白ヤキノ茶ワン(55)
さむしろ

慶長4年(1599)12月に「白ヤキノ茶ワン」が使われている。亭主は甲田法順という人だが、どのような人物なのかわからない。つづいて慶長6年(1601)11月に妙光院という人が「白茶ワン」を使ったとある。 会記はいずれも松屋会記(久好)である。二つの茶碗が同種のものであったかどうかわからない。

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志野茶碗はそのほとんどに絵があるが、無地志野が無いわけではない。従って「白ヤキノ茶ワン」「白茶ワン」が志野の可能性も無いわけでない。 白無地でなく、絵のある絵志野の可能性はまずないだろう。もし絵志野であれば、なんらかの覚書がありそうな気がする。

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無地志野について、「桃山陶の華麗な世界」(愛知県陶磁資料館)において、桃山陶の変革と創造と題して井上喜久男氏が概略次のように述べておられる。 大坂城における志野の出現年代は、調査地点によっては慶長3年以前の遺構に無地志野皿が認められる・・・。その他、・・天正3年に消失した根来寺坊院跡の焼土層から出土した無地志野皿がある・・・。

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ただそれらはいずれも皿であって茶陶ではない。 やはり、大坂城跡の発掘調査による、大坂城三の丸造営の慶長3年以降説を考えたい。

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NO552で「慶長3年以降説を考えたい」と書いた途端、次の記述を見つけた。 天正14年3・2、朝 セト白茶碗 亭主 曲音 これまで何度も見たところだが、気にも留めず読み流していた。 セト白茶碗は何???

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天正14年は1586年で、同年10月に初めて「宗易形ノ茶ワン」が登場した年でもある。 写真の左の茶碗(志野天目)のようなものがそれにあたるのではないだろうか。これより前に、古茶会記に「志野茶碗」が登場するが、それらは所持者の名をとったとされている。

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NO554の写真の内、右側の茶碗は造形がなされている。オリジナル物か陶工によるコピー物か、この写真だけではわからない。