西欧の美に対する価値観と東洋の美に対する価値観(4)
したり尾

面白そうな話ですね。やがて私も参加させていただきたいですね。少し、話を戻しましょう。例の唐招提寺展の後、ふと気になって西洋美術館のロダンの作品を何点か観てきました。西洋美術と東洋美術の違いが気になったからです。まず強く感じたのは「ロダンの作品は、なんと醜いものだろう」ということでした。猛烈なエネルギーは感じるのですが、決して美しいものではない。(私はロダンが大好きです)これはだいぶショックでした。70年代に小林秀雄と岡潔の有名な対談があったのですが、その中で岡潔が現代美術は、決して美しくないと語っていたことを思い出しました。ついでに、ギリシャ彫刻も観ましたが、やはり美しくない。普段の生活の中では美しく感じるものが、この時は逆になってしまったのです。もちろん、これは正しい評価とは言い切れないのでしょう。数時間、東洋の美の世界の中にいて、その基準で西洋美術を見てしまったから、強い拒否感が出てしまったに違いありません。それにしても、美の基準というものは幾つもあるのだということを改めて確認しました。さて、安倍安人の話です。彼は、絵画と焼き物、西洋美術と東洋美術の世界を行ったり来たりしている。ということは、二つの美の基準を同時に持っているということになる。(19世紀以降のアジア人は多かれ少なかれ、そのような二重の価値基準の中にいるのですが)安倍安人の「理」は、絶えず別の世界から、見ざるを得ない二重の世界に生きている作家の宿命なのかもしれないと思いました。イチローも、また、アメリカという異文化社会の中に飛び込んで、大きく花を咲かせました。彼はその社会で大きくなればなるほど、武蔵に例えられるような日本的「求道者」のイメージが強くなります。複数の価値基準の中で生きることの面白さを、今、考えています。

さむしろ

ロダンの作品が醜いというのは、近くから見ると醜く見えるということですか?また、武蔵の話がでましたが、古来達人を求道者といった言い方をするような気がしますね。これにはわたしも異議はありませが、本質の部分は理であり、それをささえる自信、信念、執念、精神的な強さの側面の姿をみて求道者というのかな? というとりあえずの感想です。昨日今日と花粉症にまいっています。

したり尾

花粉症、たいへんですね。実は、私も同じです。部屋の中でもマスクです。ロダンが醜いという意味は、彼が描く世界が醜いという意味です。多分、あの時、西洋の絵画を観ても、醜いと感じたのだろうと思います。そのように感じたということです。立場を変えれば、美しく感じていたものが醜くも見える。ヨーロッパとの比較はしばしばやりますが、アラブの基準から見れば、アジア的なものはどのように見えるのでしょうか。いずれにしても、様々な価値基準からものを見てみるというのは面白いことです。そのほうが世界が広くなり、新しいものを生み出すことができると思えるのですが・・・。

さむしろ

「ロダンが描く世界」ということは絵画上のことですか?

したり尾

ロダンは彫刻家ですから、絵画上ではありませんが、表現上という意味だ理解とします。その上で言いますと、ひとつは何を表現しようとしているかということです。特に、19世紀以降の西洋美術の多くは、昔の地獄絵図にたいへんよく似ています。ロダンの彫刻が地獄絵図にあっても少しも不思議ではありません。あれは、美しいとは言えませんものね。もうひとつは個性ということでしょうね。簡単に言えば、「俺が俺がで嫌になる」というところでしょうか。無名の工人達が造った仏像を観た直後でしたから、余計にそう感じたのです。お断りしておきますが、柳宗悦のように無名であるから美しいとは思いませんが。

さむしろ

ロダンといえば“考える人”を思い浮かべますが、それと「彼が描く世界」とがつながりません。彫刻は通常個ですから顔が醜い、手、足が醜い、上半身が、下半身が醜いと考えてしまい理解不能です。いっ個の彫刻によって表現される世界、言い換えれば彫刻から受けるものが醜いということでしょうか?ある程度離れてみると造形、表現、醸し出す雰囲気が素晴らしいが、近くでみると醜いものだ、ということでしょうか?歌舞伎の女形は遠くからみるとなかなかいいが、楽屋で面と向かったら興ざめだ、ということだとわかりやすいですけどね。

したり尾

どうも私の表現が拙いようで、少々歯がゆい思いです。私の申し上げたいことは、彼が表現しようとしているものは何かということ、つまりテーマです。たとえば、情欲であったり、○○欲と呼ばれているものであったり、あるいは、そこから生まれてくる苦しみであったり。それこそ、地獄絵図ではないでしょうか。現代美術のテーマには、そうしたものが実に多い。それを観て感動する自分がどこかおかしい気がしてきましたもので。たまたま私の見たものがロダンでしたが、別にロダンでなくてもよかったのです、現代美術であるならば。なお、「考える人」は「地獄の門」と題した大きな彫刻の一部です。それは象徴的なことでした。

さむしろ

「表現しようとするテーマ」ということであればわかりました。家族の団欒はホームドラマにはなっても小説の題材にはならない。小説の題材としては事件、悲恋、汚職などきれいでないものを取り上げているように思いますが、このようなことと理解していいでしょうか?

したり尾

最も近いものは、週刊誌や夕刊紙のタイトルです。あの世界では、醜いものをこれでもかこれでもかと、白日の下に晒している。それはとてつもないエネルギーのある世界でもあります。極楽にはあまりエネルギーは感じませんが、地獄には異常なエネルギーを感じますものね。しかし、私はロダンの描こうとしていたものを否定しているのではありません。西欧と東洋では、これほど美に対する価値観が違うというこを再確認したということです。よく、日本では、侘び寂びといって、必ずしも美しいとは言い難いものを珍重するといわれます。しかし、一見、美しくないものでもそうしたものから見えてくる世界、あるいは目指す世界は、なにより美しい世界であると思います。それに比べると、西欧の美の目指すところは、表面は美しく見えて、実は醜悪なものである場合があります。なかなか難しい問題ですが、要は何を目指すか、つまり何を志すかということだろうと思います。今申し上げたことは、必ずしも私が結論づけたことではありません。書きながら、別の考え方も成り立つぞとも思っています。

マスター

「芸術」は必ずしも「美を表現」するものではない。すなわち「芸術」=「美」ではない、という視点でみるのは違いますか?

したり尾

やはり「美」なんです。ロダンにしても、最終的には「美」の世界に辿り着こうとしているのです。そうでないと、週刊誌とロダンが同じものになってしまいますしね。ただ、辿っていく道が違うのだと思う。昔から、ヨーロッパでは、醜悪なものの果てに美や理想像を見出そうとする流れがありました。その辺が、仏教的な世界と、キリスト教的な世界の違いなのだとも言えるのです。しかし、不思議なことにお茶の世界では、必ずしも美しくないものに「美」を見出そうとしています。その点では、お茶はヨーロッパ的と言えない事もありません。

さむしろ

辿り着くところは「美」である、の部分がわかりません。怒りの発露であったり、恐れ、喜び、哀しみ、楽しみの表現であってもいいではないか、と。ただ、その喜怒哀楽の表現をとことん突き詰めていった先、研ぎ澄まされた究極には「美」となった喜怒哀楽がある、といったことなんでしょうか?喜び、怒り、哀しみ、楽しみを表現したものであれば、それはそのまま喜怒哀楽と受け止めたほうがわかりやすいのではないかとの感想です。「美」とすることに「無理やり」を感じます。

したり尾

ルネサンス以降、美しいものは、あの世ではなくこの世にあるというように目の向け方が変わりました。ルネサンスは「人間復興」と翻訳されます。人間生活の中にこそ「美」があるというの西欧の芸術の根本思想です。初めのうちはミケランジェロやダビンチに代表されるように人間の理想像を主に描いていました。しかし、現実には、人間の生活は美しいものばかりではない。絶えず苦しみが襲ってくる。そうしたもの全てを描くことこそ、芸術の役割である。近代の西欧の芸術の思想は、このように変わっていきました。繰り返しになりますが、求める世界は「美」なのです。さむしろさんに、なかなかご理解いただけないのは、もちろん私の表現の拙さにあります。しかし、こうした西欧の美術の思想の難しさにも、少しはあるのかなとも思います。あまりややこしい話に、はまり過ぎてしまいましたね。もう少し、きちんと整理できてからお話すべきでした。申し訳ない。