古田織部の役回りを推理する(37)
光禅

話が変わりますが、「茶乃湯六宗匠伝記三之巻」という書物に、古田織部の京屋敷の所在地として「堀川通三条の南と藤堂和泉守殿京屋敷古しへ織部の宅地也」と記されています。
古田織部の京屋敷が「堀川通三条の南」、有来新兵衛の屋敷が「三条柳馬場」、楽家が「油小路下」と、三者の距離は1キロ前後の圏内にあります。(もっとも織部の伏見下屋敷は、伏見、木幡ですが・・・)
藤堂和泉守は藤堂高虎で、慶長13年(1608)に伊予から津・伊賀の領主として移封され、大阪方(豊臣)に対する重要拠点として軍備の町を築きました。
天正12年(1584年)頃に、当時の伊賀領主の筒井定次が古田織部に茶陶を焼かせたとされています。これを「筒井伊賀」ということでよかったでしょうか?
また「藤堂伊賀」は、二代藤堂高次の時代なので、寛永12年(1635)頃とやや時代が下りますね?
したがって、織部桃山様式の伊賀焼の名品は、この間の時代で織部在命中(慶長13年(1608)~慶長19年(1614)頃)に制作されたということなのでしょうか?
なお三者の距離が近いこと以上に興味深いのは、織部の京屋敷の後を藤堂高虎が、居宅としていたことです。このことは、両者の深い関係を物語っています。
つまり遠方の敵地である九州佐賀藩内の唐津焼きの窯場にさえ陶工たちを派遣して、茶道具を焼かせていた位ですから、高虎が領主である伊賀なら、織部は何でも出来たということでしょう。
また藤堂高虎の娘婿が小堀遠州です。のちに寛永年間(1624~1644)に小堀遠州が指導して製作したものを「遠州伊賀」といい、古いものよりもかなり瀟洒な造形ですね。

さむしろ

三者は、物理的には日常的に接点を持ちうる状況にあったということですね。
筒井伊賀、藤堂伊賀のことですが、茶会記の古いところでは茶壷しか出てきません。伊賀花入が出てくるのは慶長年間も大分下るようですから、よく整理してみる必要があります。光禅さんご指摘のように、慶長13年から慶長19年の間ではないかという気がしています。
古田織部と藤堂高虎が非常に近しい関係にあったということは重要な意味がありますね。

光禅

古田織部の居宅としては、文禄3年(1594)に秀吉が伏見桃山城を築城したのと同時に、伏見に上屋敷、木幡(こばた)に下屋敷があったようです。なお小堀遠州は六地蔵に屋敷があり、織部の木幡とは隣接しています。
遠州は慶長2年(1597)年に、19歳で藤堂高虎の養女(藤堂玄蕃、嘉清の娘)を娶っています。
また、元和元年(1615)に織部が失脚して切腹した直後、織部屋敷は、藤堂高虎が接収しています。
実はこのことは、私はとても大きな意味を含んでいる様に思えるのです。
ここからは全くの推理と私見ですが、藤堂高虎が家康により、慶長13年(1608)に伊予から津・伊賀の領主として移封される以前から、おそらくは、後に江戸幕府での伊賀同心支配役(忍者集団の頭領)で有名な服部半蔵ら徳川方の特殊諜報活動隊との、伏見と京における連携活動の拠点として、この古田織部の木幡屋敷と堀川通三条の南の京屋敷とが位置づけられていたのではないでしょうか?
そして藤堂高虎の伊賀移封以後は、さらにその意味合いは加速したと思われます。
つまり当時の織部屋敷は、いわゆる家康配下の伊賀者達(忍者集団)が、常時出入りし、寝起きしていた拠点だったのではないのか? ということです。
すなわち当時、織部屋敷での茶会とは、実はこうゆう意味合いと目的が始めからハッキリあったのではないか? ということなのです。そして伊賀の里は、伊賀者たちにとっては、その本拠地です。
したがって、この二つの屋敷には、単に茶事を催す為の小間、広間、鎖の間、路地等のみならず、忍者屋敷としての設備とシステムが完備されていたので、その秘密維持のために、高虎がそれぞれの屋敷の後を引き取っていたのだという推理です。
古田織部と藤堂高虎との深い関係とは、実はこういったことだったのではないでしょうか? そしてさらには小堀遠州も、この同一線上にあるわけです。

さむしろ

大変興味深い推理です。
織部屋敷における茶の湯が、単に好き者のなぐさみや遊びではなく、もっと生々しい虚々実々の駆け引きや取引の場であったかもしれない、というのも納得できるような気がします。

光禅

さらに大胆に、この線で「全くの推理と私見」を推し進めて行くと、
結局、当時において、「織部桃山様式の茶陶の名品」とは、一体何だったのか? と云う疑問に行き着きます。
もしかするとこれは、この慶長年間という、関ヶ原以降の東西冷戦時代において、東西のグレーゾーンで揺れていた数々の武将や政商達を繋ぎ止め、あるいは調略する目的で、徳川方が秘密裏に特別に制作させた物 (美術芸術作品) だったのではないだろうか? と云う疑問です。
いわばそれは、徳川方における 「文化的特殊兵器」 の一つだった? という事です。
例が悪いかもしれませんが、現代において云うと、北朝鮮における 「喜び組」 などは、かの国においては明らかにこの類の、「文化的特殊兵器」 と位置づけられているもののようですネ・・・(笑)
そして当時は家康の使番的存在であった古田織部が、家康の密命 (あるいは認可) によって、その制作を担当し、さらにはその使用裁量権を与えられていたのではないか?
そこで古田織部は、徳川幕府の権威と権力をバックとして、極数名の選りすぐった陶工・画工のスタッフ達を指揮指導し、伊賀者らの警護を付けて、唐津、美濃、瀬戸、備前、伊賀、信楽、丹波などの窯に、次々と派遣して制作していたのだということなのでしょう。
したがって、もしそうだとすると、現在でも有名で、そして極めて高価な美術的価値を有するこれらの名品が、「どういったルートと経緯で、古田織部から誰に伝来して行ったのか?」を辿って行くことで、その使用目的意義が判って来るかもしれませんね?
また織部周辺の人間関係、あるいは織部の茶会記に登場する人物や、時期、連客の客組みや、道具組みなどを、この線で見直してみるのも面白いかもしれません。きっとまた何か別の、新たなる物語が見えて来そうな予感がしています。

さむしろ

なるほど、「喜び組」ですか。強力な兵器ですね。わたしも一度呼ばれてみたい。
ほかにも日本から輸出禁止になった高級時計とかワインとかぜいたく品がそれにあたりますね。
特に伊賀ものが印象深いのですが、会記にほとんど出てきません。そのことは、亭主(茶会の主人)として会記にでることのない人達が「名品(茶陶)」を所持していた、との想像をさせます。
名品たちの伝来のルート、客組みについては大いに興味があります。

マスター

あけましておめでとうございます。ことしもよろしくおねがいします。

光禅

あけましておめでとうございます。
「へうげもの」単行本1・2・3巻、さっそく購読させて頂きました。
さすがに人気漫画だけあって、私ども以上に大胆に「全くの推理と私見」を展開されておられ、とても楽しく読ませて頂きました。
しかしまだ、慶長年間まで至っていないので、
「 織部屋敷 = 忍者屋敷 」 だった、
という我々の卓見については、紙面ではまだ確認できませんでした。(笑)
なお、「 織部屋敷 = 忍者屋敷 」の推理は、単に古田織部と藤堂高虎との関係からだけではなく、上田家伝来の古図面にも有る様に、その広大な織部の路地の好みからでもあるのです。
つまり例えば、千家の路地についていえば、外路地から内路地へと小さく狭くなり、さらに小間の茶室の潜り戸へと導く様に設計されており、内路地などは、坪庭的です。
したがって、その路地の手入れや、三炭三露の打水なども、亭主と他一・二名の補佐人がいれば茶事が行なえます。
それに対して、織部の路地は広大なため、亭主の他、少なくとも十数名の慣れた補佐の人数を要することになります。
また「御成り」を意識しているのですから、手入れや打水だけでなく、警護の必要もあったのではないでしょうか。
そうなると、「その任にもっとも相応しいのは伊賀忍者集団ではなろうか?」ということなのですが、いかがなものでしょうか?
さらに例えば、
何処方ともなく犬やけものの如く人の気配を察知して、「近づいて行くと、スッート音も無く貴人口が開かれる。」などといった演出も可能になる訳です。
そしてこの「何時の間にか人を引き込んでしまう、何とも心地よい時空間の演出」こそが、百戦練磨の武将達や政商達にとっては、「極限の隙の無さ」として、反面ある種の恐怖と映り、行き着く先、徳川将軍家への脅威と服従へと繋がるという計算なのです。
つまり、
【 ★ 刀槍矢玉に拠らず、「一分の隙の無い茶事への誘い」と云う、極めて平和的手段によって、「全身全霊の文化力を駆使して敵を屈服させてしまう。」というのが、この慶長年間という東西冷戦時代での、織部一流の大戦だったのです。】
もしかすると「水打ち木戸」などの裏方、水屋の工夫なども、元々忍者屋敷の発想から来ているのかもしれませんね。

光禅

『目の眼』昭和59年7月号,昭和58年1月号に、有来新兵衛の特集記事があると聞いたのですが、もしかして、さむしろさん お持ちではないでしょうか?

さむしろ

あけましておめでとうございます。
光禅さん早いですね。わたしも「へうげもの」を注文していますが、今日届く予定です。
確かに露地の作りも異なりますね。単に好みの違いということより発想の違いが大きいような気がしてきました。
「目の眼」は持っていません。探してみなければいけませんね。

さむしろ

へうげもの1~3巻いっ気に読み終えました。確かに大胆な推理と私見でしたが面白かったですね。今後、慶長期に入り、織部様式茶陶の誕生そして役割と、それらに古田織部がどのように関わったとするか興味津々です。