ローソクの明かりで長次郎茶碗を見る(56)
さむしろ

以前、小山富士夫がローソクの明かりで長次郎茶碗を見て、その美しさに感動したという話があると書いた。
そのときのもう少し詳しい状況がわかったので紹介しよう。
昭和18年頃のある夜、鳥海育児、今東光の二氏が自宅を訪ねてきて持参の「あやめ」を見てくれという。
当時戦時灯火管制下で電灯がない。仕方がないのでロウソクをつけて見た。
自分は前にこの茶碗は見たことがあり、見事さは知っているつもりだったところ、何と灯かりの光に照らされたこの楽茶碗の美しさ「皮のような渋い肌もさることながら、起伏、ひずみの美しさ」に感嘆した。一夜明けて翌朝、日光の光でもう一度見てまた驚いた。昨夜見た美しさは霧のごとく消えてしまっている。
そこで、光について考え、昔の人は今のわれわれの知らない美を見ていたに違いないとの感を深くした。
以上である。

さむしろ

昔から、夜目遠目傘の内ということがある。少し影の中にあるほうが美しく見えるということはどうも真実のようである。
しかしこれを小山富士夫の話と一緒にしてはいけない。影の中におけば駄作が優品になるということではない。
安倍さんの作品には小山富士夫の言が当てはまる。朝晩、安倍さんの茶碗でお茶をいただくが、飲みおえた茶碗を台所に置くと、茶碗の裏側から入る光で陰影が生まれ、とてもいい表情になる。
明るさで見なければ分からない美があり、又、明るさに消える美もある、と著してあった。
このHPにある安倍さんの作品は陰影を意識して、その表情を見せてくれている。