家康と茶の湯と織部(38)
光禅

話があちこちして申し訳ありませんが、この辺で、No.78の続きについて、少しずつ記述していこうと思います。 「慶長御尋書」、「宗甫公織部へ御尋書」あるいは「茶道長問織答抄」についてです。
家康がなぜ、「浅野幸長に対して、『数寄の御成』の作成を命じたのか?」ですが、まずその前提として、「そもそも家康という人は、茶の湯に関心があったのか?」について考察します。
家康については、例えば「へうげもの」(古田織部を主人公とした『週刊モーニング』の連載漫画)などでも、「質実剛健、倹約家の実戦派で、茶の湯などと言った贅沢華美なものは性に合わない三河の無骨な古武士」といったイメージで描かれています。
しかしこれは、後の江戸幕府が次第に財政難となり、倹約令を発布するような事態となった時、「質実剛健で倹約家の東照大権現様」といった威光を借りる為に、まったく時の権力によって都合良く作り上げられた神君家康の偽の人物像です。実際の家康は、まったく違います。
第一に、今川義元の駿府での人質生活時代の家康(幼名:竹千代)ですが、「人質生活の辛酸を舐めた」などと云ったことなどでは全くありません。当時の駿府では、京都を脱出した公家や文化人が多く、各地から集められた人質同士の交流も盛んで、現代で云えば、全寮制のエリート学校への留学のようなもので、むしろ超一流の文化サロンでの文人的な優雅な生活だったのです。
また伏見城天守閣の屋根裏に茶壷を格納し、口切りまでの茶の越夏法について講じていたりしています。さらには自筆の名物茶壷目録まで編纂しています。そして実質的に天下人として君臨していた、慶長5年(1600)~崩御した元和2年(1616)の16年間には、相当数の唐物名物を収集していました。後の柳営御物のかなりの物を収集していた訳です。
この様に家康の実像は、むしろ軟弱な文人派のエリート御曹司だったのです。三方が原の合戦の折の敗走、命からがらの神君伊賀越え、関ヶ原での島津軍の中央突破、大阪夏の陣での旗印を捨ててのまさかの敗走etc.家康には最後まで脱糞して敗走するイメージすらあります。
反面、家康の本当の強さとは、その生来の引込み事案な慎重さと疑り深さだったのです。そして広く深い教養から思慮された、様々な政策の企画構築力と、その実行力にあったのだと云えます。
「温室育ちの臆病で慎重な官僚的な文化人。」がその実像です。
したがって、茶の湯には暗く、嫌っていたなどと云うことなどでは全く無く、むしろ極めて精通していたと考えられます。そしてその恩賞としての価値については、誰よりも理解して使いこなしていたのです。ですから、家康が、「浅野幸長に対して、徳川将軍としての、新しい権威ある「数寄の御成」の基本様式を工夫し、作成することを命じた。」という推理は、十分妥当性をもって成立します。因に、家康が古田織部とは本質的に反りが合わなかったと云うのも嘘です。むしろ家康と織部は、年齢的にも、性格的にも、本質的に馬が合ったものと考えられます。

マスター

上田宗箇の茶亭「和風堂」の古図です。
露地と山が一体になっているように見えます。
これらをもとに織部屋敷を推測すると、光禅さんの言われるように広大なものであったと思われますね。

さむしろ

光禅さんの推理とお説、これまで知らなかったことが多いのですが、全体的にうなずけますね。
続きを待ちます。

光禅

No.109に続きます。
話の反れついでに、織部自身も「へうげもの」(古田織部を主人公とした『週刊モーニング』の連載漫画)などの記載では、「時の権力にも媚びない反骨漢の変人」と云ったイメージで描かれていますが、そんなことはなかったと思います。むしろ、この慶長年間には、有る意味、織部は、忠実な家康側近の一人だったと云うべきだと思います。
あるいは見方を変えると、大御所 家康の天下とは、西の豊臣家や豊臣恩顧の諸大名たちと、東の二代将軍 秀忠の江戸幕府との間にあって、その絶妙なバランスの渦中においてこそ初めて、その存在価値が成立していたのだということなのです。
この時代は、まだまだ実質的には時として兄弟はもとより、子が親を、親が子を、家臣が主家を討ち取る様な、下克上の戦国だったのです。
当然、天下の権力の中枢にいた家康と云えども、決してその例外であるはずがありません。
また、関ヶ原以後の大名配置を見ると、京都から江戸との間だけは、親藩・譜代で固めています。関八州、駿府、遠江、三河、甲斐、信濃の旧領、濃尾、越前、近江からは織田・豊臣系の大名を追い出して西国に移しています。これを見ると、せめて東国だけでも確保したいという、いたって防衛的な意図が見えます。とてもまだまだ、徳川家による全国制覇などでは無かったのです。
したがって私の「全くの推理と私見」では、後に起きた織部 更迭による詰腹も、確かに家康の名の下で挙行されたのですが、実はこの事件は、大阪城落城を前にして、二代将軍 秀忠の江戸幕府の力が勝ってきて、反面、家康の実力が衰え、その存在価値を無くしつつあったことを如実に示しているのだと思います。つまり、時代が移り変わったと云うことなのです。
織部は最後まで家康と共に生きていたのであり、そして共に滅んで行ったのです。したがって、「織部の処分を本当に命じたのは、秀忠とその周辺の側近達だった。」ということになります。
そして家康は家名と子孫の繁栄を残し、織部は一世を風靡した天下一の茶の宗匠としての名声と、「織部桃山様式の茶陶の名品」等の美術品を世に残したのでした。

さむしろ

古田織部が茶頭として大変な名声と権勢を得ていたということはいろいろな資料から明らかです。東西の「絶妙なバランス」が織部の持つ力を最大限発揮させる場をつくり、かつ発揮させたということですね。
しかし、わたしには「一分の隙のない茶事」(NO105)という発想はありませんでした。でも、それも肯けます。

光禅

No.114に続きます。
この時代の大名の条件について、少し考察して見ます。
第一に、一万石以上の石高の所領地の領主であることですが、それだけでは十分条件とは云えません。従五位下以上の位階、従五位下以上相当の官職を朝廷から拝賜し、殿上人の貴族に列するというのが次の条件でしょう。
さらには、威力が誰にでも分るのは城です。次には、名馬、飾り太刀、甲冑等の武具でしょう。また、印判の使用などもあります。
戦国乱世には文武両道などとはまだ云いませんが、文化や教養も一つの大きな戦力でした。
そこで茶の湯や連歌の素養となりました。
したがって、唐物や名器を所持することや、主家から名刀を拝領することなどが、一つの権力と権威の象徴だった訳です。