武将達と茶の湯(57)
さむしろ

武将達にとっての茶はどのような存在であっただろうか。
武士の知らぬは恥ぞ 馬 茶の湯
恥より外に恥はなきもの
こんな話もある。
ある日、秀吉が黒田如水を茶会に招いた。如水は茶の湯を馬鹿にして習っていなかったので困った。しかし主命、いやいやながら茶室に入った。他に客はおらず、秀吉も茶を点てようとはせず、軍略の話ばかりだった。数刻たって秀吉がほほえみながら言った。「これが茶の一徳だ。もし茶室以外で、長時間の密議をこらしたら、人はいろいろと疑惑を招くだろう」と。
如水も「なるほど」と答え、それ以後茶の湯を学んだという。

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豊後の大友宗麟の弟晴英(後改名して義長と名乗る。)は瓢箪の茶入を所持していた。
弘治三年、毛利元就は大内の家督を継いだ大内義長を長門に攻めた。そのとき、元就は大友宗麟に貴弟の義長を助けようか、どうしようかといってやった。すると宗麟は、弟はどうなってもよいが瓢箪の茶入だけは譲ってもらいたい、と返答したので、元就はそのとおりにしたという。
ここでの瓢箪茶入は、天下六瓢箪の一つで、茶入の随一といわれたものだという。

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ある茶入の履歴
初花肩衝は、新田、初花、楢柴とならび称された天下の三名物の一つである。
足利義政(東山御物)-鳥居引拙-大文字屋宗観-信長-信忠(信長長子)-松平念誓-
家康-秀吉-宇喜田秀家-家康-松平忠直-松平正信-徳川綱吉(柳営御物)-徳川宗家
戦国の動乱、本能寺の変、夏の陣、明暦の大火などなどをたくみにくぐりぬけた。
この間名物狩り、政治的意図によって進上され、また恩賞として、また権威を誇示するものとして役割をもはたした。

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初花肩衝の話は、初花のみのことではなく、他の名物も同様であった。
秋月種実は、楢柴肩衝を秀吉に献上して首をつないだとの話だし、武将の意地で平蜘蛛の釜をあの世へ連れていった松永久秀の話もからも、武将たちの名物への思い入れが想像できる。

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信長は名物を秘蔵するだけでなく、戦功のいちじるしかった者に褒美として与えた。名物を与えるとともに茶の湯を許された。
秀吉は「御茶湯御政道といえども」これを許されたとき、その有難さは「今生後世忘れ難く」夜昼涙を流して喜んだという。
武将達にとって茶の湯を許されることは、一かどの武将として認められることであり、地位の向上、権威の象徴であったいう。

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上井覚兼日記 上井覚兼は島津の武将で、宮崎城主であるが、茶の湯日記の天正10年11月12日からの一ヵ年をみると70回の茶会を催している。かなりの回数である。
また道具を誇示した様子も察せられるという。
そして覚兼の茶の湯には、盤上の遊びと、風呂と、酒宴が結びついていたという。
地方にまで行き渡り、慰みとなっていたようである。
なかには次のようなものもある。
佐久間甚九郎は余りに茶の湯をやりすぎた。もしその百分の一でも武道に心がけていたならば、父信盛の失敗もそれ程多くあるまいものを、無益の数寄に・・・・。
と茶の湯に溺れた例もあげている。

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利休により侘茶が確立されるとともに道具の好みもかわり、
『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
とあるように、高麗茶碗が多く使われるようになり、形さえよければ「数寄道具」となるといっている。
このことは名物道具を持たなくても数寄道具を持てば茶の湯が出来るようになったともいえる。茶の湯が、特権階級のものから大衆化とまではいわなくとも、裾野を広げたことは間違いない。

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利休は、御成りの茶においても一切の虚飾を排して「侘び」の茶を主張したが、古田織部は利休の茶を学びながらも自らの茶の湯に対する考えを積極的に打ち出した。
1622年に秀忠の尾張屋敷御成りが行われた。
そのときの道具は、東山御物の堆朱布袋香合、秀吉旧蔵の南蛮芋頭水指、名物梶釜など、いわゆる名物茶道具ばかりであった。
利休自刃後30年ばかり経ており必ずしもふさわしい記録ではないが、名物は完全に見捨てられたということではなく、最高位クラスの蔵に納まったままとなり、中低位の茶の湯者とは無縁のものとなっていたと考えたい。

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秀吉が茶の湯を許されたとき、その有難さは「今生後世忘れ難く」夜昼涙を流して喜んだという話や、武将達にとって茶の湯を許されることは、一かどの武将として認められることであり、地位の向上、権威の象徴であったいう時代は、
秀吉が北野の大茶会で、
茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
と触れをだした1587年頃には、若党、町人、百姓を問わず茶湯を楽しむことは自由となっていたと思われる。
秀吉が秀次に家督を継がすため四ヶ条の教訓状を与えたというが、その中で、「茶の湯は慰みごと」だから、時には茶会を開き、人を招待することはよろしい、と書いている。
茶の湯は、信長の時代の「政道の手段」から秀吉の時代には「慰み」にその役割が変わった?

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若党、町人、百姓を問わず茶湯を楽しむことは自由となっていた、といっても茶の湯を楽しんだのは極一部一握りの権力者、富裕層とそれらに連なる人々であったと想像したい。
織部の時代になっても大筋において変わらなかったものと思われる。
織部の書状を見ると、茶入の蓋と袋の誂えの世話、
墨蹟の目利きと表具の仕立ての世話、
釜底の修理の手配、
茶入の目利、茶入用唐物朱盆の世話、
等々を織部が行っていたことがわかる。
名だたる武将あるいは商人であればあるほど、茶会を催して恥をかきたくない。立派な茶の湯者振りであったといわれたい、という思いが強かったのではないかと思う。
細川三斎でさえそうである。再々伺いをたてていることが書状からわかっている。
細川幽斎、三斎に仕えた松井佐渡守は、主君に代わって尋ね事、相談事をしていたと思われる。(NO273)
利休七哲の一人といわれる細川三斎でさえ、道具について織部に相談をしないと茶の湯ができなかったと想像させる。

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名だたる武将、商人が、織部を頼りとすればするほど、織部の茶の湯者としての地位と名声は高まる。
NO573で、『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
とあるのを紹介した。
特に注目したいのは、「形さえよければ数寄道具となる」といっている部分である。
私は、瀬戸茶碗は瀬戸黒茶碗ではないかと考えている。今焼茶碗は長次郎茶碗である。
山上宗二記が著されたとき、長次郎茶碗に造形がなされていたかどうかは不明である。1587頃であれば、あるいはなされていたかもしれないしまたなされていなかったかもしれない。
しかし瀬戸黒茶碗は造形がなされていた。しかも長次郎茶碗より先に誕生している可能性がある。
宗二は瀬戸黒茶碗に出会っていたはずである。しかし造形には触れず「形さえよければ」といっている。このことから、宗二は「造形」について聞いておらず、また気付いていなかったのではないだろうか。(あくまで瀬戸黒が存在したとして)

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「形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
頃合いさえよければ数寄道具であって、造形、景色については基準には入っていなかったとも読める。利休の作意だからこそ「成る程!」と茶の湯者達を唸らせたのかもしれない。
瀬戸黒のおだやかな造形、長次郎茶碗の気付かないほど静かな造形には、微かな波があることはわかってもその本質、意図に気付かないまま「これは利休殿のお目を通った茶碗」ということのみに気をとられ、造形から感じられる心地よさはそれとは気付かぬまま大事にしていた。

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利休の今ヤキ茶碗ということで、「利休」がついていることが大切であったのかもしれない。
そういえば現代でも家元の書付がないと茶会で使えないといったことがある。ものの良し悪しの判断がつかないため、書付の有る無しで判断する、そんなことがあったのかもしれない。
利休の亡き後、そうした利休の役割を織部が引き継いだ。

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慶長期になると、茶会記に登場する茶会の数が激減する。
 年  回
1592・・21   1600・・1   1608・・7
1593・・19   1601・・4   1609・・4
1594・・21   1602・・3   1610・・0
1595・・4    1603・・4   1611・・3
1596・・4    1604・・4   1612・・3
1597・・14   1605・・8   1613・・3
1598・・4    1606・・13   1614・・1
1599・・23   1607・・2   1615・・0
これをもって茶会が開かれなくなったとはいえない。
古茶会記の記録者が招かれた茶会が減ったというふうに考えたほうがいいだろう。
秀吉亡き(1598)後の豊臣と徳川との覇権争いが大坂冬・夏の陣で決着するまでの間、織部は、茶の湯を利用して、中間派、大坂方武将に対して大いに調略を行ったと思われる。
その手段としての、客組み、道具のやり取りが行われたと想像したい。
秀吉が行ったような、権力を誇示する茶会は皆無といってもいいのではないか。
疑心暗鬼のなかでは、自由に行き来する茶会はそんなに多くはなかったのではないだろうか。

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OLIBE 古田織部のすべて 久野治著 鳥影社に次の記述がある。
=関が原の合戦=
最後まで戦った三成の本体も午後には算(軍の誤りか?)を乱して敗走する。天下を二分して戦われた関ヶ原の合戦もあっけない幕切れであった。
これは戦前、家康が小早川秀秋等に内応をとりつけていた結果といわれる。家康は老獪であった。織部は隠居の身であったが、茶道の弟子にあたる常陸の佐竹義宣を東軍へ、調略したとして七千石加増をうける。

この記述の元となる出典はわからないが、多分そうであろうと思いながら読んだ。

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1600年代初頭、おびただしい数の美濃焼が焼かれたという事実もあるようなので、幅広い層で茶の湯が楽しまれたのも事実だろうと思われる。
織部も、大いに招き招かれ、道具の目利き、世話等等行ったことは間違いない。しかし、その実体は闇の中でほとんどわからない。