ものはらⅡ部  伊賀焼の使用は意外に少ない(34)
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伊賀水指が手元の茶会記資料にでてくるのは随分遅い。伊賀花入がいつ頃からでてくるかについては、また調べてみたいと思う。

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茶会記(松屋会記(久政・久好・久重)、宗達他会記、宗達自会記、宗及他会記、宗及自会記、宗風他会記、宗湛日記、今井宗久茶湯書抜に現われた使用水指。(備前、信楽、瀬戸、伊賀のみ)
○→備前水指、×→信楽水指、セ→瀬戸水指、△→伊賀水指
1580 ×××
1581 ○×
1582 ○○×
1583 ○○×××
1584 ○××××
1585 ○○
1586 ○○×××
1587 ○○○○○×××
1588 ○○○○○××××××××
1589 ○○○○×××××セセセセセ
1590 ×××××セセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセ
1591 ××セセセ
1592 ○×セセセセセセセ
1593 ×セセセセセセセセセ
1594 ○×セセセセセセセセセセセセセ
1595 ○×セ
1596 セセセセ
1597 ××セセセセセセ
1598 ×セセ
1599 ○○○○××××××××セセセセセセセ
1600 ×
1601 ×××
1602 ×セ
1603 ×
1604 ○○
1605 ○×セセ
1606 ○○××××××××
1607 ××
1608
1609 ×セ
1610
1611 △○
1612
1613 ×
1614
1615

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伊賀水指が1611年になって初めて出たのには驚いた。
しかし、他の資料に、「『古織茶会記』によると、慶長6年(1601)から慶長8年(1603)にいたる間に七回使用している伊賀の水指(五回)や花生(二回、うち一回は三角筒花生)は、・・・」とあった。「古織茶会記」は是非とも見てみたい資料である。

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同じ「他の資料」からの抜粋。 伊賀焼の花生が茶会記に初めて登場するのは慶長七年(1602)正月九日で、古田織部の自会記に記されている。 -略- 。 慶長七年正月九日に古田織部が用いた「伊賀三角筒花生」(古織茶会記)が最も早い記録である。

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同じく「他の資料」からの抜粋。 -略- 、天正年間にすでに茶陶伊賀焼の焼造が始まっていたらしく、それを裏付けるように天正十九年に歿した利休が所持した花生が伝わっている。その器形は、織部好みと伝えられている一連の花生のように作為的ではなく単純な筒形で、あるいは利休好みかと推察させるものがある。 -略- 類例を求めると、「生爪」「羅生門」のような器形である。

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利休が所持していた伊賀花生が、生爪や羅生門のようなものであったというのであれば、わたしは、今段階ではその所持していたということに疑問を感じる。勿論その所持が事実と判明すれば大いに喜ばしいことではあるが・・・。

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利休が所持していたとされる伊賀花入れである。
解説に、
この花入れは背面裾に利休の花押があるもので、これまで古田織部とのつながりが強調されてきた伊賀焼きのなかで特に注目される作品である。かつて古田織部所持と伝える「生爪」花入と同じ姿の花入であるが、 -略- 、「生爪」とは対照的に侘びた趣きに焼きあがっている。 -略- 。
伊賀焼きの花入を考察する上で重要な作品である。

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NO32で疑問を感じているとしたことについて。
同じ「他の資料」に、
『南坊録巻七 滅後之巻』に「伊賀焼ノ置花入ニ水仙ノ初咲ヲ入レタル斗ニテ云々」と、武野紹鴎を招いての茶会に、利休が伊賀焼の花入を用いたことが記されている。とすれば紹鴎の歿した弘治元年(1555)以前のことになるが、『南坊録』は第一資料としては認め難いものであり、他の主要な茶会記にはまったく伊賀焼の名がうかがわれないので、-略- その記述をそのまま認めるわけにはいかない。 -略- 。
利休が用いたとの記録も今のところないようである。(NO30慶長七年1602といっている。)南坊録がまゆつばものであることは前々から云われていた事で驚く事ではないが、花押、箱書き付についても決定的なものではない。
かすかな手がかりを求めながら、わずかな疑問も無視できない。

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NO33の花入は「生爪」に極めてよく似ている。写真を見る限りでは織部様式の造形がなされているようにみえる。
「生爪」の先駆をなすものか?
あるいは「生爪」を真似たのか?
それとももっと別の経緯で生まれたのか?
利休の花押が正しいとすると、利休の死(1591)から11年後(1602)になって初めて茶会記に「伊賀」の名が出てくることをどう説明するか。

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NO28の茶会記のうち「松屋会記」は、久政、久好、久重の三代にわたる1530年頃から1650年頃までの茶会記(招かれて行った茶会の記録)である。他のものもそうだが、信憑性は高いものと考えてよいと思っている。NO28の茶会記に出てくることが絶対ということではないことは勿論だが、その茶会の時に存在したことの裏付としての意味は大きく、また当時の「はやり」を知るうえで大変貴重な資料であることは間違いないだろう。

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こんな記述を見つけた。
『紀州徳川家旧蔵利休自筆御茶会席』
天正十五年閏正月廿四日
一、 伊賀焼、水指置合。一、瀬戸くろちゃわん。
一、姥口のあられ釜、のかつぎ。
一、青螺の台に新瀬戸天目。
一、下の棚に、瀬戸の新しき円壺今織袋。
これについての解説文もあるが明日にする。

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NO38の解説(補注となっている)。 桂又三郎氏が紹介する紀州徳川家旧蔵の『利休自筆御茶会席』で、天正15年(1587)閏正月24日、利休が徳川家康をまねいた茶の席で、伊賀の水指が使われたという。
この資料はいわゆる利休百会記の原本と紹介されるが、利休の茶会記録である『利休百会記』は、利休の流れを汲む人たちによって編纂されたもので、異本が多く、各本が伝える年代も様々で、資料としての信頼度が低いといわれているようだ。桂氏が紹介する前述の資料も、原本が確認出来ない現在、年代などについては保留すべきと考えられる。 以上古伊賀と桃山の陶芸展図録、伊賀焼関係資料からの引用。

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伊賀壺は、天正年代から頻繁に出てくるようだ。

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「伊賀壺」は次のように出ている。
『天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自会記』
天正九年十月廿七日
同十月廿七日朝 徳雲(誉田) ト意(高石屋) 締九(馬場)
床 蜜(密)庵ノ墨跡 前ニ伊賀壺,(菓子遇テ),蓋しテ,(壺見セ申候),但,手水間ニ,墨跡・壺のけ候,
床 手水間ニかふらなし薄板ニ水仙花生而
解説には、
『天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自会記』は、堺の豪商天王寺屋津田氏の宗達・宗及・宗凡三代にわたる16巻からなる茶会記。記録される茶会の年代は、宗達の天文17年(1548)から宗凡の天正18年(1590)にわたる。そのうち『宗及自会記』には、天正9年(1581)10月27日を初めとして天正11年(1582)に至るまでの間に、伊賀壺に関する記事が頻出する。
とある。

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床に置かれた伊賀壺ということは「茶壷」として飾られていたと思われる。蜜庵は蜜庵咸傑(みったんかんけつ)であろうと思うが、そうであれば超ど級の大物である。
この当時「伊賀」の名で呼ばれていたことがわかる。このことから、伊賀水指や伊賀花入が別の名で呼ばれ或いは会記に記された可能性は消えたと考えてよいと思う。

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NO39の「古伊賀と桃山の陶芸展図録」のなかで紹介された「伊賀焼関係資料」は次のとおり。
 1.「伊賀筒花生 銘生爪」添状
 2. 同上箱書
 3.「伊賀耳付水指 銘破袋」
 4.「草人木」(1626刊)
 5.「古田織部正殿聞書」
 6.「宗甫公古織へ御尋書」(1604~1612)
 7.「古織会附」(1610~1611)
 8.「紀州徳川家旧蔵利休自筆御茶会席」
 9.「天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自会記」(1548~1590)
10.「松屋会記 久好茶会記」
11.「松屋会記 久重茶会記」(久政から3代で1533~1650)
12.「三国地誌」巻六十七(藤堂元甫筆1677-1762)
13.「藤堂家旧蔵記録」
14.「森田九右衛門日記」(1678~1679)
15.「隔みょう記」(1635~1688)
16.「槐記」(山科道安筆、1724~1745)
「1」と「3」が何年に書かれた書状かがわかるといいのだが、わからないようだ。

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4.「.草人木」は筆者不明、1626年に京都誓願寺前の源太郎という版元から刊行。茶の湯の手引き、入門書として編集。伊賀焼きのことは、古田織部による茶室における諸道具の配置を述べる段で記され、伊賀の水指と茶碗が登場する。
ということで伊賀茶陶誕生にまつわることは出ていないようだ。

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5.「古田織部正殿聞書」10巻は、「古織公聞書」「古織伝」などとも呼ばれる、織部の茶の湯の伝書。そこには、伊賀焼きの花生について、一度水中に入れ、濡色のまま花を生けるのが良い旨記されている。
同じく織部茶陶誕生にまつわるものは記されていないようである。

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6.「宗甫公古織へ御尋書」(1604~1612)は、
慶長9年(1604)から17年(1612)に至る間、小堀遠州が織部に茶の湯について尋ねた事柄、あるいは茶会の様子などを記録したもの。慶長13年(1608)正月と6月の織部の茶会に伊賀の水指が使用された記事を見ることができる。
となっています。この「宗甫公古織へ御尋書」が正しければ1608年には伊賀水指が存在したことになる。(宗甫公古織へ御尋書は、現在上田宗箇によるものとされている。後述)

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7.「古織会附」は、織部関係の茶会記録をまとめたもの。
「古織会附」は、慶長15年「1610」11月16日から翌慶長16年(1611)2月11日までの織部主催の茶会49回について記録する。この間、慶長15年霜月18日朝の茶会と同年霜月27日昼の茶会において伊賀の花瓶口の水指が使用されている。
49回の茶会で2度の使用は、ビックリするほど少ないと感じた。

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8.「紀州徳川家旧蔵利休自筆御茶会席」、9.「天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自会記」はすでに述べたとおり。
左の写真は伊賀耳付花生。解説に「珍しい事に底に花押が箆彫りされているが、その花押は1585から1608にかけて伊賀の領主であった筒井定次の花押と極めて類似していて、おそらく定次の花押と認めてよいものと思われる。」また「内箱の蓋裏に、利休所持 神楽(信楽)花入、と随流斎宗佐が書付している…」 とある。
この利休所持についても茶会記のなかで「伊賀花生」が出てこないだけに疑問は残る。