長次郎が世界に先駆けて「三点展開」を生み出した(31)
したり尾

わたしは長次郎が世界に先駆けて「三点展開」を生み出したと考えているのです。もちろん、西洋の様々な刺激を受けてのことだと思いますが。(それは西洋の美術でなくてもいいのです。例えば建築物であるとか・・・。日本の建造物は線の集合体ですが、西洋建築は面の集合体です。例えばですが)そして、長次郎によって生み出された思想が、次の時代になって織部や志野の作家たちによって激しい「動き」のある、いわば抽象芸術へと発展していきました。「三点展開論」で大事なことは面の発見です。面をどのように組み合わせていくか。これこそ、それまでの茶陶には見られなかったことです。例えば長次郎の作品に「ムキ栗」があります。あれは四角い茶碗で一見三点展開とは無関係のようにみえます。しかし、面をどのように構成していくか、長次郎の格闘の痕跡であると理解すれば無関係ではないことが分かります。いずれにせよ、長次郎がいなければ、桃山の茶陶は存在しなかったことは明らかです。

さむしろ

長次郎が最初に三点展開による茶碗を作ったとのお説ですが、志野の制作年代は宗易形茶碗登場から10年ほど後のようですから、志野との関係においてはそうであろうと思います。備前茶陶(水指、花入を含めて)との関係はどのように考えられますか? 伊賀の場合は会記の記録から時代が下ることがわかりますが、織部様式備前茶陶の登場がいつ頃になるのかよくわかりません。長次郎が大きな役割を担ったことについては疑いはありませんが、主役であったかどうかについては、今のところ不明というのがわたしの見解です。

したり尾

備前茶陶については、記憶では利休所持のものがあるにはあります。しかし、確か、筒型の花入でいわゆる織部様式までには到っていなかったように思います。備前茶陶が大活躍するのは一般的に言われているとおり織部の時代でしょう。安倍さんがかつて「名品」の誕生について次のようなことを述べていられました。作家には「技術や理論」と「思い」がある。その二つの要素がたまたま同じレベルに達したとき名品というものが生まれるのではないか。「思い」ばかりが前に進んでも「技術や理論」が伴わないことはよくあることだし、「技術や理論」が高まると往々にして「思い」が薄くなる。両方が一致することは、ごく稀な事だ。しばしば作家のごく初期の作品にいいものが見られるのは、低いなりに「理論や技術」と「思い」が一致しているためだ。しかしその後「理論や技術」を学ぶにつれ「思い」とのバランスが取れなくなり、消えていく作家が多いと。そのときは作家でなければいえない言葉だと、十分に納得し、ただただ敬服していただけでした。確かに他の表現のジャンルでも、それは当てはまることです。しかし、そのことを長次郎に当てはめてみると、利休に指示された単なる職人ではあのような数々の名品を作ることは不可能だと気がついたのです。私が長次郎を高く位置づけるのは、このようなことがあったからです。別に黄門様の印籠のように安倍さんの言葉を使うつもりはありませんし、安倍さんが言われなくとも、未来まで残る作品が誕生し、ましてその後も影響を及ぼす作品が誕生するには、制作者の中にそれなりの理由があるのだと、私は確信しています。

さむしろ

安倍さんの「技術・理論と思い」の話は納得できる大変いい話ですね。確かに黒楽茶碗「俊寛」にたどりついた長次郎は名人であると思いますし、果たした役割も極めて重要なものであったと思います。ただ、そのことをもって三点展開を編み出したというには抵抗があります。備前茶陶については、出現がいつ頃か不明ですが、したり尾さんのおっしゃるように織部の時代として、「楽茶碗」の手法は、伝えた(教えた)のでしょうか? 盗まれたのでしょうか? 楽茶碗とは別に編み出した者がいたのでしょうか? それとも別の事情・原因があったのでしょうか? したり尾さんはこのことについてどのように考えられますか?

したり尾

安倍さんのお話の前提条件として、天から授かった才能はもちろん、作家自身の高い志が必要であることは言うまでもありません。さむしろさんの言われるとおり、私もそれだけで長次郎が三点展開を編み出したとは言いがたいと思います。しかし、19世紀末になるまで、ヨーロッパでは三点展開は一般的な技法ではなかったことを考えると、今のところ長次郎が、ヨーロッパ文明の何らかの刺激を受けて生み出したと考えるのが素直なのでないかと思います。備前茶陶のことです。織部様式の花入、水指は、備前に限らず、姿がよく似たものが信楽、伊賀、唐津、瀬戸など主な産地の作品に見られます。これらは全て別々に作られたと考えるのは無理がある。やはり安倍さんのお説のとおり、何人かの作家があるときは備前の土で、あるときは伊賀の土で作ったと想像しています。そしてそれらの作家は直接教わったのではなく、長次郎の作品から学び取っていったのでしょう。茶陶に限らず、師から弟子へという技術移転のルートと同時に作品そのものから学ぶということはしばしば起こっていることです。師から弟子へという技術移転の場合、弟子の作品は師のものと非常によく似てくるものですが、長次郎の作品と織部茶碗や、各地の花入、水指などにはあまりに大きな個性の違いがあります。これは基本的な考え方を直接作品から学び、我が物として自分の作品を作り上げていった証です。

さむしろ

したり尾さんのお考えが大分わかってきました。刀鍛冶の話で、焼いた刀をいっきに水(温湯?)につけるそうですが、その水(温湯)の温さ加減を知りたいために、手を入れた弟子の手を切り落としたという話がありましたが、秘伝は一子相伝などといって極めて大切にしていたのではないでしょうか? また出来上がったものは、上級武将、豪商など限られた人たちの手に入ってしまい、そうすると簡単に手にとってみるということが出来たかどうか疑問です。一番の疑問は、他人(長次郎)のものをみて作れるレベルのものだろうかということです。また、複数の者が習熟していったにしては品物の数があまりにも少ないと思います。

したり尾

歴史の流れの中で、数百年も価値を失わずに残る作品が少ないのは当たり前のことでしょう。たとえ大作家でも一生のうちで将来まで残る名品といわれるものをどれほど作り出すことができるでしょうか。私は、あの短い桃山期に良くぞこれだけ多くの名品が生まれたものだと思います。身分制度の話です。明確に身分制度が確立したのは江戸期になってからで、特に自由な京都では、たとえば天皇や上皇が、いうところのホームレスと一緒に桜の花の下で歌をを作って楽しんだ話などいくらでも残っています。(室町期の話です)公式と非公式とでは随分違うのです。田舎侍やお百姓までが天下を取れる時代だったではありませんか。利休にしてもただの町の商人ですよ。既成価値を壊し、自由な気風にあふれていたのが安土桃山時代です。また、長次郎焼は非常に流行ったようで、まるでそっくりな焼きと形の茶碗が数十と(数百だったかな)京都で発掘されています。一部は私も見たことがあります。(そっくりですがつまらないものですよ)つまり美の分野に関する限り、江戸期になるまでは想像以上に開放的でした。最も、今に残る名品を作った作家の数は、ごくごくわずかであろうとは思いますが。作品に接し、そこから美の秘密を発見するということは優れた作り手であれば必ずできることです。例を挙げろといわれるなら、いくらでも挙げることができます。世界の大作家たちはおおむね、そうやって学んでいきました。表現の歴史はそうやって作られていったのです。ここが一番肝心なところです。これだけは分かっていただきたい。百聞一見です!

したり尾

ぜひ付け加えさせてください。さむしろさんが抜きんでた名品と言われた「峯紅葉」の作者や、安倍さんでさえ及ばないと言われる「備前三角花入」の作者は、長次郎茶碗の制作の仕組みを理解できないとお考えでしょうか。これらの作者は只者ではありませんよ。安倍さんが織部様式の仕組みを発見されたのは、それらの作品に接したからでしたから。

さむしろ

数が少ないのは、長い年月、数多くの所持者の選別を勝ち抜いた作品だけが現代まで生き残ったからという意味でしょうか? 利休がただの商人であったとは思いませんし、自由の気風もどのような場面で、どこまで自由であったのか大いに?マークです。京都、焼き物や屋敷跡から多くの茶碗が出土したことは知っています。わたしは楽を含む一連の織部様式茶陶は、鍋島焼きのように極めて厳重に管理されていたのではないかとの想像をしています。峯の紅葉、古備前三角花入の作者は造形理論を理解できていたはずだからこそ、したり尾さんのご意見にもろ手をあげて賛成することができないのです。安倍さんは、楽も備前も志野も織部も伊賀・信楽も手にとってみることができました。(近・現代の多くの有名作家達もそうであったと思います)当時はそれはできませんでした。見ることができたとしても楽茶碗だけでした。天才安倍安人が、楽も備前も志野も織部も伊賀・信楽も手にとってじっくりみることができたからこそ気付くことができたと考えたいのですが、このことは是非安倍さんに聞いてみましょう。わたしの想像するあの時代の環境下で、まったく関係なく、ほぼ同時期にあのルールに気付き、一気にあの完成度に到るということが考えられないのです。したり尾さんと真反対の立場になりますが。名品を作った作家はごく少数であったであろうとの部分は同意見です。

したり尾

最近私の発言は長くなる傾向がありますので、反省して一点だけはどうしても伺いたい。さむしろさんは私の発言を「あの時代に『全く関係なくほぼ同時期に』あのルールに気付き、一気にあの完成度に到る・・・」と理解されたようですが、私がいつそのような書き込みをしましたか。数についてのご質問ですが、さむしろさんの言われるとおり、長い時間経過の中で消えるものは消えていったということでしょう。いろいろ申し上げたい点はありますが、すべていずれかの機会に譲ります。

さむしろ

わたしの理解不足や言葉足らずがあるようですので、少し読み返してご返事します。今時間がなくて走り回っていますのでしばらくお待ちください。

したり尾

相当お忙しそうですね。こちらは勿論緊急の用ではないのですから、どうぞ気になさらずに、まずはお仕事のほうからどうぞ。ゆっくり待ちます。

さむしろ

ご返事が遅くなりました。制作には数人がたずさわっていただろう、との考えは、わたしもしたり尾さんも一致しています。したり尾さんは「漠然と一種の芸術家集団の存在を想像」として、「ただこの存在は河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司」を例にあげておられます。わたしはこれから「群雄割拠」との印象を強く受けました。これに対してわたしは、「一人の名人がいて、その子や弟子が一団となって制作し」(NO1125)とし、一族、郎党をイメージしていました。したり尾さんはまた「作家は直接教わったのではなく、長次郎の作品から学び取っていった」(NO1171)と述べられています。これについて、「作家間においての指導はなく」と理解、このことから「作家間の直接の交流もない」のではとのニュアンスを感じてしまいました。そして「長次郎の作品から学び取った」を「各自がそれぞれ別々」に「長次郎の茶碗から学び取った」と理解しました。河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司を例に考えると「同時期」となりますが、桃山織部様式茶陶は約30年間あるわけですから、表現としてはふさわしくなかったとも思いますので、「全く関係なくほぼ同時期に」については、以上に述べたことからの発言であるとご理解下さい。以上の説明でご理解いただければいいのですが、発言の引用に間違いがあるときや意に反する理解をしているときは訂正をお願いします。

したり尾

丁寧なご説明、ありがとうございました。ひとつひとつその時その時にきちんと発言しておくべきだったかなと反省しています。例えば、NO.1124で私は「柳宗悦の下に河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司などが集い・・・」と書き込みました。彼らは群雄割拠というより切磋琢磨と見たほうが正しいのです。それぞれ作品の個性は随分違うものの、互いに議論し合い、影響を与え合いながら、一つの方向を向いて作家活動を続けたのですから。あの時は、さむしろさんの反応に違和感を持ったものの、それはそれとして話を進めてしまいました。あの例はよくないとのお話ですが、彼らも戦前戦後と数十年にわたって活躍していたのですから、それほど悪い例でもないのかなと思っています。このほか、いくつか、やや飛躍して受け取られたかなと思う点もありますが、あまりに長くなりますので省くことにします。私の漠然としたイメージは、数人の、何らかの形で焼き物にかかわり、それなりの技術を持った人間たちが、直接長次郎の作品に触れ、互いに影響を与え合いながら織部様式を完成させていったというものです。最後に伺いたいことが一つあります。さむしろさんは「わたしは『一人の名人がいて、その子や弟子が一団となって制作し』とし、一族、郎党をイメージしていました」と書き込まれました。この考え方は今でも同じでしょうか。それとも過去形で書かれたということは、今はそのようには考えていないということでしょうか。

さむしろ

「群雄割拠というより切磋琢磨」というのはわかりました。次の項もわかりました。したり尾さんのイメージは何となくわかりましたが、わたしの認識にある当時の時代的社会的背景の中で、どのような人々がどのような関係、あるいは結びつきから影響を与えあったのかイメージがわきません。わたしの一族、郎党のイメージについて、今も同じかとの質問ですが、今はより強くそう思っていますし、もう一歩進んで具体的イメージを考えています。

したり尾

私も、当時の社会状況がどのようなものであったのか、それが焼き物にどのような影響を与えたのか、具体的なことは何一つ分かっていないのです。しかし、私も徐々に私なりの考えも固まりつつあります。ところで、さむしろさんの方が、私より何歩も先に進んでいらっしゃるようです。具体的なイメージがどのようなものなのか、そしてなぜ、以前より強くそう思われるようになったのか、お教えいただけたら幸いです。私が先に愚見を述べろとおっしゃるなら、そうしますが。