ものはらⅡ部 「佐賀県史料集成」第九巻「三條之今やき候者共」(36)
さむしろ

NO63で紹介された「佐賀県史料集成」第九巻を探しました。古書をインターネットで探しました。三十巻セットで60万円程度、第九巻を含む十巻セットで十六、七万円。とても手が出ず、またバラもありません。出版元の佐賀県立図書館の蔵書検索でも出てきません。検索の結果、国会図書館、福岡県立図書館にあることがわかりました。しかし、両方とも私方から随分遠いんです。
ところが、急にふって湧いたように北九州に用事ができたので、急遽、福岡県立図書館へ行ってきました。インターネットで調べた書誌詳細表示に史料番号、請求記号等がでていましたので、すぐに出してもらうことができました。閲覧場所は1階でも2階でも空いている席でどうぞということでしたので2階へ上がることにしました。途中、張り紙(?)があり「職員に声をかけていただければお調べのお手伝いができるかもしれません」といった意味のことが書いてありました。

さむしろ

午後1時前から調べ始めました。九巻というのがわかっていましたから、そんなに時間はかからないだろうと思いながら、ほかにも参考になる書状があるかもしれないと思いながらゆっくり調べました。ところが全ページが終わりそうになっても出てきません。そしてとうとう最後まで出てきませんでした。そんなはずはないと、それから3回ほどでしたか最初から見直しました。勿論スピードを速めてです。それでも見つかりません。
待てよ、と思いつき序文を読み直してみました。そうすると、元々の史料は一旦整理され、一巻、ニ巻、三巻とあり第九巻もありました。あ、そうか、元の史料第九巻が収蔵されている十巻を出してもらおう。最初1階のカウンターで借りたのですが、張り紙の「手伝い」の言葉が思い浮かび、2階のカウンターで相談しました。するとすぐに十巻が出てきました。

光禅

さむしろさん北九州にご出張でしたか。随分苦労して探されたのですね。私も云い出した手前、もう一度資料の記載を確認して見ましたところ、やはり「佐賀県史料集成」第九巻に収蔵となっていました。
それで結局、鍋島勝茂の「むざとやき候ハぬ様可申付候」の消息文は見つかったのでしょうか?

さむしろ

今度は大丈夫だと、手馴れたこともあってスピードをあげて1ページから繰っていく。おかしい、そんなはずはない、これにもない。
そんなはずはない、と二度三度繰り返してみても出てこない。時計をみると4時をだいぶ過ぎている。ほとんどあきらめ状態ながら、また一度二度と繰って、4時20分ごろになってとうとう諦めて帰ることにした。(つづく)

さむしろ

先ほど相談したカウンターの方、年配の女性だが、にこやかに「いかがでしたか?」と声をかけられ、ダメでしたと答える。しかしその方の表情が「話してごらんなさい、お手伝いができるかもしれませんよ。」と言っているように見えた。
「多久家文書でいいのですね?」
「はい」
「だれの書状ですか?」
「勝茂だったと思いますが、直茂だったかも・・」「慶長7,8年9年までのものです」
他の巻も出してみましょう、と出してもらった十一巻をペラペラとめくってみるとなにか雰囲気がよいがありそうにない。「多久家文書ですから、多久市郷土資料館に尋ねればわかるかもしれませんよ」と住所、電話番号を調べてくださる。目次をみると年代ごとになっている。時計をみると4時40分。思い当たる年代を、それこそ斜めに読んでいると「古織」の文字が目に飛び込んできた。「あれ」、前後をさがすと「むさとやき」があるではないか。「あ!これです。」
該当部分のコピーをお願いし、心からの感謝の気持ちを申し述べ、5時前に図書館を出た。
福岡県立図書館と、お手伝いをしてくださった年配の女性の方に重ねてお礼を申し上げる。

さむしろ

少々前置きがながくなりましたが本文を紹介しましょう。
爰元へ不入候間、馬九疋差下候、とれもわりき馬ニ候条、うらせ候て可然候、
将亦、此比如水同前ニ古織殿其外方ゞへすきニ参候處ニ、其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん座に出候、其ニ付而、三條之今やき候者共、其地へ可罷下様承候、此中も罷下、やかせ候て持のぼりたる由候間、むさとやき候ハぬ様可申付候、恐々謹言、
  二月十日    信守 勝茂(花押)
 生三まいる

光禅

「事実は小説よりも奇なり」といいますが、さむしろさんの文章も、ほとんど内田康夫の推理小説なみですね。
それにしても、元の本文は、色々と面白いですね。
まず、「三條之今やき候者共」は、楽家のことと解釈しても、問題なさそうですね。それに複数です。
「今焼き」の呼称は「聚樂焼き茶碗」と称されるようになり、さらに豊臣秀吉から「樂」の印字を賜わったことによって、後の時代に「樂焼」「樂茶碗」と称されたものです。当時の茶会記などでも「樂焼」を「今やき」と記載されていることもあります。
「唐人やき」も「唐津焼き」ですね。
また、「やかせ候て」ですから、誰かが焼かせてですね。直接、織部とは云っていませんが、如水のほかには古織殿しか登場しませんので、間接的に織部の指揮を示唆しています。
なお、「如水」が敬称なしなのに対して、「古織殿その他の方々へ」と丁寧に記していることから、この時の、伏見桃山城下での古田織部の立場が推察できます。万一、この書状を徳川方に見られても、申し開きが立つようにという、勝茂の配慮が見て取れるようです。
さらに巻頭の、「爰元へ不入候間、馬九疋差下候、とれもわりき馬ニ候条、うらせ候て可然候」は、「私が国許に居ない間に、馬九匹を上方(かみがた)方面から購入したようだが、どれも悪い馬なので、売っぱらってくれ。」でしょうか?
これはおそらく、当時の騎馬武者が「一両の具足甲冑と馬一匹」から「一両一匹」と呼ばれていたことから、ここは「自分が国許に居ない間に、騎馬武者を九名新たに召抱えたようだが、何れも徳川方の息がかかった疑いのある者どもなので、早々に解雇せよ。」と、まず書状の巻頭で留守居の国家老に申し付けているのでしょう。
さすがに、後に「鍋島化け猫騒動」のモデルとなった、主家乗っ取りの張本人である家茂だけに、素早い判断と動きを見せているようです。

光禅

整理してみますと、この書状には、「おそらくは古田織部が、京都の楽家と思われる陶工たち数名を、佐賀藩内の唐津焼きの窯場へ派遣して、茶道具を焼かせて持ち帰った。」ことが記載されていることに成ります。
後の佐賀藩主が、当時の国家老か誰かに送ったものですから、大変信憑性の高いものです。登場人物の如水の没年(慶長9年)と、唐津焼きの茶道具の出現から、慶長7、8年頃と、時代もほぼハッキリと特定できます。
また、当時、佐賀藩等の唐津焼きの窯場では、朝鮮から陶工を呼び寄せるか、拉致して来て制作に当たらせていたのですから、佐賀藩としては、一級の産業秘密の一つだった訳です。あわてて国許に処置を命じている様子が読み取れます。
したがって、「新しい技術を求めた陶工たちが、自らの自由意思で、東西を奔走していた。」などということは、けっしてなかったはずなのです。
いずれにしてもこれらの解釈によって、少なくとも「唐津焼き」については、さむしろさんの仮説は、早くも一つの重要な裏付けが取れてしまったことになりましたね。
言い換えると、もう既に現時点において、この仮説を否定することは、かなり困難なものになってしまいました。学術上の新説のレベルに、着実に近づきつつある手応えすら感じています。(笑)

さむしろ

そうですね、どのレベルかは別にして、すばらしい資料が入手できました。
爰元へ不入候間、馬九疋差下候、・・・の部分ですが、私は関係のない話で、当初は削ろうと思ったくらいです。光禅さんの解釈、さすがと思い反芻していました。その結果閃いた私の解釈です。
「わたしが国許へ入らない間に、(大坂方から)馬九疋を差し下されたが、どれも悪い馬のようだから、売らせてしまってもよろしい。」
豊臣、徳川双方に対しフリーハンドを確保するのが当時の立場かなとも想像しましたが、(書状紛失に備え)徳川に対するゼスチャーとも思えますね。
「差下候」を「さしくだされそうろう」と読み、解釈を、目上から目下への与え物と読みましたがはたしてどうでしょうか。
「其元へ罷居候唐人やき候」は第十一巻欄外の見出し書に「肥前在住唐人の作陶」としていますので、朝鮮人(の陶工)を「唐人」と呼んでいたと理解しました。唐津焼についてのノウハウは産業機密であったとの説は同意見です。
「三條之今やき候者共」も光禅さんと同様の解釈ですが、他に「今やき」を焼く者達がいたかいなかったか、注意しておく必要があるように思います。古田織部の指図も同じ見解です。いきなり佳境に入ったようですし、時代背景ともマッチしていますね。その辺りの解説を期待しています。

光禅

「爰元(ここもと)へ不入候間、馬九疋差下候、・・・の部分の解釈については色々ととれそうですが、おそらくこの書状を持たせた者に具体的な処置を言い含めておいたのだと思われます。
私の解釈だったとしても、「早々に解雇せよ」などといった手ぬるい処置でなく、戦国の九州のことですから、本当に「新規雇用の九名の騎馬武者ども全員を捕縛し、奴婢(奴隷)として朝鮮半島に売り払ってしまえ。」と云う命令だったのかも知れません。もしそうだとしたら、織部はこの時、彼らの徳川方関係者から、恨みを買ってしまった可能性も有りますね。つまり後になって、徳川方が九名の騎馬武者を佐賀藩に密かに潜入させたという情報を、この時、織部が勝茂にリークしてしまったという疑いを持たれた可能性です。潜入させた者どもを処分されたことに対する恨みが、勝茂でなく織部に向いてしまったということです。
なおこの書状がすぐに焼かれたり、破棄されること無く、今日まで保存されたのも、おそらく主君からの緊急の厳命を証明するための証拠として、密命を受けた国家老か誰かが、自らの保身の為に大切に保管していたからでしょう。

光禅

当時、他に「今やき」を焼く者達としては、京都の有来(うらい)新兵衛という人の名があります。
有来新兵衛については、富岡大二という人の研究があり、社団法人日本陶磁協会発行の『陶説』という月刊誌のNo.378~387(1984年11月号~1985年8月号)に連載で掲載されているそうです。
有来新兵衛は、京都三条柳馬場に居を構える当時有数の貿易商(糸割符商人)だったそうです。また茶陶も商いし、有来屋敷跡と思われる場所からは、信楽、美濃のやきものの他、それ以外の各窯業地に焼かせた茶陶類も数多く出てきたそうです。
しかし私は、彼自身で作陶位はしたかもしれませんが、新兵衛本人が、陶工というレベルであった可能性は低いと思います。ましてや織部桃山茶陶の名品にみられる「一定の造形法則による創作技術」などは、とても持っていなかったと思います。
しかしながら、織部指示の特注品創作には、有来新兵衛という人物が深く関わっていたものと想定されます。
有来新兵衛と古田織部との関わりについては、桑田忠親の『古田織部の茶道』(講談社学術文庫)に、「慶長年間に織部が新兵衛という者に命じて作らせた茶入に『さび助』というものがある。これは、備前焼の茶入であり、備前焼における織部好みの進出とみてよかろうと思う。」とあります。『さび助』は、確か南青山の根津美術館で、私も何度か拝見しています。
したがって、「三條之今やき候者共」を有来新兵衛の関係者達だったとみることも出来るかと思います。

さむしろ

近年、京都で多数出土した茶陶をよく調べてみる必要があります。楽茶碗も多数出土しているようですが、それらを分析すれば、長次郎(及び一族)以外のものが作ったと思われる茶碗があるかどうかわかると思います。
陶説の連載は数年前にみました。本を借りたので、ゆっくり読むつもりでコピーをしました。ただ、今現在行方不明です。有来新兵衛屋敷跡から出土した茶陶類についても、一定の法則に則っているかどうか調べれば面白いですね。
備前物についてですが、会記によると1580年代になると備前筒花入がでてきます。1587年には「備前物の新しき花瓶」がでてきます。
今の感じでは、伊賀・唐津よりも早く「織部様式」茶陶が焼かれはじめたという気がしています。手元の資料でも、よく見てみればまだまだ色々なことが見えてくると思います。
有来新兵衛と古田織部との係わりや作陶も、大きな研究課題です。

さむしろ

インターネット上の古本屋で「佐賀県史料集成、古文書、第十一巻」があり、注文していたところ、今日届きました。

さむしろ

肝心の鍋島勝茂の書状です。何時のものか正確にはわかりませんが、花押、印判、書風その他によって慶長7年の2月10日であろうということです。
書状は生三宛になっていますが、生三は国家老のようです。

さむしろ

「へうげもの」という題の漫画が連載されています。ガソリンスタンドで洗車待ちの時間に手にとった週刊誌に載っていて読みましたが面白かったです。数週間後、別の週刊誌で、今一番読まれている漫画として「へうげもの」を挙げていました。インターネット上にも「へうげもの」に関するものが多く、「古田織部」の検索が随分増えているようです。単行本では1.2.3まで出ているようですがよくわかりません。「へうげもの」の紹介記事の転載です。
古田織部を主人公とし、戦国時代を描いた作品である。この類の作品は合戦などの「武」を描いたものが多い中、へうげものは戦国時代に珍重された茶器などが多く描かれた「美(文化)」に重きを置いた作品である。

光禅

「へうげもの」は「週刊モーニング」の連載のようですね。単行本も出ているのですか。お正月に炬燵に入って読んでみます。古田織部が主人公とのこと、とても楽しみです。