伊賀茶陶(54)
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ついでだが伊賀耳付花生、銘「からたち」は前田家伝来となっている。この花生にも織部からの添え状が添っていたのではないかと想像したい。

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なぜかというと、伊賀花生「生爪」に添え状が添っている事はよく知られているが、同じく上田家に伝わった古芦屋桐地紋釜にも織部の添え状がついていたようである。

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残念ながら写真の写りが悪く添え状の内容はわからないが、いつかどこかで読めるものが見つかるのではないかと期待している。
(鮮明でない図録の写しを見たため読めなかった。)

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そういえば以前、書状を見たときに、「相手に直接手渡すとき意外は使いのものに書状とともに品物を届けているんだな」と思ったことがある。

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古伊賀に筒井伊賀、藤堂伊賀という呼び方がある。
筒井伊賀が重厚な桃山様式の古伊賀、藤堂伊賀は重厚味を失った茶陶伊賀という分け方をしているように習ってきたと記憶している。

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中央公論社「日本の陶磁」伊賀・信楽・丹波から。
藤堂元甫の「三国地誌」(宝暦13年)に「瓷器 丸柱製 按ズルニ伊賀焼ト云是ナリ。古ヘ本邑ト槇山村ヨリ出ヅ。茶壷、水指、茶入、茶碗、花瓶、酒瓶ノ類ナリ。茶道ヲ嗜ム者愛玩ス。又槇山窯ト称スル者アリ。又山道手ト云モノアリ。筒井定次ノ時焼、又アシタ焼ト云モノアリ。是等ヲ皆古伊賀ト称ス。大抵江州信楽焼ニ類ス。云々」とあり、
藤堂時代は丸柱で焼造、槇山窯では筒井定次の時代に焼、さらに足駄焼(下駄底か?)もあり、これらをみな古伊賀と称すと記し、藤堂時代の丸柱窯と、筒井時代の槇山窯とを分けているようである。伊賀上野城内の古窯については記していない。
同書では「山道手ト云モノ」については触れていないが、どのような意味なのか興味がある。楽茶碗の口縁が波打っているのを山道と言っているからである。

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同じく同書に、『同地誌に「筒井定次ノ時焼」と記しているが、花生や水指など茶陶伊賀焼は、その作風から推して天正13年(1585)に筒井定次が伊賀の領主となった後に焼かれたように思われる。
確かなことはわからないが、おそらく当初は槇山窯で、その後定次の居城の伊賀上野城内にも窯が築かれるようなったのではないだろうか。
その間両者がともに行われていたか否かは判然としない。しかし、両窯とも織部好風の作品を焼造しているので、筒井定次が慶長13年(1608)6月に改易されるまでの24年の間、ことに天正年間末期から文禄、慶長にかけて茶陶伊賀焼の多くが焼造されたと推測されるのである。
この種の窯の寿命をおよそ20年とする考察に従えば、筒井氏の改易と時を同じくして筒井時代の古伊賀焼は終ったものと思われる。』
といったことが記されている。

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同じく同書から。
織部の茶会記録から、慶長6年から8年にいたる間に7回使用している伊賀水指(5回)や花生(2回、内1回は三角筒花生)は、年代的にすべて筒井伊賀であったといえる。

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同じく同書から。
上野城内の古窯跡は昭和10年の水道工事の際に陶片や窯道具が出土して窯跡であることがわかった。
矢筈水指、重餅水指、花生などが出土、藩主の御用窯であったと推測される。

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同じく同書から。
筒井定次改易後、領主となったのは藤堂高虎である。上野城内の古窯跡は筒井時代と推測しているが、藤堂時代との説もある。
しかし筒井氏は後断絶しているので記録の不詳は当然だが、藤堂氏には何らかの記録があってもよいはずだのに全くない。作風からも筒井時代と見るほうが妥当のように思われる。城内の窯だけでなく、高虎在世の慶長13年から寛永7年の間の消息が判然としない。

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同じく同書では、
元和9年銘の沓茶碗から、引き続き茶陶が焼かれていたことがわかる。
筒井氏改易以後、高虎時代に古伊賀と同類のものを焼きつつ、作風が変化していったと考えるほうが妥当。
高虎時代の記録はまったく残っていないが、二代高次時代の伊賀焼については、藤堂家の古文書に明確に伝えられている。
と記している。

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筒井定次とはどのような人物であったのか?

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以下、筒井定次についてインターネットで調べた結果である。いずれが正しいか、どこまで正しいか、についてはわからないが、おおよその人物像はつかめるものと思われる。
①定次は関ヶ原の戦では東軍に属して、本領を安堵されたが家臣の提訴によって改易、さらに大阪城の豊臣秀頼に通じていたことが発覚し、子とともに自殺を命じられ筒井氏は断絶した。

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②天正十二年、筒井順慶が病死し、養子定次が家督を継ぐ。同十三年、伊賀上野へ転封となり、中坊飛騨守は家老として伊賀国へ従った。
ところが、伊賀に移った後筒井定次は酒色に耽り、やがて人心が離れていった。天正十五年二月に筒井家の重臣森好高、同年三月には松倉重政、翌十六年二月には島左近父子が筒井家を去り、あとに残った大和以来の重臣は中坊氏くらいとなった。
その後、慶長五年(1600)に関ヶ原の合戦が起ると、筒井定次は東軍に属し、西軍方の島左近の軍とも戦った。
戦後、定次は伊賀一国を安堵されたが、遊興は止むことがなく、政道も不平が多く、家臣も互いに確執するところがあった。かくして、慶長十三年(1608)六月、中坊秀祐はこれを駿河に訴えたため、筒井氏は改易、定次は陸奥岩城の鳥居氏に預けらる。

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③定次改易の一件に関しては、大坂城の豊臣氏を討とうと画策する家康にとって伊賀の筒井定次は邪魔な存在であり、飛騨守をして讒言させて取り除いたのだとする説もある。
たしかに、定次が没落したのち飛騨守秀祐は奈良奉行に任じられ、また吉野において三千五百石を賜った。飛騨守讒言説もにわかに真実味をおびてくるが、真相は薮の中というしかない。

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④定次の改易の理由を『慶長見聞録案紙』などには、「不義」とあるのみだが、当時伊勢亀山城主であった松平忠明の記録といわれる『当代記』も中坊飛騨守の讒言と考えられる定次の「行跡」は「常に被官以下にも対面せず、山中に籠って鹿狩りばかり云々」とあり、いわゆる定次の奇行がうかがえる。

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⑤キリスト教に受洗。関ケ原では東軍に属したが、居城は西軍により落城している。
戦後も大坂方の大野治長と誼を通じるなどしていた。1608年にキリシタン信仰や家臣の内紛もあり、中坊秀祐の讒によって改易され、陸奥岩城の鳥居忠政に預けられた。
その後大坂方と連絡を取ったとされ、大坂の役冬の陣後に息子順定とともに切腹を命ぜられたという。

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茶席に登場する伊賀を見ると、
天正9年 (1581)10.27 伊賀壺
天正15年(1587)1.24  伊賀焼、水指置合(利休百回記)
慶長6年 (1601)1.29  伊賀焼の水指
慶長7年 (1602)1.9   三角ノ伊賀筒
慶長7年 (1602)5.13  水指伊賀焼
慶長8年 (1603)4.29  伊賀焼水指
慶長8年 (1603)5.23  伊賀焼ノ筒
慶長16年(1611)9.9   イカヤキ水指
などがある。

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古伊賀を焼成したと考えられる窯跡は、槇山窯、丸柱堂谷窯、上野城内窯の三つが確認されるのみのようである。
槇山窯は造成に伴っての発掘調査で窯の一部分と出土遺物が確認された。
丸柱堂谷窯は未調査のまま消滅、僅かな出土陶片が残るのみ。
上野城内窯跡は工事中偶然に陶片が発見されたが、再調査が不可能な状態で、そのときの出土陶片もほとんどが行方不明となっているようだ。

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槇山窯    筒井定次時代から藤堂高虎時代にかけて。
丸柱堂谷窯  製作技法から槇山窯より新しく、美濃伊賀の最盛期に平行する慶長10年代以降が考えられる。
上野城内窯
出土陶片はかます2袋あったというが、現在、僅か完成品1点と復元された水指2点を含めて水指2点を含めて水指、同蓋、花入の陶片類のみで、その他の陶片や窯道具類は散逸してしまったという。
出土品は生爪と類似する花入、耳付矢筈口水指、らい座瓢形水指。
上野城は定次追放後藤堂高虎によって大改修が行われ新たな上野城が構築されている。陶片が出土した場所は、城内の北東隅の小丘に位置して筒井時代の天守があった高台にあたり、藤堂の築城に際しては地形の改変が少なかったところで、藤堂以前の筒井時代の遺構であることは間違いないところと思われる。(茶陶の美②桃山の茶陶・淡交社:井上喜久男氏)

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また、井上氏は、上野城内窯跡の出土陶片は、製作技法の比較検討から三窯跡のなかでは一番古式の造形を持ち、編年的に先行する窯跡と推定される、とも述べておられる。

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伊賀茶陶の茶会記への登場は、NO503を見る限りあまりに少ない。天正9年の伊賀壺、天正15年伊賀焼水指は織部様式のものとは別物と考えてよいだろう。
織部様式のものと推測してよいであろう花入、水指が6回しかない。決して人気がなかったわけではない。

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伊賀焼茶陶についても、ある期間試行錯誤をした後に完成したのではなくいきなり完成品が造られたと考えている。
つまり造形について完成された技量をもつ長次郎一族によって造られたと考えたい。
そしてその登場が1600年末から1601年初頭。1601年1月29日に使われた伊賀水指がほぼ最初あるいは最初に近い登場であったと考えたい。

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上野城内窯について、
「藤堂以前の筒井時代の遺構であることは間違いない」
「出土陶片は製作技法の比較から一番古式の造形」
と書いておられるが、どうも引っ掛かりが残る。
織部と筒井定次の関係はどうだったのか?

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二人の関係が非常によい状態であればそれもありうるかもしれないが、織部にとって極めて重要な戦略品を定次の掌中、城内で、それも窯を造らせてまで焼かせたのかという疑問が大きく残る。
先に述べたように定次の評判は決して良くはなかった。

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ひとつの可能性ではあるが、最初に槇山窯で焼いたが何らかの不都合があり、城内に窯を築いて焼かせた。というのはどうか。
この場合でも定次への大きな信頼がなければ成り立たないのではないだろうか。

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話としてわかり易いのは、藤堂の時代になって城内に窯を築いた、との考え方である。
ただ、織部が槇山窯で焼いているのを見て、定次も焼きたいと思い城内に窯を築いた、ということも可能性としてはないことではない。そうであれば、このことが定次の国替への理由の一つとなった、という話につながっていくかもしれない。

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窯跡出土品が散逸してしまったことは大変残念である。
備前など他の窯跡では、織部様式名品茶陶の陶片さえ出ていないといわれている。
伊賀だけは別であったのか? それとも、それらは職人によるコピー品の陶片だったのか?
陶片が散逸したことが悔やまれてならない。

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花入「生爪」の添状から日付がわかれば大きな参考資料になるのだが、添状には大晦日とあるのみで何年であったかは解らない。

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NO509で「出土陶片は製作技法の比較から一番古式の造形」という見解があることをを紹介した。
上野城内の窯が織部の関わりの元で築かれたのであれば、焼かれた茶陶は長次郎一族により作られた戦略品のみであったと考えた方が納得しやすい。そう考えると、「古式」といわれるものであるのは当然であって、そのことのみをもって、必ずしも古い時代に焼かれたとはいえないのではないか。勿論、今段階では古い時代に作られた可能性を否定するものではない。

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古伊賀茶陶について、いくつかの本を読んでみたが結局よくわからない。
だが、古伊賀茶陶の誕生は、
「慶長6年(1601)1.29、伊賀焼の水指」の記載から1600~1601.1頃と考えてよいと思うようになった。

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備前の場合はもっとわからない。織部様式で作られた備前茶陶の最初のものがどれかどころか、いつ頃かさえわからない。

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してみると古伊賀は三つの窯のいずれか、それは複数かもしれない。製作年代は1600~1615でほぼ間違いない、というところまでは解ったといってもいいのではないか。

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仏花器形の古伊賀花生がある。
解説によると、底に花押が箆彫りされていて、その花押が定次の花押と極めて類似しているという。おそらく定次の花押と認めてもよいものと思われる、とも書いてある。
定次の花押が正しいとすれば、上野城内の窯が定次の時代に築かれた可能性が高くなると考えていいだろう。

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NO505で、上野城内窯跡からの出土品中に水指2点と花生1点が確認されていることを紹介した。写真でみた限りでは「コピー品」よりも「アート品」との印象が強い。
これまでここでも述べてきたが、備前にしても唐津にしても美濃にしても、名品茶陶の陶片は出土していないという。
伊賀だけは違うということか。

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唐津茶陶の場合、今ヤキ工人を唐津へ行かせ焼かせて持ち帰らせていたとの書状がある。
備前茶陶についても、備前に行かせ、焼かせたことも大いに考えられる。しかし、備前は数度焼きであり相当長期間になる。

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そのために途中で現地にまかせて帰京。十点なら十点、どのような焼き上がりでも(例え失敗作でも)、全てを送り返させる。
また、京で作り備前へ送って焼かせる。備前では、焼き終わると、十点なら十点、どのような焼き上がりでも(例え失敗作でも)、全てを送り返す、
といったことが行われていたのではないかと想像したい。

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そのような方法がとられていたので、各窯跡からは陶片さえ出てこないのではないか。
ところが、伊賀は違う可能性がある。
カマス二袋の発掘陶片が散逸せずに残っていれば多くのことが明らかになったはずである。

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上野城内窯で茶陶以外のものを焼いていたとは考えにくい。考えられないと言ってもいいだろう。
そうするとカマス二袋の陶片は織部様式のものであったのか、コピー品であったのか、NO519で紹介した仏花器形花入のようなものであったのか?
それとも混在していたのだろうか?

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地図をざっと見たところ、京と伊賀上野の直線距離と、京と大坂との直線距離はほぼ同じ位である。
この距離であれば名品伊賀の作者たるアーティスト(ここでは長次郎一族を念頭においている)は、度々伊賀に赴いて制作を行ったと考える事が出来るのではないか。

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各窯跡から陶片が出てこないことの原因として、十点なら十点、どのような焼き上がりでも(例え失敗作でも)、全てを送り返させる、という方法をとっていたのではないかと述べた。
そのような方法をとる理由は、作品を抜き取られないようにするためである。また、造形の秘密を盗まれないためという理由もある。

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NO529が正しいとすると、残してあっても差し支えがない状況があった、あるいは送り返せとの命に従わなかったことなどが考えられるが、すべて藪の中である。
織部が毎たび伊賀を訪れていたのであれば納得できる。また、定次が「裏の組織の一員」として重要な役割を担い、織部からも強い信頼を得ていたのであれば考えられなくもない。
その強い絆を頼りにNO494~NO499のように酒色、放蕩に耽ったのか?

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たまたま目にしたのだが、H20.6.15日本経済新聞の美の美。
舟木本洛中洛外図屏風の作者といわれる岩佐又兵衛。
又兵衛は、信長に一族を皆殺しにされた戦国武将荒木村重の息子に生まれた。乳母の手によって運良く難を逃れた又兵衛は、京都、福井、江戸とさすらう数奇な生涯を・・・・・作品を描いた。
と、名を変え、運よく生きのびた岩佐又兵衛のことを記している。
思うに、いかに覇権争いの真っ只中といえ、しかるべき武将あるいは名だたる芸術家や職人工人はその生涯が知れ渡っていたのではないか。残っていないということは、秘密の部分として当時から秘されていたと考えられないだろうか。

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長次郎茶碗、織部様式茶陶の実体はまったくといっていいほど伝わっていない。筒井定次についても、うつけ放蕩の中身が伝わっていないことが逆に定次の関わりを感じさせる、とは考えられないか?

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古伊賀茶陶の確かな年代を知るのには、茶会記あるいは書状への登場とその日付である。
しかし茶会記では年月日ははっきりとわかるが、どの花入あるいはどの水指であったかはわからない。
書状では生爪花入と破れ袋水指の添状が有名である。
「古田織部の書状」伊藤敏子著を読み返してみた。
上田宗箇宛て、花入「生爪」の添状から年代を推測できないだろうか、との思いからである。

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宗箇宛て「生爪」の添状が何年頃のものかについて、伊藤さんは直接触れておられない。
ただ時代順に掲載されているようなので、およそ慶長15、6年あるいは17年あたりの想定で書かれているのではないかという気がする。

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慶長15、6年あるいは17年あたり、というのは筒井定次の改易(慶長13年(1608年)6月)後で、藤堂高虎の時代である。

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書状の年代が慶長15、6年あるいは17年あたりで正しいとしても、それによって直ちに製作年代がその年代になるとはいえない。
宗箇が懇願したのがいつ頃であったか? つまり織部が長く愛蔵していたものであったか、それとも焼けて間なしであったかということで製作年代に巾がでてくる。

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ここでは、織部は「名品茶陶」を戦略的に利用していた、常にある狙いをもって利用した、という風に考えているので、織部は宗箇にそれとなく見せびらかしていたのではないかと考えたい。

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経験のある方も多いと思うが、ほしいと思うには長い時間はいらない。惚れてしまえば恥も外聞もない、という気持ちも理解できる。

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そのように考えると書状の年代から大きく遡らないのではないか、という思いもしてくる。

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筒井伊賀、藤堂伊賀との呼び方があるがいつ頃からそのように呼ばれるようになったのだろうか?

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前述したように茶会記に登場しているのは、
慶長6年(1601)1.29  伊賀焼の水指
慶長7年(1602)1.9   三角ノ伊賀筒
慶長7年(1602)5.13  水指伊賀焼
慶長8年(1603)4.29  伊賀焼水指
慶長8年(1603)5.23  伊賀焼ノ筒
慶長16年(1611)9.9  イカヤキ水指
であり、慶長8年(1603)5.23 伊賀焼ノ筒までが筒井氏の時代である。
慶長8年の伊賀焼ノ筒の後伊賀が登場するのは、慶長16年のイカヤキ水指の1回のみである。
茶会に登場する茶会そのものも極端に回数が減ってはいるが、それでもざっと数えて、水指だけで信楽が20回程度、備前が5回程度であるのと比べると異常な少なさといっていいだろう。

さむしろ

古伊賀茶陶が極めて特異な立場にあったということを現してはいないか。

さむしろ

花入も見てみよう。同時期の茶会における備前花入の使用は8回、信楽花入の使用が5回である。(いずれも手元資料によるもので、数字は傾向と考えてもらいたい。)

さむしろ

数的に少なかったとは考えにくい
所持者が茶会記に登場するような立場ではなかった、といえるのではないか。

さむしろ

慶長4年以降の茶会記では、伊賀花生「生爪」の上田宗箇こそ1度亭主として登場しているが、
伊賀水指「破袋」の大野治房、
伊賀花生「からたち」の前田家(但し、いつの時代に前田家に入ったかは定かではない。)、
志野茶碗「峰紅葉」の九鬼家(但し、いつの時代に九鬼家に入ったかは定かではない。)
を亭主とする茶会は見当らない。

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1600~1615間の茶碗について見てみた。16年間に古茶会記に記録されている茶会が60回、セト茶碗の登場が2回。志野茶碗の登場は、考古学的研究により1600年頃以降とされている。それにしては、それらしい茶碗が見当らない。

さむしろ

NO547の、16年間に古茶会記に記録されている60回の茶会に登場する亭主は48人である。
出典は松屋会記(久好)、宗湛日記、松屋会記(久重)であり代表的な古茶会記である。
その中で、前述のごとくであるということは、伊賀にしても志野にしても広く行き渡っていたということはなかったということがいえるのではないか。