程は随分と違ってくるのではないでしょうか?

したり尾

「茶碗を三点展開のみで組み立てていくと、あのような茶碗になるのか」というご質問に、慎重にお答えしたつもりです。決して巧拙の問題を述べたつもりはありません。さむしろさんの聞かんとしている意味は分かりますが、実際には理論は作品を作るうえではひとつの要素ですから。繰り返して私の考えを述べれば、長次郎茶碗など織部様式のものは安倍さんの言われる三点展開が基本であると思っています。なお、相手は立体ですから、例えば織部茶碗の模様などのバランスは、展覧会など一面からしか見ることのできない場所でしか見たことのない私には、語る自信がありません。

したり尾

付け足します。さむしろさんが納得されなかった理由の一つは「基本」という言葉を私が遣ったためであろうと気がつきました。はっきり分かっていることのみを申し上げます。織部茶碗や志野茶碗の形は三点展開で、それらしいものは作ることができます。(絵付けは別ですよ)しかし、長次郎のものは非常に難しい。理論だけでは追いつかない。造形論だけではあれは作れません。おそらく茶碗の本質を追求する長次郎自身の姿勢があればこそだろうと思います。もちろん、利休の要求するさまざまな制限もあるのでしょう。私が「基本」という言葉を遣ったのは、長次郎茶碗と志野や織部を同時に語ることの難しさがあるからです。しかし、理論的には同根であることは明らかです。言葉足らずでしょうが、このあたりをご理解頂ければ幸いです。

さむしろ

未知の話をわからない者同士が語り合うのですから、なかなか理解しにくいのも仕方ないでしょうね。わからないだけにどうしても物足りなさが残る。それも止むを得ないかなと思います。「長次郎のものは非常に難しい」。わたしは作り手ではないのでよくはわかりませんが、確かにそうだろうと思います。安倍さんは備前三角花入(古備前三角花入と言われるもののうちの一点)が最高の名品だと言われる。そして、とても自分には及ばないとも。志野茶碗「峯の紅葉」の完成度も並みのものではない。抜きん出ていると思います。つまり長次郎の楽だけが特別であるとしてよいか、ということもあります。書き込みながら気付いたのですが、ただそのことは必要な「切り口」ではありますが、わたしの念頭にあった「切り口」とは少々異なっています。例えとして、ここに運動コートがあります。それぞれ数人づつ二手に分かれて戦います。大きいボール1コを使います。次いで手を使ってはいけない、となるとサッカーになります。床に落としてはいけない、となるとバレーボールでしょう。リトルリーグも高校野球もメジャーリグも同じ野球です。こまかい配慮はあるかもしれませんが、同じルールです。ルールが同じであればレベルの差はあってもプレーは同じものです。ルールが違えば別ものになります。このルールの部分は、織部様式解明の入り口でありあるいはゴールであるかもしれません。と同時にこの解明が安人作品の評価そのものに直結するのではないでしょうか。安人はうまいとか、安人はすごいとかいっても、どの程度うまい、どの程度すごいといっているのか千差万別です。安人評価を確たるものにするためにも、根気強く議論しながら明らかにしていかなければならないと考えています。

したり尾

いろいろ議論はありますが、私なりに今言える事は、長次郎は親であり、織部や志野はその子であるということです。同じ血を流れているが人格が違うのと同様、形になったものも違う。だからといって親子ではないという世間の言い方は、少々乱暴だなと思います。要するに基本的には同じ理論に基づいたものです。(ボールの話は私の読解力の不足のせいか、どうももう一つこの一連のさむしろさんの問題提起と結びつきません)もう少し書きたいこともあるのですが、今日は時間がありません。悪しからず。

さむしろ

長次郎が親ということですが、楽茶碗が親ということではないですね? どのようなルールの組み合わせから成り立っているかを読み解くことによって、長次郎楽茶碗、織部様式茶陶の誕生の経緯がおぼろげにでも見えてくるのではとの期待があります。思想の伝播が推測できるかもしれないからです。わたしも三点展開が基本だということを正面から否定しているのではありません。繰り返しになりますが、三点展開のほかにもルールがある、とすれば、理解しやすいということです。ただし、三点展開そのものの中に「三角による面」以外のルールも包含されているというのであればわたしの考えと近いあるいは同じかもしれません。ただ、桃山の時代に日本人の手によって世界に先駆けて「三点展開」による茶陶が作られた(茶陶は勿論世界で初めてですが、三点展開思想が世界で初めてという意味です)、という前提にたてば、わたしがいう他のルール云々はあまり意味をなさないかもしれません。「日本人の手によって」とした場合、「三点展開」以外の部分は制作者の技量、才覚、創造力ということになるのでしょうか?