「宗甫公織部へ御尋書」は遠州でなく実は上田宗箇だった(35)
マスター

古くからの友人の光禅さんが立ち寄られた。そのおり、NO46の、6.「宗甫公古織へ御尋書」では遠州が織部に尋ねたとなっているが、それは誤りであり、すでにその誤りであることは証明されている、といった話をして帰られた。光禅さんには、是非ここで話してほしいとお願いした。織部様式茶陶とその周辺事情についても、まったく別の視点からの疑問をお持ちなので併せて参加をお願いした。

光禅

はじめまして。しばらくおじゃま致します。
「慶長御尋書」あるいは「宗甫公織部へ御尋書」として、従来まで遠州が織部に尋ねた聞書きとされた文書ですが、現在では龍谷大学大宮図書館から「茶道長問織答抄」が発見されたことで、浅野幸長が、上田宗箇を使いとして古田織部に尋ねたものであったことが判明しています。
内容的には織部らが工夫した、武家における御成(家臣が君主を自邸に招いて饗すこと)の茶事のこと、「織部格」と呼ばれた約束事などです。
しかし、それより何より興味深いのは、これが、関ヶ原に勝利した3年後の慶長8年に、家康が将軍として江戸幕府を開いてから、慶長19年、元和元年の冬夏の大阪の役に至る前年までの、約10年間の伏見城下での出来事であったということです。

さむしろ

これはまた刺激的な話でワクワクします。
「慶長御尋書」「宗甫公織部へ御尋書」「茶道長問織答抄」の三つは、その内容が同じということでしょうか?
一度定まった古文書の評価を覆するというのはそう簡単なこととは思えません。いくらかの物語でもあれば紹介して下さい。
「浅野幸長」「上田宗箇」についても紹介下さい。
「御成りの茶」ということは随分前ですが聞いたことがあります。
慶長8年は1603年、元和元年は1615年。どのような意味あいで興味深いのでしょうか?
当時の時代背景もかかわってくるのでしょうか?
あれこれ尋ねましたが、話の都合でおいおいに紹介して下さい。

さむしろ

関が原から大坂冬夏の陣の間の時代背景のおさらいのため「大坂の陣」で検索しました。
「大坂の陣白書」というサイトがあり、開戦までの軌跡や大坂の陣人物列伝など役立ちそうな記事がありました。「開戦までの軌跡」を読んでみましたが、いいおさらいになりました。
他にもありましたがチラッと見ただけで、どれが一番役立ちそうかはわかりません。

光禅

少々風邪を引き込んでしまい、物を書く気力を失っておりました。少し回復して来ましたので、追々に記してみます。
まず、「慶長御尋書」「宗甫公織部へ御尋書」「茶道長問織答抄」の三つは、その内容が同じかという件ですが、内容は全く同じで、龍谷大学大宮図書館の「茶道長問織答抄」の見返しに、「是より幸長古織殿へ御尋覚」と記されていることから判明したものです。また別本から幸長の自筆本まであり、その写本を遠州が作り前田利常へ献呈したことが明らかになっています。
このように一度定まった歴史的評価であっても、当初は「宗ケは宗箇でないと変だろう?」等との素朴な直感的疑問だったものから、裏付け資料の発見や見直しから覆っていくという一つの好例です。
したがって、安倍安人先生の提唱されている「織部の取り上げた桃山茶陶の名品は、一定の造形法則によって創作されている。」といった指摘や、あるいは、さむしろさんの「それならば、これらの名品は、ある限られた一部の陶工たちによって、はじめから天下の名器として特別に制作されたものだったのではないか?」といった仮説も、いつか従来の資料の見直しや新発見から、日本中世美術史の通説となっているかもしれませんネ(笑)
実は私も、さむしろさんの仮説も、大いに有り得ることだなと思っています。しかし私は、造形の共通性からではなく、この慶長年間という時代背景に対する認識と、伏見桃山城下での古田織部という人物や、それを巡る人々の役割認識などから、従来の美術史での見方に疑問があるからです。

光禅

まず、時代背景や従来の資料の解釈の見直しという点から、きっと将来、さむしろさんの仮説を裏付ける有力な資料の一つに成りそうなものとして、後の佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂が領国に送った書状があります。
これは『佐賀県資料集成』第九巻に収録されているもので、その文面の概要は、鍋島勝茂が黒田如水(官兵衛)とともに古田織部の茶会に招かれた折に、国許の唐津焼の肩衝茶入や茶碗が座を飾ったことを記し、その上で、その席中の話として「この唐津焼は、京都三条の陶工たちが肥前に赴いて焼いたものである。」と聞いて驚き、勝茂が国許に対して「むざとやき候ハぬ様可申付候(勝手に焼かさぬように申し付ける)」と厳命したという内容のものです。
黒田如水は慶長九年に伏見の藩邸で59歳で死去しているので、おそらく慶長七、八年頃のことと推測されています。
この手紙に登場する京都三条の陶工らが誰なのかは分りませんが、現在の楽家の所在地である油小路下から三条通りまで近いことからも、彼らが楽一族であった可能性も多分に有ります。少なくとも京焼きの陶工です。
またおそらく彼らは、古田織部の指揮に従って、佐賀の唐津だけでなく、美濃、瀬戸、備前、伊賀、信楽、丹波など、この慶長年間に主役となったそれぞれの窯に、同様に出かけて行って制作していたものと想像できます。

さむしろ

「むざとやき候ハぬ様・・・」については、以前ここで紹介したことがありますが、古田織部、黒田如水、鍋島勝茂については、私がみた資料には出ていなかったように思います(唐津藩主との記憶ですが、確かではありません)。書状の詳細を知りたいと永らく思っていましたが、ここで知る事ができて大変喜んでいます。
三人の当事者名とともに「京都三条の陶工」も大変重要な内容です。唐津以外、瀬戸、美濃、備前、伊賀などにも出向いた可能性についても同感です。茶会記から年月日がわかる可能性もありますね。
いきなりの重量級爆弾連発ですね。

さむしろ

その頃の織部の茶会ですが、
慶長4年2月28日、同年10月17日、慶長6年11月20日、慶長9年2月1日があります。
今、手元にある資料では使用された茶碗はわかりません。別の資料を調べてみます。

さむしろ

使用茶碗です。
慶長4年2月28日  高ライ茶ワン、セト茶ワン ヒツミ候、ヘウケモノ也(宗湛日記)
同年10月17日   高ライ茶ワン(松屋会記・久好)
慶長6年11月20日 今高ライ(松屋会記・久好)
慶長9年2月1日   セト茶ワン(松屋会記・久好)
慶長10年5月の茶会に「唐津ヤキ茶碗」がでてきます。(宗湛日記)
同年8月27日には「カラツ茶ワン」(松屋会記・久好)
としてでてきます。
黒田如水の没年迄では出てきませんでしたが、翌年には「唐津茶碗」が有り、「からつちゃわん」と呼ばれていたことがわかります。

光禅

そもそも唐津焼は文禄・慶長の役(朝鮮侵攻1592-98)を契機に発展した窯であり、茶会記などに唐津焼が登場するのは、慶長7,8年ころからです。
織部が唐津焼を初めて使用したのは、慶長7年12月14日となっています。
したがって慶長7,8年頃でほぼ間違いないと思います。なお、これから先は、全くの推理と私見となりますが、おそらく正式な茶事として招いたものなどでは無かった様な気がします。
それは、この当時の黒田如水といえば、家康の膝元の伏見城下にあったといえども、島津、毛利、あるいは長曾我部の残党や、加藤清正、福島正則など西方の勢力を結集し、あわよくば東に攻め上ろうと虎視眈々と狙っている西方勢力の中心人物として、徳川方からは危険視されていたからです。
一方、古田織部という人物ですが、信長、秀吉、家康に仕えた武将ですが、ほとんど武功らしき武功もありません。しかし織部の本領は使番としての敵方の説得交渉工作の才能と技術にあったのです。関ヶ原以後は徳川方として与し、大和井戸堂を領地として一万石の小大名となっていました。つまりこの頃の織部は、家康の使番がその本職としての役割分担だったのです。
つまり織部は、たとえば当時の織田有楽斎の様に、毒でも薬でもない様な、純粋な芸術的茶事三昧に耽っていたのではなく、むしろ日夜、家康の使番としての本業に真剣に取り組んでいたのだと私は思います。云わば、兵法指南役の柳生宗矩や、伊賀の服部半蔵のごとく、徳川家における特殊部隊の長だったのです。また大和井戸堂を領地として宛がわれたのも、柳生や伊賀との協調、連携への配慮と考えられます。
したがって私は、このときの織部と如水らとの出会いの真の目的は、徳川方の意を受けた織部の、如水らへの牽制、ブラフであったのだと想像します。
つまり「あなた方の領地には、もう既に充分な徳川方の間者達を奥深く潜りこませてあり、どの様な工作も可能な状況にあるのですぞ。」というメッセージを、織部一流の垢抜けた手法で、かつ着実にその現実を、まざまざと見せ付けた一場面だった訳です。

さむしろ

慶長7年の織部の茶会で唐津がでていましたか。その頃が、唐津が茶席に登場する最初であろうとのお考え、同感です。黒田如水、鍋島勝茂について少し調べて、そして読み返してみます。

さむしろ

黒田如水
秀吉が最も恐れ、また頼りとした。
三成挙兵の報を受け、まず加藤清正を味方につけ、小早川秀秋、吉川広家らと連絡を取り、九州制圧の準備をした。また、徳川家康にも音信を通じ、失敗したときの保険とした。などなど、稀代の策略家であったようです。
鍋島勝茂
関が原の戦いでは西軍に与して伏見城攻撃などに参陣したが、西軍敗退後、いち早く謝罪し、また筑後柳川の立花宗茂、同久留米の小早川秀包を攻撃したことから本領安堵を認められた。
これらの記述からみると、要注意の外様として監視下に置かれたしても不思議ではないようですね。
織部が特殊部隊の長というのも解かりよいですね。
「全くの推理と私見」の続きが楽しみです。

光禅

最初に誤解の無いように断っておきますが、私は古田織部という人は、個人的には好きな人物の一人です。
それは、戦国武将として、遂には大名にまで列せられるのですが、敵将の生首を斬り取って功名を揚げるとか、手柄を立てるとか云われた、おぞましい戦国乱世の只中にあっても、「もしかしたらこの人は自らの手で人を殺めたことが無かったのではないのだろうか?」と、つい思ってしまうような、類稀なる温厚な平和主義者に思えるからです。
ましてや、現代においても、より一層高く評価され、多くの人々を魅了する、その普遍的な芸術性や、卓越した審美眼については疑う余地もありません。
ただ、近年の美学史家達が提唱される織部像として、「利休無き後に、太閤秀吉の認知によって天下一の茶の宗匠となり、自由な創造性に満ち溢れた桃山の気風の中で、各地の窯において自発的に工夫された茶陶等を、その芸術的実力において当時の茶人達から篤い支持を受けた織部が、茶の湯における社会的権威の第一人者として、その独自の審美眼で選択していったものが、織部様式の名品の数々である。」といった見方に、若干の疑問があると云うことです。
どうも私には、古田織部という人の持つ、「多くの人々を魅了する、その普遍的な芸術性や、卓越した審美眼」と、信長、秀吉、家康ら天下人の使番としての「敵方の説得交渉工作の才能と技術」とが、同一の表裏一体のものだと感じられます。
共にどちらも、心底から平和的解決を切望する温厚な人柄から発し、困難な時代の中で命がけで練成せられた、希代の「人の心を魅惑する技、スキル」に違いありません。つまり、もし戦国における評価が、主として武力による戦闘成果でなされていたとすれば、それに対して織部は、例外的に平和的文化力による成果という評価で、戦国武将として小大名にまで成り上がった訳です。
そこで織部の、この慶長年間という時代、伏見城下という場所等においての、その織部の手法とその軌跡の一端を大胆な私見として推理し、一部の資料から、その検証を探ってみたいと云うだけなのです。

さむしろ

成る程、そのような役回りも有り得ますね。

マスター

慶長御聞書の写しを入手しました。(NO56参照)

マスター

NO75の慶長御聞書が、従来、遠州が織部に尋ねた聞書きであるとされていたことに、(多分)最初に「それは違う。聞者は上田宗箇でないとおかしい。」と言い出したのは光禅さんだったようです。
そして聞者が遠州でなく上田宗箇であることが認められるまで、およそ15年を要したそうです。
光禅さん、理解が違うところがあれば訂正して下さい。

光禅

かならずしも私たちだけが云っていたのでも、おそらく最初でもないのだと思います。
頻繁に「宗ケ」が登場するのが、上田宗箇のことだろうとの推論はあったと思います。しかし24・5年前当時は、確かに「宗ケ」は、「宗家」で、小堀遠州のことだというのが通説でした。
そして因みに、私が現在、問題にしていることは、「それならば、なぜ、当時は紀州の国主であった浅野幸長がこれを編纂し、かつ自筆本まで作ったのか?」という理由のことです。
まず、
慶長8年(1603)2月に征夷大将軍の宣下を受けた家康は、わずか2年後の慶長10年4月には将軍職を秀忠に世襲しました。
そこで記録によると家康は、慶長9年4月に浅野幸長邸への御成を手始めに、結城秀康、池田輝政、金森長近、伊達政宗、藤堂高虎の各邸を訪問しています。
「慶長御聞書」は、慶長9年5月13日朝から始まっています。
したがって私は、この家康の浅野幸長邸への御成が関係しているものと思うのです。
つまり、この時、家康が、浅野幸長に対して、徳川将軍としての、新しい権威ある「数寄の御成」の基本様式を工夫し、作成することを命じたのだという推理です。
そして、二代秀忠が将軍としての御成を催したのが、家康崩御後の翌年、元和3年(1617)5月13日に前田利常邸においてでした。
この時の御成が「数寄の御成」であったことは記録にあります。
そして「慶長御聞書」は、遠州を通じて前田利常へ献上されたことが明らかになっています。
このように、これはまだ今は、全くの推論ですが、ストーリーの流れと時代は一致します。
次に、家康は、「なぜ浅野幸長に対して、『数寄の御成』の作成を命じたのか?」という疑問です。
ここでいよいよ、上田宗箇の登場となるのですが、長くなるので今夜はこれで筆を置きます。